あらすじ
102歳の古老は、なぜ自ら命を絶ったのか? 東日本大震災、福島第一原子力発電所事故から15年 『安倍三代』の青木 理が満を持して放つ、3・11レクイエム
◆内容紹介◆
2011年4月11日深夜、東北の小さな村で、百年余を生きたひとりの男が自ら命を絶った――。厳しくもゆたかな自然に囲まれ、人と土地が寄り添ってきた村で、何が彼をそこまで追い詰めたのか。その死の背景を追ううちに見えてきたのは「国策」という名の巨大な影と、時代に翻弄される人々の姿、そして戦争の記憶だった。『安倍三代』の青木 理が静かな筆致で、現代日本の痛みと喪失をえぐり出し、美しい村の記憶と、そこに生きる人々の尊厳を描く渾身のルポルタージュ。
◆推薦◆
「この本は、ひとつの村の物語であり、同時にこの国の百年の記録である。」内田樹氏
「“この風景は私”と言えるほど土と人が結びついた暮らしを、原発事故によって断ち切られた人々の喪失が、本書には刻まれている。」藤原辰史氏
「貨幣による豊かさの名のもとに、共同体と暮らしがいかに壊されてきたか。その現実を、本書は静かに突きつけている。」田中優子氏
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Posted by ブクログ
東日本大震災、大地震、大津波、そして原発事故。それに関する本を読んでいるが、なかなかしっくりこない感じがあった。そして、2011年3月11日から15年を迎える。その事件と記憶をきちんと伝える必要がある。文字化することが難しい大事件だった。そのことを伝えるいい本がないなぁと思っていたが、本書は久しぶりに納得のいく震災、原発事故のドキュメンタリーだった。
「フランスの最も美しい村協会」の活動を知った松尾雅彦・カルビー社長(当時)が、カルビー関連会社のあった北海道美瑛町の浜田哲町長(当時)に提案し、浜田町長の呼びかけにより全国の7つの町村(北海道美瑛町・北海道赤井川村・山形県大蔵村・岐阜県白川村・長野県大鹿村・徳島県上勝町・熊本県南小国町)で2005年(平成17年)10月4日に任意団体「日本で最も美しい村連合」として設立された。結成されて20年となる。2026年1月の段階で57自治体が加入している。福島県飯館村は2010年に加盟したが、大震災の影響で退会している。
美しい村連合は、①自らの地域に誇りを持ち、将来にわたって美しい地域づくりを行うこと。②住民によるまちづくり活動を展開することで地域の活性化を図り、地域の自立を推進すること。③生活の営みにより作られてきた景観や環境を守りこれらを活用することで観光的付加価値を高め、地域の資源の保護と地域経済の発展に寄与すること。
日本で最も美しい村連合に加わっていた福島県飯館村の100年余生きた老人の物語である。
緩やかな稜線を描く山々に囲まれたのどかな田園に、その稜線を溶かすように朝の太陽がゆっくりとのぼり、陽光が田園に届き始める2011年4月12日に、1908年生まれの大久保文雄102歳は、自死した。大震災があって、1ヶ月後だった。嫁の美江子が、じいちゃんの部屋で発見した。なぜ?から本は始まる。
4月22日には、政府より飯舘村全域が「計画的避難区域」に指定された。
大久保文雄は、美しい村で、生粋の農民だった。この村で、生まれ育ち、ひたすら土と向き合って田畑を耕し、農業一本で生計を立てて家を支えてきた。心身に不調はなく、大きな持病も抱えておらず、足腰もごくしっかりしていた。まったく文句のつけようのないじいちゃんだった。常に柔和な笑みを絶やさず、面倒なことをほとんど言わず、感情を露わにすることもなく、声を荒げることなどもなかった。
地震当日は、大久保文雄は美江子に「ちいとばかり揺れたようだなぁ」といった。
停電になっても、「別にどうってことはねぇさ。暗くなったら寝ればいいし、明るくなったら起きればいいんだ」と言っていた。飯館村に放射能被害が明らかになり、計画避難の話が出てきた。
「なんだ、要するにオレたちもここを出て、どっかに避難しろっていうことなのか?」「でも、オレ、ここを離れたくねぇなぁ」そして、「ちいっと長く生きすぎたなぁ。イヤなもの見ちまった」と言った。
東日本大震災は、1900年以降の地球の地震で、4番目となるマグニチュード9.0の超巨大地震だった。 (チリ地震 1960年9.5、アラスカ地震 1964年9.2、スマトラ島沖地震 2004年9.1)
地震と津波による直接的な死者は2025年3月1日時点で、15900人。行方不明者2520人。政府が認定した震災関連死3808人。合わせれば、22000人を超える。建物の全壊は13万戸、半壊24万戸である。
そして、その地震と津波は、原発事故を誘発し、放射能が拡散し、雨によって飯館村に降り注いだ。
なぜ、大久保文雄は自死したのか?東日本大震災に伴う福島第1原発の破滅的事故が最大の引き金になった。飯館村の歴史、戦争体験、そして戦後の度重なる冷害に耐えてひたすら生きてきた大久保文雄の足跡を辿る。
大久保文雄は1908年生まれ。日露戦争終結3年後、誕生2年後に朝鮮半島の併合。日本の対外膨張が始まっていた。飯館村は、1902年から1910年は冷害にあい厳しい凶作続きだった。1921年頃に、農業は馬・牛耕を取り入れた。それまでは、人力だった。文雄は小学校を卒業して、就農した。稲作だけでなく、養蚕、炭焼き、葉タバコを営む。そして、文雄は田畑を広げていった。文雄の弟は1943年に20歳になり徴兵され、横須賀海兵団に入隊し、硫黄島で1945年3月17日に玉砕した。硫黄島では、21000人いた軍隊の生き残りは、1033人だった。文雄は、弟に対して申し訳ないと思っていた。
文雄の死後、除染された土のフレコンが沢山、畑に積まれていた。文雄と文雄の父が耕してきた宝物であった田畑が無惨にも剥ぎ取られたのだ。文雄は22歳の時にミサオと結婚した。文雄の息子、一男が1973年に美江子と結婚した。文雄は、黙々と土に向き合い耕してきた。
美江子の夫・一男は、地震当時膵臓癌の末期で、相馬病院に入院し、避難して新潟の村上市の病院に自衛隊により移送されていた。一男は父親文雄が死んだことも知らずに、膵臓癌で亡くなる。
美江子は、残され、そして文雄の獅子の意味を探り、文雄の尊厳を守る戦いをするのだった。嫁の美江子さんはすごいなぁ。「線香の1本でも」という言葉の意味が大きい。
語り継ぐべき、102歳の文雄の人生は、土に向き合いながら、土と共に生きてきた。関連死の数字では表せない一人の人生の重みを愚直に言葉にしていく作業に、圧倒された。語り継がれるべきいい本だ。