あらすじ
恋愛ではない場所で、この飢餓感を冷静に処理することができたらいいのに。「本当のセックス」ができない結真と彼氏と別れられない美紀子。二人は「性行為じゃない肉体関係」を求めていた。誰でもいいから体温を咥(くわ)えたいって気持ちは、恋じゃない。言葉の意味を、一度だけ崩壊させてみたい。表題作他一篇。(講談社文庫)
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男性的な性欲を持つ鶴子と女であることに縛られている梓と無欲な志保の女三人の話と、恋愛ではなく性行為でもない肉体関係を追求する結真と美紀子の話の「ガマズミ航路」のニ篇収録。サラッとした文章で題材のわりに生々しくなく読めた。地球との性交が興味深い。
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村田沙耶香の描く半分サイコパスな世界が好き。
自分で作ることをサボった人がいるから、変なことになるんだ、という考えには思わず深く頷いた。
村田沙耶香の描く主人公はどこかずれている(みんな多少は持ってるであろうずれの部分を大きく描いている)けど、そのずれを認識しつつ、飄々と、自分らしく生きてく姿がいい。
心にいつも村田沙耶香の文章と主人公をかえば、
人生もう少し楽しくなりそう
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自分の性の在り方を模索する二部作。
世界にはこと恋愛や性に関して強い強迫性が渦巻いているけれど、この小説に出会えたことで少し楽になれるような気がする。
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この作品を本当の意味で理解するには私はまだ経験が足りなすぎるけれど、村田さんの文体をとにかく楽しんだ。表題作の最後が少しピンと来なかったので、誰かと話し合いたい。
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表題作ともう一遍入っている。
村田氏の作品は2作目。私はいつも主人公じゃない、主人公から見ると苦手な、強めのキャラクターだな、と思う。こっちが常識なんだ、と振りかざして安心してる方だ。
若い頃は梓でも、年を取ればもう少し丸くなる。認められる。この年になってやっとほぐれてきた私は遅いけど。
3人にはずっと繋がっていて欲しい。
ガマズミ航海も好き。読んで良かった。この年までモヤモヤしてたものがスッキリするヒントを貰った気がする。
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「星が吸う水」も「ガマズミ航海」も女性の性欲を扱った作品だったが、どちらもとても面白かった。
本当に村田沙耶香は社会通念をぶち壊してくれる。「精液を出すまでがセックス」って誰が決めたんだろうね。まあそこまでしないと受精できないからそうなったんだろうけど。男は狩る気持ちで、女も狩る気持ちでセックスに望んでるのに、男は勲章で女は弄ばれたという判定になる。社会通念がそうなっているから。
本当に全文が面白くて、うわ最高だな……女の性欲に向き合ってくれる村田沙耶香大好きだ……と思いながら読み切った。
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表題作の「星が吸う水」も収録作の「ガマズミ航海」も、生殖行為では無いセックスのことを哲学する女性の話だった。生殖行為を抜きにすると自ずと表象されるのがセクシャリティで。そこの考察もなかなか面白かった。どちらも夏にピッタリだった!
