あらすじ
日本初の近代的プールを作った伝説の教師。
大正初期の大阪府立茨木中学(現・茨木高校)で、当時の生徒だった川端康成や大宅壮一と一緒にグラウンドを掘って、日本で初めて近代的な水泳プールを作った伝説の教師がいた。生徒たちからは、親しみを込めて「デンさん」と呼ばれたその人の名は杉本傳(すぎもと・つたえ)。ドジョウやウナギが泳ぐ田舎のプールからは、その後、高石勝男(1928年アムステルダム五輪、800m自由形リレー銀メダル、100m自由形銅メダル、のちの日本水泳連盟会長、1964年東京オリンピック水泳日本代表総監督)ら多くの名選手が巣立っていく。遺族や関係者の証言、杉本家の蔵や茨木高校から発掘された膨大な資料をもとに、大正時代から昭和、戦争を経て、戦後に至る杉本傳の知られざる生涯を茨木高校OBである脚本家・演出家の大野裕之が描くノンフィクション。
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Posted by ブクログ
デンさんのプール
杉本傳~水泳ニッポンを作った男
著者:大野裕之
発行:2025年11月10日
小学館
日本で初めて学校プールをつくった杉本傳(つたえ)の評伝。
著者は大阪の北摂地区随一の名門府立高校である茨木高校の卒業生。その高校の前身は、デンさんこと杉本傳がプールをつくり、体育教員として勤務した旧制茨木中学校である。
著者とは、20数年前にお会いしたことがある(仕事、ラジオ番組でロングインタビューさせてもらった)。京都でミュージカル劇団を主宰し、若くしてチャールズ・チャップリン研究の第一人者と言われていた。当時はまだ20代の若き英才だった。
杉本傳は旧制茨木中学の卒業生で、在学中は成績全般にすぐれ、とくに美術と体育に抜きん出ていた。4年生時の席次は15番。日本体育会体操学校(現・日本体育大学)へと進学し、卒業後に家業の不動産業についたが、高給を放棄して嘱託の体操教師となった。
1889(明治22)年生まれの杉本傳は、大阪随一の繁華街である梅田の東エリア一体を持つ大地主の家に生まれた。神山町、堂山町あたりの東西500メートル、南北200メートルの大半が、代々庄屋を務めた杉本家の土地で、後に傳はその東半分を引き継ぐことになる。杉本家は、明治期に一体で菜の花を栽培し、菜種油を東京へ運んで売る〝石油王〟だったが、ガス燈が灯り始めると畑を埋めて建物を建て、不動産業へと転身していった。
傳は、当時としては珍しかったバイオリンを幼少期から弾き、茨木中学でプールをつくる際には大金を自腹で負担し、指導した水泳選手を含めた国際試合(オリンピックなど)の遠征費用も負担した。1911(明治44)年5月、茨木中学校着任時の初任給は7円、その時に傳が持っていたバイオリンは1丁15円だったという。
傳は大川が流れる地に生まれ育ったため、泳ぎは身近なもの。ところが、内陸地の茨木の生徒たちは泳ぎが得意ではない。そこでプールをつくりたいと思ったが、力になったのは加藤校長だった。
ただし、掘ったのは生徒達だった。当時、在校していた川端康成もその作業を経験しているという。生徒達も率先して作業に参加していく。水は近くを流れる茨木川から引いた。当然、魚も入ってくる。そのため、先生たちが釣りをするようになり、そうなると生徒達が遠慮して泳げなくなる。水泳部の練習中は釣りを控えるようにとの通達も出たほどだった。
また、春を前にプールからは水が抜かれて大掃除がなされることになる。生徒達は北摂からの雪解け水に震えながら作業をしたが、その時にとれるウナギ、ドジョウ、フナ、スッポンを料理して食べるのが楽しみだったという。さらに、傳は銭湯から中古の釜をもらいうけ、川の水を温めて流す温水プール化も実現した。まだ、東京のYMCAにしか温水プールがなかった時代だった。
傳はプールをつくっただけではなく、水泳の指導者としても優れていた。プールは競技をする水泳部員だけでなく、全ての生徒たちの体力づくり、泳力アップに役立てることを目的とした。近隣の人たち、他校の生徒たちなどにも開放を、みんなが泳げるようになることを願った。クロールをいち早く取り入れ、古式泳法が一番だとする強豪チームに対しても試合を挑み、高校、大学を相次いで中学生が破っていった。そして、日本記録を10代半ばの中学生が樹立していく。
