あらすじ
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「みんなちがって、みんないい」とは、いかなることでありうるのか?
最注目の俊英による人類学的考察。
■國分功一郎(哲学者)
「かつて、多くの者たちがその問いについて悩んでいた。だが、あきらめずに最後まで考えようとする者は少なかった。いま、あきらめずに考え続けた者たちからの贈りものがここに一冊の書物として現れる。現代の隘路から決して目をそらさなかった著者による渾身の一冊。」
■松村圭一郎(人類学者)
「文化相対主義は、なぜ人類学のテーゼではなくなったのか? 人類の多様性という視点に潜む矛盾はどう克服できるのか? 本書は、ポストモダン人類学から存在論的転回までの歩みを独自に転回しなおすことで、人類学者自身も言語化してこなかった難問に挑む。現代人類学がたどりついた理論的地平の最前線がここにある。」
SNSを中心に多様性の尊重が規範化された現代社会で、私たちは「多様性による統治」という新たな不自由を獲得しつつある――バラバラな世界をバラバラなまま繋げるための思考はどのように可能なのだろうか?
多様性批判の学として人類学を捉え直し、二〇世紀末からポストモダン人類学にいたる軌跡をたどり、二一世紀に提唱された存在論的転回までの学問的潮流を再考したうえで、「転回」のやりなおしとして「内在的多様性批判」を提示し、私たちにとって多様性というものがいかなるものであり、いかなるものでありうるかを思考する。
「本書の目的は、二〇世紀後半から現在までの文化・社会人類学の軌跡、とりわけポストモダン人類学から存在論的転回にいたる主な人類学者の議論を、多様性についての内在的な批判として提示することである。ここで言う「批判」とは、多様性を否定して同質性に回帰することを意味するものではなく、カントが「理性」に対して、あるいはむしろニーチェが「道徳」に対して行ったように、私たちにとって「多様性」というものがいかなるものであり、いかなるものでありうるかについて思考し記述することを意味する。」――本書「序論」より
【目次】
序論 このバラバラな世界をバラバラなままつなぐために
第1章 「彼ら」の誕生
第2章 「私たち」の危機
第3章 ポストモダンを超えて――ラトゥール×ストラザーン
第4章 創作としての文化――ギアツ×ワグナー
第5章 関係としての社会――ジェル×ストラザーン
第6章 多なる自然――デスコラ×ヴィヴェイロス・デ・カストロ
第7章 「転回」をやりなおす
あとがき
注/参照文献/索引
【著者プロフィール】
久保 明教 (くぼ・あきのり)(著)
1978年生まれ。一橋大学社会学研究科教授。大阪大学大学院人間科学研究科単位取得退学、博士(人間科学)。主な著書に、『現実批判の人類学――新世代のエスノグラフィへ』(世界思想社、分担執筆、2011年)、『ロボットの人類学――二〇世紀日本の機械と人間』(世界思想社、2015年)、『機械カニバリズム――人間なきあとの人類学へ』(講談社、2018年)、『ブルーノ・ラトゥールの取説――アクターネットワーク論から存在様態探求へ』(月曜社、2019年)、『「家庭料理」という戦場―――暮らしはデザインできるか?』(コトニ社、2020年)など。
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Posted by ブクログ
多様性の尊重が当然視される現在、「みんなちがって、みんないい」という考え方は、どこまでの多様性をどのように認めるのかという難題を生み出している。
かつて民俗誌研究は、前近代社会を近代的な枠組みの中で語ろうとした。その結果、対象社会を正しく理解できていないのではないかという批判が生まれた。前近代を「近代の発展段階」とみなす進化論的な立場と、文化ごとの価値を相対的にとらえる立場が対立し、研究の方向を問い直す必要が生じた。
単純な相対主義は「異なる文化は異なる世界の中でしか理解できない」という立場に行き着き、外部からの議論や理解を不可能にしてしまう。こうした課題に対して、進化論にも相対論にも依らず、動的な関係性を重視する新たな思想が登場した。本書はそれらの系譜を整理し、最終章では著者自身による再構築が示される。そこでは、多様性の有無(進化論的)でも、多様性の広狭(相対論的)でもなく、「多様性そのものを捉える枠組み」に視点を移す発想が提案される。
解説部分では各研究者の思想と具体的な事例が紹介されており、示唆に富む箇所も多い。ただし全体として難解であり、特に最終章は総論の方向性は理解できても、各論の展開は把握が難しかった。
特に印象に残った部分。
「人間も動物である」とは、人間と動物を肉体的に連続的なものと見なし、その差異を精神に求める近代的な考え方である。
一方、「動物も人間である」とは、人間と動物を精神的に連続的なものと見なし、その差異を肉体に見出す考え方であり、これはアニミズム的である。アメリカ先住民が動物の仮面をかぶる行為は、肉体的に異なる姿をとることで異なる世界を理解しようとする実践とされる。
この構図を現代のAI観に重ねると、AIの計算力と人間の知性を同列に扱う見方は、「人間もAIである」というナチュラリズム的視点ではなく、「AIも人間である」というアニミズム的世界観に近い。ただし、アニミズムが「かつて人間と動物の差異はなかった」と過去に向かうのに対し、AI観は「いずれ人間とAIの差異はなくなる」と未来に向かう点が異なる。
アニミズムは以前は別世界の思考と感じていたが、過去の思想体系として理解するだけでなく、これからの世界観の変化を考えるための手がかりにもなり得るという、文化人類学の面白さを知った。建築や政治など、異なる領域にアニミズム的視点を適用すれば、現代社会への新たな示唆が得られる可能性がある様に感じた。