あらすじ
特集は「だれのためのルール?」です。「~してはいけません」あるいは「~しなければなりません」。世の中に存在するたくさんの「ルール」。いったいだれが、だれのために作っているの? 童話欄はクリハラタカシさん作、加藤久仁生さん絵「さよなら大夏さま」。「絵本作家の元気のもと」欄には岡本雄司さんが登場です。
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Posted by ブクログ
今号の特集は「だれのためのルール?」で、読む前はあまり興味が無かったのですが、読んでみると、ルールがもたらす、それぞれの人生への大きな影響には決して喜ばざるものも多く、かといって、ルールはルールだからと納得せざるを得ないのか? そんなことを考えるきっかけになりました。
まずは法哲学者、住吉雅美さんの「ルールはなんのためにある?」の、タイトルの答えは『人が集団で生きていくため』であり、その種類は明文化されたものから、されていないものまで様々で、特に後者になると、ある文化の中に昔からある「慣習」や、人はかく生きるべしと説く「道徳」、人と人の関係でやってはいけないことを説く「倫理」と、この辺りは罰則にこそならないが、周りの人のことを思うという意味合いでは、人間性が問われているようにも感じられました。
また、イギリスで1215年に制定された、世界の憲法の元祖といわれる「マグナカルタ(大憲章)」は、『法によって権力者の暴走を防ぐ立憲主義の出発点』とも言われており、現在もイギリス憲法の一部と位置づけられているそうで、王も民も神の下にあるのだからという考え方には、なるほどと肯いてしまった。
そして、日本国憲法の変更を決められるのは、この憲法を『確定』させた我々国民で、政治家など権力者が自分の都合のいいようにねじ曲げることは許されないことも、ここに記載しておきます。
次に、「ルールについて思うこと」をテーマに書かれたエッセイでは、以前「母の友」で連載もされていた、フォト・ジャーナリストの安田菜津紀さんの「境目の向こうへ」が印象的で、以前読んだ、中島京子さんの「やさしい猫」を思い出させる、日本に暮らす日本国籍以外の人たちに設けられたルールについて、『社会に「安心」を求めるのであれば、困難な状況にある人をさらに追い詰めるのではなく、生活基盤を安定させることこそ必要なはず』には同感の思いで、入管に勤める方々って、世の中には色々な事情や条件で暮らさなければならない人達がいることを想像できないのだろうかと疑問に感じてしまい、実際に小説のような、人間の想像を遥かに超えた暮らしをしている方だって存在するのに、そこは、もう少し裁量に委ねられるものがあってもいいのでは? とは、確か「やさしい猫」でも書きましたが、今もその気持ちは変わらず、今回の安田さんのエッセイの場合、鬼ごっこをしている途中で小川の橋を渡らずに立ち止まってしまった、子どもの心に植え付けられた辛い記憶と重なったこともあり、より真摯に向き合うべき問題だと思いました。
そして、もう一つ同じテーマで印象的だったのが、「東京おでかけプロジェクト」代表の中嶋弓子さんで、そこで取り組んでいる簡単にはおでかけができない、病児の親や障がい児の親に眼差しを向けたのは、当事者の皆さんの『人の目が怖いから』という言葉に、『病気や障がいがある子とご家族がなかなか伸び伸びと暮らせないのは、それを阻む空気が社会にあるから』だと、改めて中嶋さんが思われたからであるのと共に、彼女自身、幼少時にアメリカで暮らしていたことから、帰国後の文化や空気感の違いに苦しみながらも、共感してくれる友達の存在が生きる支えになった経験を元に、今度は私が友達となって、そうした見えない空気を変えていきたい気持ちへと繋がったことに、人が人に支えられて生きていくことの大切さや素晴らしさを感じました。
最後に、長年保育の現場で子どもたちと関わってきた、「りんごの木」の代表を務める、柴田愛子さんの「子どもとルール」で、私にとって最も得るものが多く、早速ハッとさせられたことに、『ルールのことをお約束と呼ぶことがあるが、実際の園のそれは一方的なものが多い』があり、それは大人が決めたものを、子どもはただ守らなきゃいけないことになることから、『お約束と命令を混合する危うさ』があるそうです。
そこで「りんごの木」の基本は、『命を守るためのルール』だけ決めて、それ以外のルールは、毎年度クラスごとに子どもと一から作っていく感じであり、その理由は、子どもに『なんでやっちゃいけないんだろう』と自分で考える機会を準備してあげたい、柴田さんの思いがあって、それは子どもに、ただ「やりなさい」とか「やっちゃダメ」とか言っても、「はい分かりました」と中々ならないのは、自分の実体験として身を以て理解できないからであり、そこを「ああ、そういうことなら分かるよ」といった、自分の気持ちに置き換えれば納得してくれることには、世の中には色んな考え方や環境で暮らす子どもがいることを、理解することに繋がる素晴らしさもあり、こうした積み重ねは、きっと周りの人を思い遣る心も育んでいくのだと思います。
そうした理由から、クラスの子たちの実体験と共に生まれたルールは、その子たちがいなくなった時、一緒に無くなり、新しい子たちが入ったら、またゼロからのスタートになるそうです。
それから、柴田さんの話でもう一つ印象に残ったのが、『ここ20年くらいで子どもも親も「品行方正であらねば」というムードがいっそう強まっている』ことで、これについては私も心当たりがあって、柴田さんも書かれてますが、『たぶん親の世代も、自分たちが納得していないルールに耐えて従って育ってきた人たちが多い』のではないかに共感し、私の子ども時代は、まさに疑うことすら考えもしなかったような、今となっては、素直すぎて良かったのかななんて思いもしましたが、やはり、あれはちょっとおかしかったのではないかと振り返って感じたこともあります。
例えば、当時の小学校で一人がルールに反することをしたときに、クラス全員がビンタされたことがありましたが、それをする前に、なぜ反することをしたのかという問いは一切無かったことに疑問を感じ、そうしたモヤモヤに対して柴田さんは、『「決まりだから」の一点張りじゃなくて「聞く」姿勢をもって話し合うこと』の大切さを唱えていて、そこには『習慣や常識って、それぞれの家庭によってちょっとずつ違う』ことを知る大切さも含まれていた、集団で生きていくためのルールなんだけれども、その中の一人一人は皆が皆、異なる個を持った存在なのだということも、決して忘れてはいけないのだと感じたとき、本誌の「ひょうひょうかあちゃん」でもお馴染みの齋藤陽道さんのエッセイ、「私と私たちの憲法」の中に書かれていた、『ひとりの存在を大切にする。なんと素朴な思いでしょう』が頭を過り、そんな思いを込めた最高法規のある国で暮らしているんだということを、改めて強く意識させられたことによって、今後の様々なルールの行方を見守っていきたいと思いました。
最後の最後に、これだけは書きたかった連載について、一つだけ。
小幡彩貴さんの「kinderszenen」
盆踊りをする娘さんの可愛い踊り方に、子どもの生まれ持った奔放な魅力を知る。
(しかも川内倫子さんの「八月の光」から見事に繋がっている)