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面白かったです。
村田さんの本を読んでると、いつもぐるぐると考え始めてしまいます。今回は「性」について、というより「性行為」について。
鶴子、梓、志保、結真、美紀子…どの人物の考え方に近いかと言われれば、わたしは鶴子です。女性だからといつでも被害者にはならないだろうし……と。でも、説教してしまいがちの鶴子が、それでも友人の恋愛観は尊重しようと言わないでいいことは言わないでおく、というのはとても良いなと思いました。
梓が一番分からないし、苦手。女の幸せは「結婚、出産」の人なんだろうな。
結真の瞬いた「ガマズミ」。「自分も皮膚に区切られた漆黒の空間だ」というのはとても素敵。自分の中に暗闇が、というのはいい気分です。生暖かい闇。
村田さんはとことん、思考実験の過程を描いてくださる。どこへ辿り着くのか、今回も興味深く読みました。
Posted by ブクログ
村田さんが描く性的描写(この作品に関しては性的だけど、性的じゃない描写も含め)は、嫌悪感がなく、綺麗だ。
セックスを題材にする作品は、性的描写が付き物。その性的描写は綺麗なものと汚いものがあると思っている。綺麗な描写は、登場人物が綺麗。人として変わっていたり、クソみたいな人間だとしても、どこか感情移入できるんだと思う。
この作品は2つのストーリがあり、どちらもアラサーの女性が主人公。自分は男だが、年代は重なる。
独身のアラサー。この作品を読むと、もっと自由に開放的になりたいなと思う。
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この作家は、はじめて読んだが、なかなかに面白い。女性がこんな風に思うのだな、と言うより性別を超えている、ザ・村田沙耶香という感じ。クセがつよいんじゃ、か。
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村田沙耶香の中長編の第4作目の作品。
『コンビニ人間』『消滅世界』、そして処女作の『授乳』から上梓順に『マウス』『ギンイロノウタ』と読みすすめて本作は僕にとっては6作目となる村田沙耶香作品。
本作は表題作の『星が吸う水』と『ガマズミ航海』の2篇が収録されている。
この2作とも通常の『セックス』に疑問、あるいは違和感を持っているアラサー女性が主人公である。
『星が吸う水』の主人公・鶴子は、セックスを『狩り』として楽しんでおり、飲み会で年下の男性を「お持ち帰り」し、自分の欲求を満たすような女性であり、そこには恋愛感情は全くない。それに反して鶴子の友人で同い年の梓は非常に保守的で「女性」として価値観をかたくなに守り、鶴子の「女性」を安売りするような行為に反感を持っている。
鶴子と梓の対比が非常に興味深い。
『ガマズミ航海』の主人公・結真にとってセックスは「本当のセックス」と「そうでないセックス」とに分かれている。「本当のセックス」を求めている結真だが「そうでないセックス」ばかりをしてしまっていることに罪悪感を持っている。そんな結真の前に現在の彼氏に身も心も縛られている美紀子という若い女性が現れる。そんな美紀子は「性行為じゃない肉体関係」を結真に求め、二人はそれを追求していく。
こちらも結真と美紀子との男性に対する生き方が対比され、小説として非常に完成している。
40をとうに過ぎた中年男子である僕が本書を読んだ感想なのだが、いろいろと考えさせられるものがあった。
確かにこの世の中には『愛のあるセックス』と『愛のないセックス』が存在するのは間違いない。
「男」という生物として極論すれば「セックスの相手は生殖に適した女性なら誰でも良い」ということもなきにしもあらずなのだが、この小説で描かれているのはこういった赤裸々というか、生々しいというか、女性視点からのセックスをこんな風に見せられてしまうと、セックスに対する考え方が180度変わってしまうくらいの衝撃を受けるのだ。
特に『ガマズミ航海』の主人公・結真の年下の彼氏(実際には結真はこの男性を『彼氏』だとは思っていない)が、どれだけ自分のことを好きであるかを試すためにいろいろな性的プレイを結真に求めていくのだが、その行為に仕方なく付き合ってあげている結真の心情描写を見せられてしまうと
ああ、本当に男って憐れだな~
と、男の僕でも思ってしまう。
男は、自分が俄然イニシアティブを握っているつもりでいるが、実際には女性の手のひらの上で転がされているだけの存在なのに、それに全く気がついていない。
