あらすじ
これは、「遠い昔」や「遠い場所」の話ではない。なぜ、あの独裁者の台頭を許してしまったのか――。本書は当時、ドイツの街頭や酒場で起きていた「暴力」に着目し、それが共和国の政治や社会を蝕んでいった過程をひもとくことで答えを探る。ナチスの支配が、あるとき突然発生したわけではないことを明らかにする画期的な一冊。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
全然専門外やけど、ポイントはワイマール共和国で政治過程がクリーンになる一方で様々な政治的立場の対立による暴力の舞台が街頭に移ったこと。そして、共産党VSナチスの暴力は激化・日常化し最終的に後者が実権を握る。
ともすれば突然ナチスが現れたと思いがちやけど、この研究によれば違うんやな。
Posted by ブクログ
所謂「欧州近現代史」という分野の本だ。専門的研究による成果を一般読者に判り易く説くという「新書」らしい感じの興味深い内容である。
全く知らないという程でもない「戦間期のドイツ」だが、「そこまで?」と驚く他無いような様子も見受けられたということで、本書の内容をゆっくりと読んだ。本書に出会って善かったと思う。
本書は題名に「ナチズム前夜」と在る。第1次大戦後、ドイツでは帝政が廃されて共和国が起った。所謂「ワイマル共和国」である。そして1920年代の様々な経過が在って、やがて1930年代初めにヒトラー政権が登場し、ナチズムの体制ということになって行く。それを踏まえた題名で「主に1920年代頃の事柄や、ヒトラー政権登場への流れを論じているのであろう」と推定は容易だ。が、副題の一部に在る「政治的暴力」というのが少し判らなかった。
「政治的暴力」とでも聞けば、如何いう様子を思い浮かべるか。例えば、或る政党を背景とする集団が在って、その関係者が集まっている場所に、対立的な政党を背景とする集団の関係者が現れ、口論、罵り合いで騒然となって、そのうちに掴み合いの乱闘でも起こるというような様子を何となく想像する。その種の、纏まった人数での乱闘となれば、酷く重たい怪我を負う者が出る、更に死亡する者も出てしまうという場合も在るであろう。こういう感じでも「酷い暴力沙汰」というように思えるが、ワイマル共和国の時代にドイツで見受けられたのはこういう次元で済まない。
「こういう次元で済まない」としたが、起こっていたことは、例えば対立的なグループの関係者宅にピストルを提げて乗り込み、中に居た者を射殺するというようなことまで在ったのだという。こういうのは「マル暴が“ヒットマン”を放って敵対組織の者を消す」という映画か何かに在るような場面を思い浮かべる状況で、「政治的」も何も、単純に「暴力が荒れ狂っていた時期」が見受けられたという様子である。
本書は「ワイマル共和国の変遷」という糸と、「荒れ狂った暴力沙汰の変遷」という糸を組合わせて織り成した一冊であると思う。ワイマル共和国そのものは、第1次大戦後のドイツの国づくりという中、「帝政を廃して共和制とする」という宣言が出て起こった「革命」という状況の中から登場し、当時としては先進的な考え方も容れて歩み始めようとしていた。そこに「暴力」なのである。
本書ではワイマル共和国の局面に合わせて、性質が少し異なる「暴力」が在ったことを説いている。「暴力」にも変遷が在るのだ。1923年にナチスが起す「ミュンヘン一揆」の頃迄は、1918年に成立した共和国の体制が「未完の革命」であるとして体制転換を目指そうとする動きが左右双方から在って、それに伴う「暴力」が見受けられた。やがて各種の党派、党派を背景とする集団の行動の中で、「暴力」を伴う抗争事件が頻発し、街の一部の日常のようになって行くという時期が続く。そしてヒトラー政権の初期、ナチスの傘下である「SA」や「SS」が反対派、反対派らしいという人達を弾圧すべく「暴力」を行使している。
