【感想・ネタバレ】SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術のレビュー

あらすじ

米Amazon脚本術部門で売上No.1のベストセラー、『SAVE THE CAT! The Last Book on Screenwriting You’ll Ever Need』がついに邦訳!!

「小難しい脚本術の分析書はいらない。シンプルで、しかも本当に大手映画会社が買ってくれる脚本を書くための最低限のコツを教えてくれ!」。本書は、プロにも素人にも役立つこと間違いなしの、売れっ子脚本家による脚本マニュアルです。芸術であると同時に、科学でもある脚本を支配する普遍の法則、本書のタイトルである「SAVE THE CAT !」とは、脚本の常識やストーリーテリングの基本的ルールを表す象徴的なシーンの意味を込めています。売れるために大切なのは大きなスタジオでも多額の予算でもなく、良い脚本を書くための法則に従って書くことなのです。

本書では、業界を知り尽くした筆者が、脚本仲間と一緒に長年蓄積してきた売れる脚本の黄金法則を、いつでも簡潔に、楽しく見直すことができます。ジャンル、プロット、構成、販売戦略、キャスティングなどの基本要素から、誰も教えてくれなかったハリウッドのDNAを受け継ぎ、ビジネスとアートのバランスをうまくとるコツを教えてくれます。映画だけでなくテレビや舞台、ゲームなど、ストーリーを扱うすべての人が必読です。

この業界で勝負するならホームランを狙うのが当たり前! インディーズ映画ももちろんすばらしいですが、メジャーな市場で大ヒットを飛ばしたいあなたのための超実践的な脚本術です。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

 とりあえずパンチのきいたログラインとタイトルができるまでは、脚本を書くのはおあずけと言った。つらいだろう。わかっている。でも最後には必ず報われるのだ。例を挙げてみよう。つい最近私はネットを通じて、ある脚本家とやりとりをした。彼のアイデアは良かったが、ログラインは漠然としていて私の心をつかむものではなかった。だから残念ながらページワン(つまりほぼ全面的に書き換えということ)だと言って、ログラインを送り返した。彼は不満そうだったが、私のアドバイスに従うことにした。
 彼はとりあえず自分のお気に入りのストーリー、目の前に浮かぶ鮮やかなシーン、繰り返し現れるモチーフなどを脇において、もう一度ログラインを書き始めた――おそらく、イライラするいやな作業だっただろう。でも彼は、ストーリーにマッチし、しかもすべての基準を満たすログラインを必死に考えた。試行錯誤を繰り返し、皮肉・観客層と製作費・イメージの広がり・パンチの効いたタイトルの入ったログラインを作ることに専念した。凝り固まっていたアイデアをいったん捨ててみたわけだ。そうしたらなんと(その1)、ログラインが変化したのである。するとすぐに、テスト・マーケティングの反応が良くなってきた。そうしたらなんと(その2)、ストーリーがログラインに合うように変化し始めた。そうしたらなんと(その3)、ストーリーが良くなったのだ! そう、ログラインってそういうことなのだ! 良いログラインができれば、登場人物は際立ち、ストーリーはより明確になり、脚本を書くのも楽になるのである。
 こうして彼はいろいろな発見をしたわけだが、なかでも一番良かったのは、修正しなかったら映画化したときに生じた問題(予算の問題など)を回避し、関係者全員の手間をあらかじめ省けたことだ。もしログラインを直していなかったら、ポストプロダクションの段階で問題が浮上し、解決しなきゃいけなくなる。それがどれほど大変な手間になるか想像できるだろう? そうなってからじゃ遅いんだ。だけどログラインの段階で完ぺきに直しておけば、紙だって鉛筆だって、一銭だって無駄にならない。誰かの頭を悩ませることもなく、みんなの雑務を省くことができる。そうすれば新聞の映画欄を見た観客は、友達に映画を説明しやすくなるし、映画の出来だってずっと良くなるはずだ。それはひとえに、「どんな映画なの?」に対してより良い答え(=ログライン)を出したからなのだ。