ホント、なにやってんの、バカだねぇ
と、こんな風に見えてしまうのだ。実際そうなんだろうが(笑)。
このように本作では非常に開けっぴろげな性描写が繰り広げられるのだが、そこは村田沙耶香の真骨頂、他の村田沙耶香作品と同じように村田沙耶香の描く性描写には「エロティックさ」や「色っぽさ」は全くない(笑)。
村田沙耶香独特の美しい文章でこういった極めてリアルな性描写がひたすら描かれるだが、そこにはまるで性的な興奮は生じてこない。
それぞれのパーツは美しく、色っぽくもあるのだが、それを合体させると、まるで目隠しをして「福笑い」を完成させた時のような、全くもってあり得ない、めちゃくちゃなバランスになっており、思わず笑ってしまうというような感じと言えば分かりやすいだろうか。
そして今まで村田沙耶香作品6作品を読んできて、僕はふと気がついたのだが、村田沙耶香作品に登場する数々の『女性キャラクター』のことを僕はまったく『可愛い』と思っていないということだ。
もちろん外見的には若くて美人で可愛い女性達のはず・・・・・・なのだが(いや、いずれも文章なのでそのあたりは脳内で再現されるイメージの話ね)、小説を読んでいて、男として…ここは全男性というと語弊があるかもしれないので、少なくとも僕にとっては村田沙耶香の描く女性キャラクターを『可愛い』と感じたり『憧れる』という感情にはならないのだ。
これは何故なのだろう。
例えば、小川洋子さんの代表作の『密やかな結晶』や『薬指の標本』の主人公の「私」や『博士の愛した数式』の主人公でシングルマザーの「私」も、ものすごく素敵で『可愛い』女性達だ。
それに比べ村田沙耶香の描く『女性』はなぜこうも『可愛くない』のか・・・。
そこには小説の書き方としての一人称と三人称との違いなどというレベルではなく、もっとこう、根本的な男性心理に根ざした、男の心のものすごく深い部分にえぐってくるような違いがあるはずなのである。
これは僕が立てた一つの仮説でしかないのだが、
男は相手の女性のことを深く理解すればするほど、深く知ってしまえばしまうほど
相手に対する『好き』『好ましい』という感情が減っていく
のではないだろうか・・・・・・。
もちろん、これは極論である。
しかし、「男」は永遠に「女」のことは理解できない。
ここにこんな名言がある
『彼女というのは遥か彼方の女と書く。
女性は向こう岸の存在だよ、我々にとってはね。
男と女の間には、海よりも広くて深い川があるってことさ。』
加持リョウジ『新世紀エヴァンゲリオン』
だからこそ男はなんだかよく分からない「女性」という生物に対して探究心が高じて「恋」し「愛」するようになるのではないだろうか。
そう男は女性の「謎めいた部分」に惹かれるのである。
こう考えると、村田沙耶香の描く『女性』を『可愛い』と思えないのは、
男性が村田沙耶香の描く『女性』のことを完全に理解してしまうことができる
つまり言い換えると、
村田沙耶香は男性に『女性』のことを完全に理解させてしまえるだけの筆力を持っている
ということができるのではないだろうか。
これはとてつもない能力だ。
「どんな男でも恋に落ちてしまうような素晴らしく美しい女性キャラクター」を生み出すことができる作家はこの世界には掃いて捨てるほどいるだろう。
だが「どんな男も絶対に恋に落ちない素晴らしく美しい女性キャラクター」を描くことができる作家はそうはいない。
こういった面においても、村田沙耶香が唯一無二の作家であることは間違いないのだろう。
だからこそ、僕は村田沙耶香の描く作品にこれほどまでに激しく惹かれるのだ。
Posted by ブクログ
うーーーんうーーーん
あるようでない話やけど期待してるほどのぶっ飛びはなくて、部分的共感も自分はあんまりなかったかな。でも男を食うとか振り回されるとか、登場人物たちはめっちゃ真剣に向き合ってるんやなって思った。
この表紙がめっちゃ好き。
Posted by ブクログ
自分は特別な人間だと思っている(思い込んでいる)表現がうまい。周りから見たら滑稽。
性とはそんなに特別なものなのだろうか。
見たくないもの、見ないようにしているものを見せつけられる不快感。
梓に対してものすごい嫌悪感があったのは、おそらく自身のコンプレックスを刺激するから。
Posted by ブクログ
さすが村田沙耶香ワールドだなぁ
表題作を含む2篇からなる作品
いずれも「性行為」を扱ってます
ただ、この性行為ということを含めて、自分とはどんな人間なんだろうと
自分のアイデンティティって?