国際試合にも出場、パリ、アムステルダム、ロサンゼルスといった五輪などで、日本人初の入賞、メダル、そして金メダルを実現していった。
茨木高校に引き継がれている自主性を重んじ、戦意を昂揚させるような教育もしなかった。それ故、大阪府の特高警察から睨まれた時期もあった。
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杉本傳:デンさん、旧制茨木中学校体育教員(旧制茨木中学卒)
加藤逢吉(ほうきち):大阪府立(旧制)茨木中学校初代校長、デンさんの提案を受けてみんなでプールを造ることに
杉本家
明治時代、神山町、堂山町あたりの、綱敷天神から新御堂筋まで東西500メートル、南北200メートルの大半が代々庄屋を務めた杉本家の土地
杉本甚助(1809-95)が江戸時代末期の庄屋で、現茨木市鮎川の辻家の娘のぶと結婚、長男甚吉をもうけたが、のぶが早世、妹のミネを後妻にし、伊三郎をもうける
杉本伊三郎は杉本家の東半分を相続して「東杉本家」として分家に。大阪市福島で石鹸製造業を営む富豪の娘・吉岡マチと結婚。長男豊四郎は早世だったが、1889(明治22)年10月22日に次男傳が誕生
太融寺創建
821年、空海がこの地にあった霊木から毘沙門天像を作って庵を結ぶ
822年、嵯峨天皇が行幸し、自らの念持仏である千手観音像を下賜して本尊に
843年、嵯峨天皇の第12皇子である左大臣・源融(みなもとのとおる)が境内を拡げて壮大な伽藍を建設、その名を取って太融寺に(創健)
綱敷天神
太融寺の鎮守社として嵯峨天皇を祀った神野太神宮だった。
901年、菅原道真が太宰府に左遷する途中に紅梅を見るため船の艫綱を敷いて座ったことからこの名になった。
道真は古くから道真に仕えた老臣白太夫の孫達にその場に留まるよう命じ、白江の姓を与えた。そこから56代目の禰宜、白江秀知氏が現在(取材時)に存在
1911(明治44)年5月、茨木中学校着任(体操の嘱託教師)。初任給7円。傳が持っていたバイオリンは1丁15円だった。
第2章
傳の水泳仲間には、
医師で水練教師の藤井正太郎(藤井家は秋田藩薬の龍角散を販売)
浜寺水練場の中尾保
がいた。
後にこの3人は、大阪水泳協会を設立した。
明治43年12月~44年3月にかけての運動場造成工事で南庭の土を採った跡に水がたまっていた。非公式に水泳場と呼ばれ始めた。
1913(大正2)年5~6月の造成で、周囲に木の丸太を打ち込み、茨木川で拾ってきた石で池の底を敷き詰めた。修築された水泳池は南北約20メートル、東西約16メートル、最深1.6~1メートルの日本初の学校プールは完成、6月23日にプール開きした。
*観海流:江戸時代末期に創始された泳法の流派。顔を水上に出したまま蛙足で進む平泳ぎに近い泳法
大正3年4~7月、さらに拡張工事、南北約30メートル、東西約18メートルに。
*周囲の田畑との境界に柵がなかったので、近所の農家が水泳池で洗濯をしたり肥だめを洗ったりして、衛生状態が悪かった。
大正4年9月1日、グランドに新しくプールを造成開始、生徒たちが体操の時間に掘ることに。9月7日から作業開始。大正4年11月に大正天皇の即位の礼と大嘗祭が行われる記念行事として。
11月10日の即位の礼にプールの形が出来上がったと傳は書いているが、実際は出来ておらず、翌年2月11日の紀元節に拝賀式だけ行い、翌日に試験的な湛水が行われた。
大正5年3月15日完成。長さ41.8メートル、幅27.3メートル、深さ1.2メートル、1.5メートル、1.8メートルの三段階。費用は970円。
*この時、中1に大宅壮一が在学、生徒日誌は大部分が残っている
*川端康成は中4で造成に参加していた
1916(大正5)年6月30日、初泳ぎ。
水泳場の効果は、生徒の体格に現れるなど、いいことずくめだったが、大阪府がいちゃもんをつけてき。許可を得ずに府の財産である学校の土地の形状の一部を変えた、という理由だった。御大典事業として水泳場をつくると報告していたのに。
加藤校長は自分が全責任を取るべく辞任を覚悟したが、みんなで知恵を出し合い、校友会組織が旧水泳場の隣地を購入し、それを無償で学校に貸し、埋めてグランドを作り直すので許してくれという手法だった。学校が土地購入すると勝手に埋めたりできないので、校友会組織を利用した。なお、購入費の半分は傳が出した。