 何かを生み出すということは――映画のアイデア、登場人物の話し方、シーンなど何であれ――新鮮なひねりを加えるということだ。しかし、平凡でないもの、伝統を超えて一歩前進したものを作るには、まずはそれまでの歴史や伝統をよく知る必要がある。これまでに製作された何百本という映画、特に自分の書きたい脚本と同じジャンルの映画については徹底的に知っておくべきだ。
 ところが驚いたことに(!)、映画で身を立てようとしている人間が、映画の引用ができない、自分が書きたいジャンルの映画でさえも引用できないのだ。
 いいかい、言っておくけど、名監督はみんな引用できるんだ。
 スピルバーグ監督やスコセッシ監督がいい例だろう。彼らは映画について語るとき、何百本という作品からさまざまな引用をする。引用と言っても、「台詞がそっくりそのまま言える」ってことじゃない。「その映画がどう機能しているか、その仕組みを説明できる」ってことだ。映画というのは、感情を引き起こすために作られた複雑な機械みたいなもので、精巧なスイス時計のように、いくつもの歯車がかみ合ってチクタク動いている。これを部品に分解し、しかも組み立て直せるようにならなきゃいけない。それにはもっともっと歴史をさかのぼって、いろいろな映画の種類を知り、どんな系統にはどんな作品があり、どう発展してきたのかを理解しなければいけないのだ。
 つまり〈ジャンル〉である。
 さあ、成功する脚本を書くための次のステップだ。自分の映画はどんなジャンルに属すのか考えてみよう。「そんなの無理! 俺の映画は斬新だから、同じような映画なんてあるわけない! どのジャンルにも入らないさ!」なんて反論したって……。
 悪いけど、もう遅い。
 これほど数ある映画のなかで、どれとも違う映画のアイデアなんてまずありえない。本当だ。君が書こうとしている脚本は、必ずどこかのジャンルに入る。そして各ジャンルにはそれぞれ特有のルールってものがある。平凡でなく、《同じものだけど……ちがった奴》を作るには、自分の映画のジャンルを熟知し、ひねりの加え方を学ばなきゃいけない。それができれば、売れる可能性は高くなる。ハリウッドでは実際誰もがそれをやっているのだ。だったら知らない手はないだろう?

 とにかく、自分の作品がどのジャンルに属すのかを知ることは、脚本家にとってとても重要だ。なぜなら書いている途中で道を見失うことはよくあることで、そんなときにはスティーヴン・スピルバーグでも私でも、同じジャンルの作品を参考にし、プロットや登場人物からヒントをもらうわけだ。これは当たり前のことだ。同じジャンルの作品を〈ふるいにかけ〉、そのなかからプロットに不可欠な要素や必要なヒントを手に入れるのだ。

私が今悩んでいるのは、物語で起こる出来事ではなく――それはかなり面白い――それらが主人公にとってどういう意味を持つかという点なのだ。どんなに個々のセット・ピースが面白くても、主人公の成長につながらなければ意味がない。だから私たちは『オデュッセイア』や『ガリバー旅行記』のような《金の羊毛》のストーリーの根底にあるルールに立ち戻って、試行錯誤している。ストーリーをうまく動かすのは、出来事自体ではなく、出来事からヒーローが何を学ぶかだから。