自分が「こうありたい私」と本来の自然で自分らしさが出せることってズレがあって、そのズレが息苦しさを生むんだろうと作品を通して感じました
もっと自由になれたらいい、もっと自由にしたらいい
性表現は多かったですが、そんなことを考えさせてくれる一冊でした
Posted by ブクログ
ここに出てくる大半の肉体関係は紛れもなく「男女」の異性間のものなのに、どうもその枠内に収まらないというか、枠からはみ出そうとする意思をずっと感じていた、セックスの脱構築。この真剣で切実な模索に救われる部分は確かにあった、私以外にも楽になる感覚をおぼえた人はいるはず。
Posted by ブクログ
これまで読んできた村田作品とは異なり、
主人公の目線だけじゃなくて第三者の目線で語られる部分がある。
それが不思議な感じ
性的な描写が多いけれど、私が慣れたのかそこまで嫌悪感などは感じなかった。
Posted by ブクログ
性の理論に未だ汚されていない絶頂 脳をペッティング(性的な愛撫)する為の手段として捉えるのが許せないと思っていた 薄い皮膚に包まれた暗闇なのだ
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著者の描く性は生々しくも淡々と機械的で変な官能さを感じないところが個人的に好きだ。
理解するには圧倒的に経験が足りないが、自分の理想とする性の姿を追い求める主人公たちは素敵だと思った。
Posted by ブクログ
【2024年5冊目】
性に纏わる2つの話。性の話というと、どうしてもどこかいやらしい感じになりそうなものですが、村田沙耶香さんの書かれる話は「生き物としての本能的な性」という感じがして、結構生々しい表現が多くても、なんだか淡々としているのが不思議です。
主人公はそれぞれ性について、人とはちょっと違う感覚を持った女性。二人が友達になったら仲良くなれそう。性を軸にして新たな価値観を探るのというのが、両話に通じることかもなと思いました。
Posted by ブクログ
本当の肉体関係はどこにあるのか?自分の絶頂のためだけに男を漁る鶴子。
あるいは、性行為ではない肉体関係を極めようとする結真と美紀子。彼女たちの行き着く先は。
その自由すぎる発想に驚愕します。しかも作品は13年前。今ほどLGBTとか浸透してなかった頃。少しは彼女たちが生きやすい世の中になっただろうか。
Posted by ブクログ
んーーーー
あっけなかった。
村田さんらしい表現は素敵だったけど、あっさりした終わり方でもっと後味を楽しみたかった作品だった。少し物足りない。
Posted by ブクログ
女性の性が難しく、鋭く、そして奇妙に描かれている。
村田沙耶香さんの世界の見え方に感嘆する。
描かれているシーンを想像すると、ただ女性同士で性的な関係になっているだけなのだが、その内部には二人だけの秘密があり、二人だけの世界が広がっている。
感性。
Posted by ブクログ
村田沙耶香の作品を読んだのはこれで3作目
前作は性を知らない女性たちが性を知ると言った感じの
「授乳」という短編集だった
今作は性に関しては理解があると言えるのだけれど
その性に対して複数の考え方があると言った感じの2話構成
官能小説と勘違いされそうだけど
女性が性に対して上手くいっていない
というよりは性的嗜好といったところが強く
絡んでくる話で
性に迷走している女性を描いている
読んでいてリアルな表現とかが
寛容じゃない人にとっては不快なところが
あると思うし
人によっては官能小説というかエロ小説を
読んでなんていやらしい!!
なんてことを言われかねない作品ではありました
ですがよく理解しようとすれば
女性の性に対する葛藤があるのだと
分かってきて
最終的には純文学を読んでいたのだ
と思い出させる終わり方になっていました
Posted by ブクログ
著者が提示する性の世界。男性読者は打ちのめされ、女性読者でもドン引きするかもしれない。それぐらいなインパクト! 自身の固定概念を覆される。でもこういう感覚、考え方をする方も一定層いるんだろうな。沙耶香ワールドに包まれよう!