大久保利武府知事から、なんとか許しを得た。
クレームをつけた内務部長の柴田善三郎は12年後の1929年に大阪府知事になったが、その頃には茨木中学のプールから多くのオリンピック選手を輩出しており、柴田は傳に「大阪府が管理する中学から、オリンピック選手が出なのは、私としても鼻が高いです。このプールを作った当時の加藤校長は立派な人です」と言った。
第3章
明治期に学校教育で競泳が始まった頃、東大は神伝流と水府流、慶應は水府流、学習院は小堀流、早大は向井流といった具合に水泳部は諸流派の師範を招いた。
1898(明治31)年8月31日、日本における初の国際競泳試合「横浜外人アマチュア・ローイング・クラブと水府流の対抗レース」が横浜西波止場で開催。古式泳法が勝利した。
1905(明治38)年、浜寺で「大阪湾10マイル競泳」
1911(明治44)年、東京芝浦の海上で初のタイムレースが始まる
1917(大正6)年5月、第3回極東選手権競技大会東京大会(俗に「極東オリンピック」、第1回は「東洋オリンピック」が正式名称)
1919(大正8)年4月、傳は「水泳五カ年計画」を立て、5年後のパリ・オリンピックを見据えた
1919年、茨木中学のプールは国際規格に則った50メートルプールとなったが、生徒が掘って茨木川の水を引き入れた手作りプールだったため、魚が迷い込んで来る。選手達はフナに体をつつかれ、鮎と競争しながら泳いだ。休み時間に魚釣りをする者もいて、先生が釣っていると生徒が遠慮して泳げないので、水泳部の練習時間に先生は釣りをしてはいけない、という妙な紳士協定ができた。
日本にクロールが入ってきたとき、「体力のない日本人にクロールは向かない」という主張も強かった。そういうなら、体力のある者を見つけ出して泳がせればいいのだ、と杉本傳は考えた。傳が選んだのは1年生の入谷(いりたに)唯一郎(ただいちろう)だった。
西宮の中田留吉選手に週2回、教えに来てもらっていた。本職は宮大工だったが、新しい泳法を否定しなかった。彼は、クロールは体力を消耗するので50メートルまでという当時の競泳界の常識に従い、体力のある入谷でも70メートルをクロール、残りを日本泳法で泳がせることにした。しかし、ある試合で入谷は70メートルでトップに立ったものの、日本泳法に切り替えた途端に追い抜かれたため、傳は入谷に相談して100メートル全部をクロールにすることに。
1919(大正8)年に鳴尾川のよどみで行われた中学校競泳大会で、1年生の入谷はクロールで100メートルを泳ぎ切り、見事1着でゴールしたものの、両手でタッチしなければいけないというルールを知らず、左手でタッチし、右手で顔を拭っていたら、後から来た別の選手に優勝をさらわれてしまった。
入谷の練習を「どないしとるのや」と観察していたのは、1924年のパリ五輪で初の入賞日本人選手、1928年のアムステルダム五輪で初のメダリストとなった高石勝男だった。地元の北野中学ではなく、茨木中学に。
プールの準備は毎年2月に1度水を抜いて水泳部の部員で清掃することから始まる。寒い中の辛い作業だが、この時に取れるウナギやドジョウやフナ、時にはスッポンをみんなで食べるのが生徒の楽しみの一つだった。
1920(大正9)年、五カ年計画2年目、練習タイムが当時の日本競泳記録とあまり違わないか上回っているのが不思議だったため、高校生に練習試合を申し込むことに。中田は旧知の神戸高等商業学校(現・神戸大)水泳部にプールに来てもらった。強豪で鳴らした神戸商高の生徒達は、13歳の高石はじめ中学生に誰一人勝つことが出来なかった。
同年8月、東京帝国大学主催「全国競泳大会」(伊豆の戸田(へだ)で開催)へ。
50メートル自由形:入谷4位
200メートル自由形:大会新記録で入谷1位。
100メートル自由形:入谷2位
100メートル背泳ぎ:石田が新記録で1位
200メートル平泳ぎ(胸泳):石田1位、吉田2位
→東大を押さえて総合優勝を果たした茨木中学
第4章
(全国競泳大会総合優勝後)
同年8月28-29日:大日本体育協会水泳部主催「第5回全国大会」@神奈川県生麦三笠園の池
・200メートルと400メートル自由形で入江が1位