《バディとの友情》には秘密がある。実は《バディとの友情》といっても、バディの仮面をはがせばラブストーリーだということだ。逆に言えば、ラブストーリーとはセックスの可能性がプラスされた《バディとの友情》だということだ。『赤ちゃん教育』(38)、『パットとマイク』(52)、『女性No.1』(43)、『トゥー・ウィークス・ノーティス』(02)、『10日間で男を上手にフル方法』(03)などはすべて――ジャンル的には――ローレル&ハーディを洗練して、バディの片方にスカートをはかせたものなのだ。そしてこのジャンルに即ずる作品も、ドラマであれコメディーであれ、セックスがあるにせよないにせよ、やはり同じルールに従っている。最初〈バディ〉はお互いを嫌っているが、旅をしていくうちに相手の存在が必要で、二人そろって初めて一つの完結した存在になることがわかってくる。そうは気づいても、こいつがいなきゃダメだなんたまったもんじゃない! ここでまた新たな葛藤が生まれるのだ。
 やがて結末近くになると、《すべてを失って》の瞬間(チャプター4で詳しく説明しよう)がやって来る。連れ添ってきたバディと喧嘩になり、あばよ! ってことになるのだ。ただしこれは本当の別れじゃない。お互いなくして生きていけないこと、お互いにエゴを捨てて仲良くするしかないことを最終確認するためのきっかけなのだ。そして最後の幕が下りるとき、二人は覚悟を決めるのである。
 バディのストーリーによくあるパターンを挙げてみよう。たとえば『レインマン』の場合、トム・クルーズとダスティン・ホフマンのうち、変化するのはトム・クルーズ演じる主人公だ。ダスティン・ホフマンのほうは、主人公が変化するきっかけを与える役回りであり、本人は変化したとしてもほんのわずかだ。どちらが変化するかは、〈誰のストーリーなのか?〉によって決まる。『リーサル・ウェポン』(87)も同じ例だ。あくまでもダニー・グローバーの物語であって、メル・ギブソンは彼が変化するためのきっかけにすぎない。メル・ギブソンの破滅的な性格も多少は改善されるが、観客の焦点はダニー・グローバーの変化に向けられている。きっかけとなる〈存在〉がバディの人生に影響を与え、去っていくパターンは、《バディとの友情》のなかでかなりの割合を占める。《少年と犬》(たとえば『E.T.』[82])的なストーリーもこのジャンルに含まれる。
 もし《バディとの友情》の脚本を書きたいなら、このジャンルの構成やパターンをしっかり理解することだ。DVDを何十本も見て、じっくり研究してほしい。こんなにパターンがそっくりだったんだ! と驚くはずだ。これってもしかして盗作? と思うくらいに。サンドラ・ブロックはキャサリン・ヘップバーンそっくりじゃない? ケーリー・グラントはヒュー・グラントを著作権侵害で訴えた方がいいんじゃない? 答えはもちろん、ノー。単にストーリーテリングがうまいだけ。じゃ、なぜこんなに似てしまうわけ?
 そのパターンだったら、必ずうまくいくってわかっているからだ。

 人間は一人では生きて行けない。けれど、集団になると、多数派の目的を叶えるために、少数派の目的は犠牲になることもある。一長一短なのだ。《組織のなかで》は、集団や組織、施設、〈ファミリー〉についてのストーリーを扱うジャンルである。主人公は自分の属す組織に誇りを感じる一方で、組織の一員として生きるために自分らしさやアイデンティティーを失うという問題も抱えている。
『カッコーの巣の上で』は精神病院、『アメリカン・ビューティー』は現代アメリカの郊外、『M★A★S★Hマッシュ』はアメリカの軍隊、そして、『ゴッド・ファーザー』(72)はマフィア一族という組織や集団についての物語で、どのストーリーにも予期せぬ登場人物が現れ、集団の目的が実は欺瞞であることを暴く。ジャック・ニコルソン、ケヴィン・スペイシー、ドナルド・サザーランド、アル・パチーノがその役割を果たしている。
 こういったストーリーが《組織のなかで》という一つのジャンルに括れるのは、組織や集団を動かす根源に狂気や自滅的なものがあることが多いという共通項があるからだ。〝Suicide is painless〟(自殺は苦しくない)と叫ぶ『M★A★S★Hマッシュ』のテーマソングは、戦争の狂気よりも群集心理の狂気を象徴している。なぜか人間というものは、ユニフォーム――軍服であろうと、ポロのロゴがポケットに着いた着心地のいいコットンシャツであろうと――を着ると、本来の自分らしさをなくしてしまうのだ。《組織のなかで》は、個人よりも集団を優先することの是非を描いている。これも原始人だってわかる系のジャンルだろう。集団に対する忠誠を誓えば、ときには常識を逸脱した行動をとったり、さらには自分の命すら捧げざるを得ないときもある。人間は大昔からずっとそうして生きているのだ。《組織のなかで》の登場人物の行動は、観客自身の行ないを映しているようなものなのだ。それくらいわかりやすく原始的だから、人気の高いジャンルなのだ。
 このジャンルのストーリーは、新しく組織に入ってきた人物(新人)の視点から語られることが多い。観客は組織に関して何も知らないという点で、この新人と同じ立場にある。たとえば『9時から5時まで』(80)のジェーン・フォンダや『アニマル・ハウス』(78)のトム・ハルスといった新人同様、観客も組織のしきたりや独特の言葉に馴染みがない。だから「この組織はどう機能しているのか?」という疑問をいだいた新人が、同じ疑問をいだく観客に説明することになる。こうして組織内の掟やしきたりがいかに重要かが明確になり、さらには組織の〈イカれた〉実態も次第に暴かれていくのである。
 要するに《組織のなかで》のストーリーは、〈俺とあいつらとどっちがイカれてるか?〉ということなのだ。集団のために自分を犠牲にすることがいかに狂気か……。『ゴッド・ファーザーPARTⅡ』(74)ラストのアル・パチーノの表情が象徴的だ。一族と〈伝統〉を守るため、ずっと自分を押し殺してきたのに、その結末は……。同じく象徴的なのは、『アメリカン・ビューティー』のケヴィン・スペイシーが真実を知るラストシーン、『カッコーの巣の上で』でジャック・ニコルソンがロボトミー手術を受けた後の表情だ。これらはすべて同じジャンルであり、観客に伝えたいメッセージは同じ。ただ、語り口や手法が違うだけだ。
 でも語り口や手法が違うのに、どの作品も成功しているのはなぜ?
 きちんとジャンルの原則に従っているからだ。
 《同じものだけど……ちがった奴》だからである。