「ナチズム前夜」の政治の潮流の背後、または脇に「暴力」の変遷が在ったということを説く本書は興味深い。ベルリンの警察関係の記録や、同時代の人による日記や、様々な史料を駆使して「その頃のベルリン」を活写している感だ。対立する党派が抗争というような部分に関しては、街の日常に「暴力」が入り込み、酒場等が出来事の舞台となっているが、そういう様子が本書には詳しい。
ワイマル共和国が登場し、「未完の革命」を如何かしようという動きが在ったような時期は概ね100年も前だ。共和国が終焉へ向かって行く、ナチズムに覆われて行くような時期は概ね90年も前だ。そして荒れ狂った「暴力」という話しについては、寧ろ何かの映画でも思い浮かべるような状況だ。それ故に本書の話題を「遠い時代に遠い国で在ったという御伽噺」のように一蹴してしまうことも出来てしまうかもしれない。が、それは違うというようにも思った。
その辺に棍棒から刃物、更に銃に至る迄の武器を持っていて、対立する党派関係者と抗争を繰り返すというような者達が跋扈している様子こそ、現代のこの国では見受けられず、考え悪い。同時に、そんな様子は考えたくもないが。それはそれとして、何か「異見は許さない」というような空気感が高まる場合は無いだろうか。明確に「異見」と迄は言えずとも、何事かに関して「些かの疑問」を抱く場合は多々在ると思われるが、それさえも「押し黙らせようとする」というような場合は無いだろうか。或いは「ワイマル共和国」の経過は、「異見」を許さず、「疑問」も排除しようというグループが武装抗争をしていたという一面が在ったのかもしれない。そこから「独裁者」が育まれてしまい、色々なモノが破壊され、多くの不幸がもたらされてしまったのかもしれない。そういう様子を、「遠い時代に遠い国で在ったという御伽噺」と断じてしまうことが出来るであろうか。
本書は、取上げられている内容が或る種の「時代絵巻」のようで興味深い一面も在るのだが、それ以上に「遠い時代に遠い国であったという御伽噺」と断じてしまうことが出来るであろうかと、色々と考える材料が多いように思えた。最近は「政治が揺れる」というようなことも言われているのかもしれない。そういう中であるからこそ、こうした「酷く不幸になったと見受けられる」という時代の研究を基礎とする内容は尊い。広く御薦めしたい。
Posted by ブクログ
ワイマール共和国の成立から崩壊までの流れは何となくは知っていて、本書に出てくる年表に載ってるできごとも一通りは聞き覚えある。そんな状況で読むと酒場とか政治的暴力の話が新鮮。映画とかでもナチス支配下の話はあるけど、権力掌握過程ってあまり見たことないし。ナチス支配下の弾圧やなんかを経ての後から見ると「ナチス=悪、弾圧された共産党=善」って思っちゃってたけど、前段はともかく後段は少なくとも当時においては成立してへん、どっちもどっちなところもあったんやなぁ、と。
Posted by ブクログ
たった14年とはいえ、先進的民主主義国家であったワイマル共和国を、暴力の観点から捉えた本。ミュンヘン一揆までの国家転覆を狙う暴力、ヒトラー首相就任までのプロパガンダとしての暴力、ヒトラー首相就任後の国家による暴力と3つの時期に分けて解説する。暴力が日常的すぎる環境が描き出される。ナチスはSAによる暴力沙汰があった「のに」支持されたのではなく、暴力沙汰があった「から」支持されたという異常な文章が当時を物語る。しかしこの本の圧巻は序章と最終章にある。世界を敵と味方に二分する単純化を行い、身体的であろうが言語的であろうが暴力を用いて自己の工程と他者の否定を行う光景は、現代に通じる。その危うさと同時に、民主主義の脆さを、歴史を学ぶことによって再認識させてくれる一品。
Posted by ブクログ
ドイツ第三帝国の前身となることになったワイマル共和国について、歴史的展開を掘り下げてどのようにしてナチスの台頭を招いたのかを分析している本。
簡単にまとめるならば、過激派していく右翼左翼両方の激突により、政治の場は国会から奪われ路上の騒乱となった。
