あらすじ
本書は、死んだらどうなるのかを説く本ではない。幼少期病弱であった原体験、僧侶として多くの人の死に寄り添ってきた経験から、死とは何か、自分とは何か、そしてどう生きるかを問う一冊。
【恐山の禅僧が、現代に「死」を問い直す】
自分とは何か。
そして、どう生きるか――。
仏教の枠を超え
真正面から
「死」を問い続けることで
その輪郭が浮かび上がる。
本書は、死とは何かという根本的な問いに
正面から向き合おうとする試みである。
小児喘息で死と隣り合わせだった幼少期の原体験や、
僧侶として多くの人の死に寄り添ってきた経験を踏まえ、
死とは何か、自分とは何か、そしてどう生きるかを問う一冊。
死と向き合い続けることで、
苦しくてもどうにか生きていくための手がかりが見えてくる。
【目次】
第1章 「死」を問う
第2章 人は死をどう捉えているのか
第3章 どうすれば、死を受け容れられるのか
第4章 生きるとは、死につつあることである
第5章 他者の死と向き合う
第6章 遺された者と死者との関係を考える
第7章 仏教は死をどう捉えてきたか
第8章 死をめざして生きる
【著者プロフィール】
南 直哉(みなみ・じきさい)
禅僧。青森県恐山菩提寺院代、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店勤務を経て、1984年出家得度。曹洞宗大本山・永平寺での修行生活を経て、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で第17回小林秀雄賞を受賞。著書に『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)、『正法眼蔵 全 新講』(春秋社)など多数。
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Posted by ブクログ
だいぶ前に、”「死」とは何か”を読んだことがある。著者は大病を患い、その中で死と生について考え、その内容を講義するようになったと。
自分の読解力不足もあると思うが、どうにも、書かれていることになじめなかったのを覚えている。生と死のメリット/デメリットを比較し、死のデメリットは(概略)突然に生が切断されること、とくくってしまうのもどうかと思うし、故に生を充実されてポジティブに過ごすのが良い、とするのもすっと受け入れられなかった。生や死に良いも悪いも価値観を付与すること自体がどうなのか、と。
著者の南さんの本は大体買っているが、この本の中身も、今までの著作で語られてきたことをまとめなおした感が強い。新味がない、と言っているのではなく、それだけ、著者の中で考え続けられてきたテーマが時々に形を変えて現れているのだと思う。
著者の子供時代、病弱で死に近しい感じを抱いていた話はこれまでも語られてきたが、本書でも改めて述べられている。小さいときに死を身近に感じ、向き合い方のスタンスが固まっており、それ以降は表現の幅が増えてきただけ、とつづられているが、失礼な言い方ながら、それゆえに凄みが違う。死に向き合うために仏教を学び考えてきた人にとって、メリットなどというくくりで死をとらえることは浮薄と映るのではないか。
人間に自己というものはなく、他より課せられて「生まれさせられてきた」存在である以上、自己とは他とのかかわりの中でしか存在しない錯覚にすぎない。自己がない以上、輪廻も転生も存在せず、死とはそのかかわりが消失すること以外の何物でもないから、理解することもまた体験することも、よって死を語ることもできない。語り得ざることには沈黙するしかない。
このリアリズムのほうが、よほど、死を正しく取り扱っていると自分には思える。そして、理解しえない死を自覚するがゆえに、まだ死んでいない状態としての生が自覚され、それもまた理解しえないゆえに、そこに意味を付与する埋め草を求めたがる。人は、生が本質的に無意味(無駄だではなく、文字通りに意味を没している)であることを本能的に理解するがゆえに「退屈」を嫌うのだと(このあたり、暇と退屈の倫理学と対照すると面白い)。
そのうえで、死をより平安に受け入れるにはどうすればよいか。よくある「残された生を燃焼させる」系の物語を、著者は「死の回避」と呼称する。否定するわけではないが、これは死を後ろにして精いっぱい走り続け、そのまま吞み込まれる態度であると。死を受容するのではなく、残された人に自分の「生の証」を残したいという行為であるという。
そうできない者もいる(というか、その方が多い)。著者が語るのは、自らを大切に思わない、という一見ラディカルな方法である。自分に絶望する、自分を粗末にするのではなく、しょせん自己は他者とのかかわりにしか存在しないのであれば、欲を離れ、自分を離れ、ただ、他者と生きる際に必然的に生じる問題に取り組み続けること。これを著者は「放下」と称する。この生き方をし続けた果てに、自己という錯覚を分解することができれば、死は休息としてその人に訪れるであろう、と。
あるかのように自己を錯覚し、それに価値を付与しようとする作業を延々と繰り返すよりは、ずっと良い方法ではないかと思える。修行を通じて、この良い意味での自己の解体を行い続けるというのならば、正しく仏教は、著者の言う「死ぬ練習」なのであろう。