 ストーリーにぴったりの主人公を加えると、アイデアやストーリーが本当に生きてきて、ログラインがふくらんでいく。それには主人公は次の条件を満たしているだろうか……。
 ◎設定された状況のなかで一番葛藤する
  ◎感情が変化するのに一番時間がかかる
  ◎楽しんでもらえる客層の幅が一番広い!
 三番目については、ついついやってしまう私の悪い癖がある。主人公を考えるとき、自分が四〇代なので観客も同世代のような気がして、私が魅力を感じる主人公は観客も魅力を感じると思い込んでしまうのだ。たとえば〈人生に多少嫌気がさしているが、まだ勇気と賢さを残す実存主義的な主人公〉。なんて魅力的な主人公なんだ! こんな主人公だったら、観客は喜んで映画館に来て……無言で出ていくだろう(本当にこんな主人公で映画が作れたら、フランス人は私のことを天才といって熱烈歓迎してくれるだろうね)。
 というわけで、私はすぐにティム・アレンやスティーヴ・マーティン、チェヴィー・チェイスが演じるような主人公を書きたくなってしまうのだ。でもすぐ現実を思い出す。ハリウッドがターゲットにしているのはあくまでも若者だ、と。スティーヴ・マーティンのような俳優は、アンサンブル作品やファミリー向け映画だったらOKだけど、主役としてはどうだろう? いや、ダメだ。難しいね。だからと言って、私がハリウッドの現実を変えられるわけでもない。じゃあ、どうするか……。実存主義的なジレンマに悩む主人公を一〇代の若者に変えてみたり、中年の危機を迎えた夫婦は二〇代の若い夫婦に変えてみたりする。映画館に足を運んでくれるのは、そういう世代なのだから。シネコンに足を運ぶお客さんが見たいのは、そういう映画なのだから。
 長いものには巻かれろって?
 とにかく登場人物の年齢設定は、私の弱点であり盲点である。ということは君の弱点にもなりうる。だからここでしっかり確認しておこう。私たちが相手にしているのは、誰もが楽しめるハイ・コンセプトな映画であり、国を超えた世界市場なのだ。だから自分の好みのタイプの主人公だったら、誰でも気に入るだろうなんて思いこんじゃいけない。以前、ある脚本家が脚本を売りに来たことがある。彼曰く、〈フリオ・イグレシアスの魅力が全開の〉最高の作品だそうだ――確かにそうなんだろう。でも公開初日に観客は映画館に来るだろうか?(かなり怪しいね)。だから何度も言うが、必ず赤の他人に自分のアイデアを話してみて、彼らの正直な反応を確認した方がいい。
 昔、親父がこんな話をしてくれたことがある。広告会社に勤めているときに、クライアントに日曜日のテレビ番組枠を買わないかと持ちかけたらしい。でもその大金持ちは結局しり込みして買わなかった。そのときの言い分はこうだった。「日曜日に家でテレビを見てる人間なんていないさ。みんな外でポロをやってるんだから」。
 やはり客観性は重要である。