Posted by ブクログ
今回はとくに性に対して強くかかれていました。
主人公の考え方は中々共感することが少ないですが、それでも読むことをやめれないから中毒性が強いです。
2つの話とも愛があってする行為ではなく
ただ単に自分のものを抜きたいからする行為。それが辞められない、だけどそれが自分の普通だから他の人に理解できなくても別に構わないんだと思った。
Posted by ブクログ
◯星が吸う水
ラストの砂利でのシーンに関する友人の感想が、悲しくなりました。どうしても理解の範囲外にある意見に対して歩み寄るのは難しいと痛感しました。鶴子の、自分が人と違う考えを持つからこそなのか、相手の考えをいつも尊重しようとしている姿勢を私ももっと持ちたいと思います。
◯ガマズミ航海
文庫本でいくつか話が収録している場合、似たテーマを合わせることがほとんどだと思います。ガマズミ航海を読み始めたとき、ああまた性についてかあと多少のまんねりを感じました。何となく、ほかの(まだ読んでいないものも多くあるので偉そうな考えだとは思うのですが)村田沙耶香作品でも性に関する描写が似ている気がして同じようなの読んだのになあ、と。村田沙耶香さんは読みやすい、まわりくどくない直接的な表現が多いように思うのですが性描写もそれで余計にワンパターンに感じてしまいました。
ただガマズミが星吸うと異なるのは性に疑問を持つ主人公に共鳴してくれる人が現れることです。村田沙耶香作品では主人公が突出して奇抜なイメージがあったので、2人が同じ方向に向かう本作は新鮮でした。
Posted by ブクログ
「星が吸う水」
性や恋愛への考え方の違う3人が、お互いがお互いをそれぞれの方法で思いやりながら、分かって欲しくてすれ違う。30代女性3人の友情物語のような。分かってもらいたくて、近づこうとすればする程、分からない相手は遠ざかっていく。それぐらい違うなら、多少ムキになってでもぶち壊すなにかが必要なんだろうなぁ、なんて思う友情的な?ラストが村田さんの作品の中では新鮮にも感じた。わざわざ作ったオーダーメイドの性の形を隠さなくてはならないのには、私も納得できない。
「ガマズミ航海」
性行為じゃない肉体関係をしたい。それってなんなの?と思う反面、気持ちは分からんでもないとも思う。セックスをすれば深い関係になっただとか、煩わしいと思う。結局のところ、性行為じゃない肉体関係=ガマズミを実際にするのは難しそうだけれど、そういうものを必要とする人ってきっと増えてきてるんじゃないかなぁ、なんてのは空想だろうか。
村田さんの書く「死」には生の熱がすごく詰まっているのに、性はなんだかいつも中立というか無機質というか。あまり熱っぽさを感じない。これだけ「性」を押し出した作品だからこそ、村田さんの他の作品ほどの狂気や熱量を感じなかったのかなぁ。
Posted by ブクログ
私たちは性欲=性行為(セックス)と愛(親密性)を否応なく結びつけてしまう。愛がなければ性行為をしてはいけないし,性行為をするならば愛がなければいけない,と。それこそが「本物」であり,それ以外は存在しないと考えてしまう。
でも,果たして,そうなのであろうか。「本物」とは「偽物」があるから存在しうる。いや,「偽物」を「本物」だとみなすから「偽物」が存在するし,その意味で「本物」も存在する。たとえば,グッチの鞄の模造品を「グッチの鞄」とみなすから,「偽物」と「本物」があるように,性行為without愛を性行為with愛とみなすから,性行為without愛が偽物,性行為with愛が本物になる。本来は異なるものをあるモノと同じとみなすから,本物と偽物が生まれる。
それらは本来異なるものである。ただ,似ているだけである。グッチの鞄であれば,細く見ると,似ている部分と似ていない部分が目に見えるので,それらが本来異なるモノであることがわかる。しかし,性行為with愛と性行為without愛では,目に見える部分(性行為)が似ていて,目に見えない部分(愛)が似ていない。だからそれらは切り分けがつかない。ここに両者の難しさがある。
それらが本来異なることを知るためには,目に見えるようにするしかない。あるいは,身をもって体験するしかない。でも,どうやって?それがまた難しい。この点がそれらの切り離しがたさをさらに難しくしている。目に見えない部分が似ていないという難しさに加えて,目に見えるようにする,あるいは,体験することの難しさという二重の困難。
本書はこの二重の困難に正面から向き合う。性欲と愛の分かちがたさという自明のつながりを改めて問い直す。あるいは,人と人との親密なつながりについて,親密とは何かについて。あるいは,性欲について,愛について。
「本物」とはいったい何なのだろう。