あらすじ
武士の切腹は宣教師の殉教に通じる。「義」は「愛」に呼応する――武士道とキリスト教の根幹には、驚くべき共通点があった。牧師である著者は、日本屈指の剣術家というもうひとつの顔を持つ。礼拝が終わると教会は武道場に早変わり、将軍家指南役を務めた小野派一刀流・第十七代宗家の稽古が始まる。「格好だけ良いのは本物でない」「魂とは私という人格である」……人の生死を問う二つの「道」を究めて得た、いま日本人に必要な智恵。
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Posted by ブクログ
■武士道とキリスト教
A.武士道は模範や心得であり、キリスト教は宗教という大きな違いはあります
ただ、どちらも人の死に方、生き方を真剣に問う「道」です。
そしてともに、死を前提にした生を考え、死に後にある生を教えています。
言い換えれば、どちらもいかに死ぬかによって生を見つめ、いかに生きるかによって死を追求しているのです。
B.「武」の字は「戈」を止めると書きます。したがって、戦いを止めることこそ、武の意味であると昔から説かれてきました。
C.武士道は勇気と犠牲の精神を重んじるが、キリストの十字架を思うとき、キリスト教の示す生き方がはるかにまさる。
従って、偏見を捨ててキリスト教に早退するならば、おのずからイエスの忠実なる僕となるならざるをえないのであり、明治初年多くの日本武士が信者になったのは、この精神によったのである。
D.武士道を持たないキリスト教は道徳的にもろい。
E.内村鑑三と同じ時代のクリスチャンで、後に同志社大学総長になった海老名弾正も、陽明学を学んでいたからこそキリスト教を受け入れることができたと主張しています。