 ログラインとは主人公のストーリーを簡潔に表現したものだ。主人公がどんな人物で、誰を相手に戦い、どんな動機を持つのかを一、二行でまとめたものだ。指針となるログラインを書くことはいい練習になるだけでなく、それを忠実に守ることはこれからストーリーを〈分解〉したり、実際に書いていくうえでとても重要なのだ。主人公と動機をしっかり押さえ、それから主人公を阻む悪役を押さえると、ストーリーに本当に必要なものが見えてくる。つまり、明確な主人公と悪役、はっきりした動機、最大の葛藤をログラインに数行で簡潔にまとめられれば、必ずうまくいく。あとはとにかく従うこと。脚本の書き始めから完成まで、いつでもログラインに沿っているかをチェックする。途中でもっといい表現を思いついたら、ログラインを書き直してもいい。とにかく〈誰についての映画か?〉をはずさなければ、途中で道を間違えることはない。構想から最後のフェードアウトに至るまで、ログラインは途中の計算ミスをダブルチェックするための大切な道具なのである。

 構成のしっかりした脚本では、冒頭から五分あたりで登場人物の誰か(たいていは主人公以外の人物)が問題を提起したり、テーマに関連したことを口にする(たいていは主人公に対して)。たとえば「よく考えてから願いをかけるのじゃぞ」とか、「奢れるものは久しからず」とか、「お金よりも大切なのは家族でしょ」といったセリフである。もしくはこれほどあからさまじゃなく、会話のなかの何気ないひと言として表現されることもある。主人公はこの時点ではその意味をはっきり理解していないが、やがてその言葉がとても重要な意味を持っていなことに気づくのである。
 これがテーマの提示である。
 よい脚本には必ず、脚本家の論点や主張がいろいろな形で提示されている。こんな人生ってどう思う? 君は賛成か、反対か? こんな行動、夢、目標には価値があるだろうか? 財産と幸福はどちらが大切か? 組織で優先されるべきは個人だろうか? まず最初にテーマが提示されるのだ。そして次に、テーマについての議論が展開される。主張に対する賛成意見、反対意見を吟味しながらさまざまな角度から問題をとらえたり、主張の是非を証明したりする。優秀な脚本はコメディーであれ、ドラマであれ、SFであれ、必ず〈何かについて〉主張している。しかも冒頭で! まず最初に自コメディーはっきりと表しているのだ!
 もし君の作品が〈何も〉主張していないとしたら、それはまずい。自分が言いたいこと、テーマは何なのか、よく考えよう。初稿が出来上がるまでテーマが曖昧だったりすることもあるが、よく考えて明確になったら、とにかく冒頭で主張しよう。私は必ず五ページ目で提示している。
 テーマは絶対に冒頭で。競売の最低額はそこで決まるのだ。
 テーマを宣言したら、次はそれを証明しようじゃないか。