その混乱をおさめるために議会を飛び越した強権的な大統領令が濫発され、ヒトラーによる権力掌握の下地を提供することとなったのだ。
共産主義者の過激な暴力がそういった下地を招いた面もあり、ある意味ナチス独裁の成立に共産主義者も加担していると言えよう。
両陣営専用の酒場が市中に点在しており、政治活動の場やさまざまな事件の現場となった話は初めて知って面白かった。
いまではそういうコミュニティはインターネットにあるということだろう。
Posted by ブクログ
林健太郎の「ワイマル共和国」という良書がある。いまから約60年前に書かれた新書で、ということは戦後20年ほどしか経っていない。
タイトルの通り、ワイマル共和国の盛衰を描いているのだが、そちらはどこか他人事である。冷静で客観的といってもいいが、もはや戦後ではないと言わんばかりに距離をとって観測しているような文章だった。もしくは、過去のことを記録するために書かれた文章と捉えてもいい。
さて、本書は同じくワイマル共和国を取り扱っており、まだ書かれたばかりである。ワイマル共和国が崩壊してから100年近く経とうとしている。しかし、林健太郎の「ワイマル共和国」よりも危機感が充溢し、ワイマルとの距離が近いかのような文章なのである。
「あからさまな身体的暴力が言語的暴力に置き換えられ、街頭がSNS空間に移ったというだけで、ワイマル共和国の歴史は決して『遠い昔』『遠い場所』の話ではない。むしろそれは、自分たちとは関係ないと片づけられないアクチュアリティを今でも(今だからこそ)持ち続けている」
終章の最後に書かれている文章だが、たしかに本書を通読すると、日本を含めた現代の先進国を覆う雰囲気に近いものがあるような気がする。先に書かれている「言語的暴力」が身体的暴力に結びつくのではないか、という漠然とした不安が社会の無意識下にあるような気もする。
安易に、人や状況をヒトラーやナチに喩えるべきではないが、ワイマル共和国の盛衰と現代日本の共通項は少なくない。林健太郎の「ワイマル共和国」に続き、こちらも良書である。
Posted by ブクログ
本書は、1919年に最も先進的な人権規定を盛り込んだワイマル憲法の下で、ヴェルサイユ条約の過酷な敗戦条件を遵守しながらも、活気に満ちたワイマル文化を育んだ時代からどのようにファシズムへと突き進んでいったかを詳細に描き出している。
当初は「巷のケンカ」レベルだった左右両翼の反体制勢力が、ワイマル共和国に対峙しながら「体制転覆」を志向する暴力組織へと変質していった。一方、共和国政府側も特に左翼勢力に対して軍や義勇軍を導入し、容赦なく力で鎮圧。「ドイツ革命」「ミュンヘン一揆」を経る頃には、政治的闘争による犠牲者を出すような事件が「ありふれた光景」となり、ワイマル共和国の倒壊後はナチスと共産党の分断がさらに拍車をかけ、暴力的日常がドイツ社会に浸透していった様子が克明に綴られている。
特に注目すべきは、ナチス党の躍進が主に1925年から始まり、わずか8年でファシズムを成立させたという事実だ。丁度100年前の出来事であるため、2025年の現在から今後8年間でファシズムが成立していく過程を、現代社会と重ね合わせながらリアルに想像することができる。
経済的不安が広がる社会において、度重なる「巷のケンカ」から思想を共有する組織が生まれ、党派対立へと発展し、暴力が常態化して国家権力による近隣社会への暴力行使、すなわち戦争拡大へのエネルギーとなっていく過程を想像する材料になる。
ーー平和な時代は終わった
との見方が広がるEU。再軍備の波はドイツやEUだけの話ではない。選挙結果に不服であれば内戦も辞さない暴力的な米国・共和党支持者らも、100年前のドイツ人と重なる部分が多い。日本においても世界恐慌、昭和恐慌を通じて経済的な社会不安から五・一五事件、二・二六事件など軍部による暴力事件が相次ぎ、戦争の機運が蔓延していった歴史がある。
現代が同じ轍を踏まないという保証はない。社会不安から暴力が支配する空気へと変質していかないか、私たちは歴史の教訓を胸に注視し続ける必要がある。