・100メート背泳ぎで石田が1位だったが・・・
石田は200メートル平泳ぎで古式泳法の2位に大差をつけて1位だったが、泳法違反を理由に失格とされた。抗議すると反論できずに優勝になる。だが、後日、なぜか失格になっていた。
第5回極東選手権競技大会(極東オリンピック)
1921(大正10)年5~6月、@上海
入谷唯一郎、石田恒信の出場が決定済みだったが、最初は加藤校長が夏休みではないため反対した。しかし、心の中ではOKしていて、あえて勇退し、次の校長から許可が出すという形にした。
・和装制服に運動靴で入場行進。
・100ヤード背泳ぎ:石田が銅メダル(茨木中学生で初の国際大会メダル)
・帰国後、2人はアイドル的な人気に
1921(大正10)年11月~翌年2月、プール改修
・板囲いだった壁をコンクリートに。生徒が茨木川で小石を拾い、セメントをこねる。仕上げだけ左官。
1923(大正12)年、第6回極東選手権競技大会大阪大会(通称「極東オリンピック」)
5月にピークをもっていくのには3月上旬から練習開始が必要だったが、北摂の山々から雪解け水が流れ込み冷たい。温水プールは東京のYMCAのみ。そこで臨時温水プールをつくることに。
1月から作業開始、プール西側部分をコンクリートで一時的に区切り、その周りに風を防ぐ板囲いで天幕をはり、茨木川の水をかまどで温めて流すことに。プロの左官が驚くほどうまくセメントを生徒達がこねる。かまどは近くの尖塔から中古のものをもらってきた。
水温8度がボイラー近くでは25度まで上がった。ライバルたちにも新施設を開放した。
第6回極東選手権競技大会@大阪・築港プール
・日本代表39人中16人が茨中勢(在校生14、卒業生2)
・440ヤード自由形:エースの5年生高石勝男が金メダル
・1マイル自由形:高石が金メダル
・100メートル自由形:5年生入谷が金、5年生木村義孝が銅
・200メートル平泳ぎ:石田恒信(卒業生)が金
・100メートル背泳ぎ:4年生上田治が金
・リレー:全種目で日本が優勝、後の映画スター鈴木傳明もいた
・50ヤード自由形と100ヤード自由形:浜名の小野田が金
・総合優勝は日本、茨木中学が日本の得点の過半を勝ち取った
パリ五輪(1924年)
・前年(1923)に関東大震災、日本唯一の常温温水プール(神田YMCA)が使えなくなり、体育館が避難所に→五輪参加がなくなる不安
・1924年に水泳競技日本代表監督に杉本傳が就任、参加できることに
・茨木中学=自由形高石勝男、平泳ぎ石田恒信が出場
・水泳日本代表は4/27に乗船、途中、門司と上海で一時下船して練習、5/3~6/6(マルセイユ)まで下船できないため甲板に7.12メートル×4メートルn簡易プールをつくって練習(ターン練習中心)
・五輪史上初の現在と同形式での開会式、杉本傳と6人の日本水泳選手が入場
・1500メートル自由形:小野田(浜名のエース)は棄権、野田一雄(浜松商)は予選落ち、高橋勝男は決勝進出し5位で日本水泳史上初の五輪入賞となる
・100メートル自由形:高石が日本記録更新して5位入賞
・200メートル平泳ぎ:石田が予選落ちも日本記録
パリ五輪後、傳はヨーロッパとアメリカを漫遊してハワイ経由で帰国。ウィーンの森のことを生徒たちに話すと「茨木がウィーンのようになればいいなあ」。そして、財産を使って楽器を一揃え購入し、茨木中学に音楽部を創設、それが現在の気原木高校吹奏楽部の前身となった。関西の学校初のブラスバンド部。
1924(大正13)年10月、プール南側の側面もコンクリートの改築。12月~翌年2月にかけて飛び込み用にプールの東部分を5メートル掘り下げる工事。いつものように生徒の作業が便り
1925(大正14)年5月、1メートル、3メートルの飛び板、5メートルの高飛込台と水球の設備をくみ上げ
この高飛び設備で飛び始めた生徒をみて、当時2年生だった高階富士夫の素質を傳は見抜いた。翌年、高階は第3回日本選手権水泳大会の飛び込みでいきなり優勝した。
アムステルダム五輪(1928(昭和8)年)
・高階が飛び込みの代表に選ばれる(5年生)
・入江稔夫(茨木中学)も背泳ぎで選ばれる(5年生)
・傳は飛込コーチとして五輪参加
・卒業生の高石勝男も選ばれた
・100メートル背泳ぎ:入江が4位入賞