 もう一つの記号><は、葛藤を表す。葛藤とは何か? シーンにたとえるならこんな感じだ。ライトがつき、部屋の両端にあるドアからそれぞれ人が出てきて、真ん中でぶつかる。二人とも、もう一方のドアに向かって進むという目的があるのだが、お互いの存在が邪魔になって前に進めない。これが葛藤だ。葛藤には物理的・肉体的な葛藤、言葉のうえでの葛藤もあるし、今にも漏れそう! トイレに行きたいのにいけないなんていう葛藤もあるが、とにかくどのシーンでも葛藤は最大でなきゃいけない。人間VS人間、人間VS自然、人間VS
社会といった、高校の国語の授業で習う基本的設定は、葛藤を考えるうえでいいヒントになるだろう。
 どのシーンでも、何が中心となる葛藤なのかを明確にしよう。誰がどんな問題を抱え、誰とぶつかっているのか? 各カードの><には誰と誰がぶつかり、なぜぶつかっているか(葛藤の原因)、そして最終的にどちらが勝つかを書いておこう。複数の人間や複数の原因が絡む場合には、当然葛藤も複雑になるし、シーンも複雑になる。だから一つのシーンには一つの葛藤でいい。一つで十分だ。葛藤が物理的なものか精神的なものか、問題は大きいか小さいかは別として、とにかく各シーンに一つの葛藤を盛り込むこと。どうしても葛藤がない場合は、そのシーンにふさわしい葛藤を作り出そう。
 なぜ葛藤が全てのシーンに必要なのか? なぜそれほど重要なのか? それは葛藤が原始的なもので(ほら、またこの言葉だ)、確実に観客の関心を引きつけるからだ。人間はもともと、葛藤している人間を見るのが好きなのだ。レスリングがあれだけの長寿番組になっているのは、人間同士が殺し合う(=生死をかける)という原始的な娯楽番組だからだ! どんな映画にも恋愛が描かれるのも、なんとかセックスしたいという根源的な葛藤に観客が魅力を感じるからだ! だから観客の関心を引きつけるのに、各シーンの根源的な葛藤は欠かせない。もし><が決まらないシーンがあったら、それはまだシーンとしては完成していない。だから……。
 葛藤を見つけるか、考え直してダメなら……カードを捨てよ。
 そんなカード、捨てても泣かなくていい。たかがカードなんだから。

 好感の持てない主人公は、明るいファミリー向け映画にだって登場することがある。もう何回か例に挙げたが、再び『アラジン』(92)をここでも取り上げてみよう。ディズニーはこの作品を煮詰めていく段階で、主人公があまり好感の持てない人物だという問題にぶち当たった。原作を読みなおしてみても、やはりアラジンはほめられた奴じゃない。わがままで怠け者。さらに悪いことに……こそ泥である! けれどもありがたいことに、ディズニーにはテリー・ロッシオとテッド・エリオットという名脚本家がいてくれた。私に言わせれば、ロッシオとエリオットはハリウッドで最高の現役脚本家だ(なのにほとんど無名! いったいどういうことだ。宣伝部は何をやっているんだ!?)。
 有能な二人はどうやってこの問題を処理したのか? そう、《危機一髪、猫を救え!》のルールに従ったのである。一億ドル超のスマッシュ・ヒットとなった『アラジン』の最初のシーンで観客が目にするのは、お腹をすかせたアラジンが食べ物を盗む姿だ。その後アラジンは、偃月刀を振り回す宮廷の護衛に追いかけられ、街中でさんざん逃げ回る(こうして逃げている間にストーリーの舞台や背景が簡潔に紹介されている。うまい手法だ)。やっと追っ手をまいて路地へと逃げ込んだアラジンは、早速盗んだパンを食べようとする。ところが目の前には同じくお腹をすかせた子供たちがいるじゃないか。するとアラジンはパンを彼らにあげるのだ。これで観客の心はアラジンと〈一緒〉になる。怠け者でこそ泥という原作のアラジンとは違うが、観客はこれで確実にアラジンを応援したい気持ちになる。彼のおかれたつらい立場を描くことによって、好感の持てない主人公にも観客が共感できるよう、ロッシオとエリオットが仕向けたからだ。だからこそ観客はアラジンを応援したくなり、勝ってもらいたいと思えるのである。
 肝心なのは、観客が主人公を好きになるような配慮をするということなのだ! 危険の迫った猫を助けるミエミエなシーンとか、道路を渡る老人を助けるわざとらしいシーンを入れろと言っているのではない。観客が主人公やストーリーに共感できるように配慮し、仕向けることが重要なのだ。ついつい主人公を応援したくなる状況を作って、見せなければいけないということだ。そんなこともしないで、自分の気に入ったキャラクター(たとえばララ・クロフトのような)だったら観客も気に入るのが当たり前なんて思い込むなんて、とんでもない。それは脚本家としてやるべきことをやってない。何の工夫もせず平気でいる映画もあるかもしれないが、とても優秀で良心的な脚本とは言えない。

