あらすじ
◆こんな「モヤモヤ」ありませんか? ・断りたかったけどNOと言えなかった。 ・嫌だと言ったけど「あなたのため」と言われた。 ・意見が他人と違った時に自分が間違えていると感じる。 ・スマホを勝手に見られるのが嫌だけどやめてくれない。 ・好きなものを否定されると自分まで拒否されたように感じる。 これらは「境界線(バウンダリー)」で起きている問題です。日常の「モヤモヤ」や「しんどさ」から心と体を守るために、傷ついた自他の境界線を引き直そう。 【目次】はじめに──私の「生きづらさ」とバウンダリー/第1章 「バウンダリー」は「私は私」の境界線/第2章 もやもや、イライラの正体はバウンダリーの侵害かも?/第3章 こころの境界線を育む言葉と行動を知ろう/第4章 バウンダリーの侵害がひきおこす「生きづらさ」/第5章 傷ついたバウンダリーを引き直す/第6章 バウンダリーという視点で世の中を見てみよう/おわりに
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Posted by ブクログ
自他境界という言葉を最近知って、自分はこれが曖昧なのかもと思っていたところに、このタイトルの新書をみつけた。
「もし相手が自分にとって大切で、良い関係を続けていきたい相手なら、お互いに少しずつ不安と不本意を引き受け合う必要がある」「相手に伝わるのは行動と言葉のみ」「期待を相手に押し付け、自分の期待で相手を縛ろうとしてしまうのは、自分と相手との間にある境界線を踏み越える行為」
当たり前のことだってわかっているけど、視野が狭くなって人の境界線に踏み込んでしまいがちなので、気をつけなきゃと思った。
対人関係において両者がこのバウンダリーを大切に出来るならいいけど、そんなことないから、難しいなって思う。
Posted by ブクログ
独身未婚中年男性の自分が読んでみました。
いろいろ考えさせられました。
毒親、ではないですが。親が子どもにイライラをぶつけてしまうと、やはり子どもへの影響は甚大なようです。「親がイライラしていて、その原因が子どもにないときは、親が自分の責任でイライラに対処しなければいけません。そこで子どもに当たり散らしたり、態度でイライラを示したりすると、子どもと親の間の境界線は薄くなって、子どもは「私が悪いんだ」と考えるようになってしまいます」(p25)とのこと。
これ、親子関係以前に、大人は、自分の責任でイライラに対処しないといけないと、自分は考えているのですが、自分のこの考え方は、他罰的なのかなと悩みます。
この本は、人間は本来バウンダリー(境界線)を厚くしたり薄くしたり調整できる、とのことなのですが、自分はこれがバグっていて、自己の危機の時に厚くできなくて、親密な関係を築くべきところで厚くなってしまいます。なので、特に職場で、同じ部屋にイライラしている人がいると、それだけでメンタルに支障をきたしてしまいます。バウンダリーを厚くすれば全然問題ないのですが、どうやってもそれができない。改善しようと努めましたが、結局はできず、自分の心身を守るためには仕事を辞めるしか方法がなく、苦しんでいます。(もっとも、職場の人のイライラの原因が、自分の仕事のできなさにあったりすることが多いので、やはり原因は自分にあるわけで)
「「きいたふりして心の中でスルーする」」(p126)ができないのです。
また、「親子・家族あるいは教師と生徒といった関係から抜け出すことは容易ではありません」(p136)とありますが、これは職場も同じ。自分は幸い、独身独居で養う妻子がなく、貯金も少しあるので、短い間なら仕事を辞める選択は取れますが、それでも男性というのもあって、仕事を降りるという選択はまだ当分できません。
上記の、親が説明するというのもありまして、「「今、私(親)は仕事で疲れている。疲れの原因はあなたとは関係なくて、だけど普段のようにご機嫌ではいられないかもしれない。いつもより無口でイライラしているように見えて不安にさせてしまうかもしれないけれど、それはあなたのせいではないし、あなたに向けた者ではない」というように」(p26)説明することも有効だとしていますが、親のイライラがたとえ自分起因でなくても、子どもにとって親がイライラしている姿を見るのは気持ちのいいものではありません。子どもが、親も人間だと思ってくれればいいですが、幼い子ではそれも難しいと思うので、そうすると、やはり大人として、イライラした姿は子どもだけではなく、他人に見せないようにする(他人を不快にさせない)ことは必要な気がします。
「子どもが嘘をつく、必要な相談ができず苦しさを抱え込んでしまうとき、まずは大人の側が「もしかしたら私がこの子の信頼を損なうことをしたのではないか」と振り返る必要があります」(p102)、子どもが話してくれないのは、心配かけまいとする子の優しさもありますが、それってそもそも親に甘えられていないということですし、心配かけまいならまだしも、親が聞いてくれない、話したところで否定されるから言っても無駄、と思っていることがほとんどでしょう。
学校の、みんな仲良く、も幻想であると喝破しているのは痛快です。とりあえず最低限の礼儀だけ通しておけば深い付き合いはせずともよいとあり(p138)、本当にその通りと思います。ちなみに、自分の知り合いには後期高齢者男性に、嫌いな人には挨拶もしないという人がいますが、さすがにそれは、その年になってもそういう人はそりゃ孤立するわな、と思って、反面教師にしたいところです。
でも結局、自分は心の中でスルーできない「「自分の中に問題がある」」(p150)と思いますし、それは性格で、治す努力はしますが、おそらく治らず、一生苦しみそうです。「「変えなければならないダメな部分」」(p167)であることに変わらないです。
さいごに。あとがきで、著者の鴻巣先生が、ご自身の吹奏楽部経験は理不尽だったと語られているのは、いいことだなと思いました。特に「顧問の教師の誕生日には、部員がお金を出してプレゼントを買いました。練習の出来が良くないと顧問が不機嫌になって指導をやめ、部員が謝罪しないと再開しないということもありました」(p172)とあり、自分が通っていた高校の吹奏楽部で、吹奏楽部の友人がまったく同じ事を言っていたので、全国的にそうなのかと思いました。
理不尽な目にあったことを直視するのはつらい事実(p176)とあり、部活動の体罰が肯定されてしまう構造も指摘されています。
鴻巣先生は演劇への道を、親ブロックで諦めたそうです。現在はソーシャルワーカーとして、こうして本も出されて、多くの人の役に立っているかと思います。この、親ブロックをどう捉えるか。体罰肯定の文脈との関係を考えると、なかなか難しいところです。他人へ価値観を押しつけることはよくないものの、自分の中の咀嚼としては、変えられない過去はやはり、意味を変えるしかないよなと思う自分もいます。
これはもう、人間が存在する限り、永遠の課題なんでしょうね。
死ぬとき笑って死ねればいい、とは思います。
多くのお子さん、親御さん、先生方に読んでもらいたい本です。