・3メートル飛板飛込:高階が9位入賞(日本人初入賞)
・100メートル自由形:高石が銅メダル(日本人初メダル)
・800メートルリレ-:日本チーム銀メダル(高石出場)
・男子200メートル平泳ぎ:鶴田吉行が金メダル(日本競泳初の金)、決勝に残った入賞4人のうち茨木勢が3人を占めた
大阪府は、勝手にプールを作ったことにかんかんになっていたのに、生徒がオリンピックに出ると態度をコロリと変えて補助金を出すようになっていた。
傳は次に水球と女子水泳競技に注力し始めた。「新しい競技」を求め「教育の裾野を拡げること」にこだわった。
同年(帰国直後10月)
国際水上競技大会@東京・玉川プール
入江は400メートルと200メートルの背泳ぎで優勝、世界新記録を樹立(アメリカ、スウェーデン、ドイツらの強豪選手を破る)
ロサンゼルス五輪(1932年)
高石:卒業生、選手ではなく男子競泳の主将として参加
入江:競泳背泳ぎ
阪上安太郎:茨木中学を出たばかり、水球で出場
田中慶雄:審判として参加、卒業生、極東オリンピック競泳で活躍
杉本傳:日本競泳の女子チーム監督として参加、42歳
・100メートル背泳ぎ:清川正二、入江稔夫、河津憲太郎が1~3位独占
・100メートル自由形、1500メートル自由形、200メートル平泳ぎ、800メートル・リレーでもメダル
・金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル2個
・女子200メートル平泳ぎ:前畑秀子が銀
・女子400メートル・リレー:5位入賞
・水球(初出場):4位入賞
傳は茨木中学を退職する際、偉大なパイオニアを顕彰するために茨木水泳団が彼の胸像を作り、校内に設置することになった。傳は後輩達の思いに深く感謝し、像の周りで一緒に写真を撮った後、気持ちは嬉しいがわしはそんな立派な人間と違うし恥ずかしい、プールを掘ったのは生徒みんなの努力だ、として設置を断り、自宅に持ち帰った。水泳団の一同はあっけにとられながら自分の鏡像を抱えて歩き去る傳を見送った。このエピソードは嘘か本当か不明だったが、著者は2019年に杉本家を訪れて床の間の隅に目立たないように置かれているのを確認している。
第5章
生徒皆泳を目指す茨木中学の指導は大勢の命を救った。卒業生である大宅壮一は、茨高創立70周年記念講演で、戦中に乗っていた輸送艦が撃沈されて投げ出されたが茨木中学で習った水泳のお陰で命拾いした体験に触れ、恩師の傳に感謝を述べた。
傳は「『歩くこと』はいまさらその効能を並べ立てることもありませんが、体育としては最も基本的な体力造り運動」だと記しているが、彼の言う「体力」には、知力や文化の力も含めた総合的な人間の力が含まれていた。
「肉体は野蛮的に、精神は文明的に鍛えよ」が彼の口癖だった。
1929(昭和4)年2月9日、茨木中学の水泳部卒業生を中心に茨木水泳団を結成し、傳がその団長になった。茨木中学生や卒業生だけでなく、茨中プールに集いそこで学ぶ水泳選手を横断的に組織する団体。
日本における水泳出身俳優の草分けは鈴木傳明。
中学卒業時に東京湾横断記録を作り、明治大学水泳部に入って主将、第6回極東オリンピック出場。日活京都撮影所に入って溝口健二監督『塵境』でデビューし、アイドル的な人気。日本代表選手の合宿で茨木に長期滞在していた時も町に溶け込んで地域の人に慕われ、映画界入りして京都に住むようになってからも、時折、茨木中学のプールに泳ぎに来ていた。
茨中のプールには、海外のスターも多数訪れた。ロス五輪直後の1932年に国際水泳大会が行われ、ロス五輪の男子10メートル高飛び込みの金メダリスト、エドウィン・ハロルド・スミス(アメリカ)、アムスデルダム五輪で銀のファリド・シマイカ(エジプト)、後にベルリン五輪で男子10メートル高飛び込みで金を取るリチャード・デゲナー(アメリカ)ら。シマイカは後に映画でも活躍し、ジョン・フォード監督の初期作『海の底』でハリウッドデビュー。ハロルド・スミスとともに「ダブル・ダイヴィング」(1939)という水泳映画に主演した。
ジョニー・ワイズミュラーは、パリとアムステルダム五輪で金メダル5個を取ったスーパースターで、下着モデルとして映画デビュー。『類人猿ターザン』が有名。彼が茨中プールに来たかどうか?
来日したのは、1928年、東京の玉川プールと大阪の築港プールで開催された国際水上大会の時だけ。彼は東京会場での100メートル自由形で1位、高石は3位だったが、続く大阪会場の直前に不出場を突然宣言、「出たら俺が勝つ。高石の故郷なので悪い」というのが理由だった。高石が出場を回避し、ワイズミュラーが優勝した。2人のライバル関係と友情を物語る挿話。
彼は10月23日の午後に茨木でゴルフをしており、その日に茨木中学を訪れた可能性がある。
第10回極東選手権競技大会
1934年、@マニラ
・日本、中国、フィリピンが持ち回りで開催していたが、1933年に建国したばかりの満州国体育協会が参加を希望
・1933年3月27日に日本は満州国不承認問題で国際連盟脱退、極東オリンピック参加希望もその頃に言い出しており、政治的意図があったことは見え見え
・中華民国は激しく反発し、第10回を持って当大会は終了に
茨木中学の競泳は、ロス五輪の前後から低迷の時代へ。
全国各地に強豪校が生まれたのと同時に、茨木中学プールの環境悪化があった。上流人口が増え、生活排水が流されて、プールに悪臭が。
昭和17~18年、傳は嘱託教員として一時的に茨木中学に戻っていた。教員が兵にとられて不足していた。学校は勤労奉仕や防空訓練ばかりで授業が成立しなくなってきた。
1938(昭和13)年度から、当時の菅沼校長は、それまで甲乙丙としていた学級の名称をあえてABCとした。当時の生徒たちは「世に敵国語の英語排斥の風潮があったが、語学を通じて民族を知る重要性を説かれた先生の言葉は印象的であった。文学からリベラリズムを、理科から自然界の面白さを戦争激化の中で学べたことは茨中ならではの有り難いことと思っている」などと書き残している。
第7章
1948年4月、旧制茨木中学→新制茨木高校へ
突然、5月24日から校舎を明け渡し、廃校直前のピンチを迎える。
校舎を別の中学(吹田市立第二中学校など)に転用することになり、近くの春日丘高校(元茨木高等女学校)の校舎に同居させられた。
実は、校舎の件は方便で、GHQが茨木高校を廃校にするつもりで、廃校承認の手続きまで済んでいた。
7月10日に関連する近隣4校のPTAにより茨高の存続が決定、無理な廃校はGHQも諦めたが、元の校舎への復帰は許可したものの、書類上では既には廃校になっているため、茨木高校の名称は認めず「三島野高校」という名になった。
(日本独立後、1955年に茨木高校になったが)
1948年に廃校を決めたのは、GHQ大阪軍政部教育部長だったジョンソンという人物だった。彼は1932年10月7日に茨中プールに跳込選手を招いた際、アメリカ水泳チームの一員として来校していた。そして、茨木チームとの水球での親善試合で敗北した。ジョンソンにとって屈辱だったようだ。16年前の意趣返しで茨木の名と茨中プールを消し去ろうとしたのだった。
茨中プールは、1960年後半になると、底面のコンクリートが割れ、地下水が噴き出すように。衛生的にも危険な状態になり、保健所から指導も。1969年、大阪府はプールの新設を決め、同年9月4日に旧プールの感謝祭が行われた。
1979(昭和54)年4月7日、傳は家族に看取られながら旅立った。