《変化の軌道》とは、映画の登場人物はすべてストーリーのなかで変化するというルールだ。唯一変化しないのは悪役だけで、主人公やその仲間はみな大きく変化しなければいけない。
 まさにそのとおりだ。
 私はこの〈軌道〉という言葉が好きじゃない。映画会社の企画制作部のお偉方や、脚本術関係の著者がよく使う言葉だから。ただし、言わんとしていることは正しい(用語の好き嫌いは別として)。〈軌道〉とは、各登場人物の〈旅〉(これまたいかにも自己啓発っぽい響きの言葉だが)の始まりから中盤、結末に至るまで起こる〈変化〉のことである。彼らが変化したり、人生に影響を受けたりするほどの素晴らしいストーリーであれば、必ず観客の心は動く。実は太古の昔から、優れた物語にはいつでも登場人物全員の成長や変化が描かれているのである。
 それはなぜか?
 語る価値のあるトーリーであれば、当然そこに関わる人間はみな影響を受け、変化するはずだからだ。その際、登場人物の変化前の状態から変化後の姿まで(変化の軌道)をじっくり考えて描く必要がある。そういえば、『プリティ・ウーマン』(90)はこの良い例だ。登場人物全員の変化の軌道がはっきりと描かれている。リチャード・ギアも、ジュリア・ロバーツも、ローラ・サン・ジャコも――ホテルの支配人役のヘクター・エリゾンドまでも――このラブストーリーに関わり、心を動かされて、変化していく。唯一悪役のジェイソン・アレクサンダーだけが、何も学ばずに変化しないのである。
『プリティ・ウーマン』は丁寧に考え抜き、しかも《変化の軌道》のルールをきちんと守って作られたたヒット作だ。良い映画――笑って泣いて、しかも忘れられない映画、もう一度見たいと思う映画――はみなこのルールに則っている。
 それで? それで?
 ストーリーとは変化を語るものだと言ってもいい。変化できる能力がある人物かどうかで、人生の成功の如何が分かれる。善良な人間は、変化を前向きな力としてとらえ、喜んで受け入れることができる。一方、悪い人間は、変化を頑なに拒み、変われずに自業自得で死んだり、マンネリから抜け出せないままでいたりする。人生で成功するということは、変われるということなのだ。だからこそ、ストーリーだけでなく、世界中の主な宗教も変化という概念を基盤に成り立っている。変化は良いことなのだ。変化は再生や新たなスタートを約束するものだから。
 これが《変化の軌道》なのである。

《「やあ、元気?」「うん、元気だよ」》は、薄っぺらなセリフがいかに退屈で、スペースの無駄かを教えてくれるルールだ。平凡なセリフだったら、誰にだって言える。現実の世界でよく使うありきたりな言いかたを、そっくりそのまま使っているとしたら、それは登場人物を生き生きと描くための努力が足りない。だいたい会話が単調な場合、話している登場人物も薄っぺらなことが多い。
 魅力的な登場人物というのは、どこか人と違った話し方をするものだ。彼ら独自の言いかたがあり、たとえ日常的な話であっても、魅力を感じさせる言い方をする。登場人物のセリフというのは、内容だけでなく人となりを表すチャンスなのである。どんな話し方をするかで、登場人物の性格・過去・心の奥の本音・人生観などが表現できるのだ。
 登場人物が口を開くたびに、そういう特徴を表すチャンスだと思った方がいい。
 自分の書くセリフはそんなに退屈でも薄っぺらでもないよって思っている諸君、試しに私がマイク・チーダから教わった簡単なテストをしてごらん。まだ私が駆け出しの頃、マイクは脚本を読んでいきなりこう言った。「君の書いた登場人物は、話し方がみんな同じだな」。当然私は侮辱された気がして、正直ムカッときた。まだ勉強不足で未熟だったから、マイクの言うことが信じられなかったのだ。あんたに何が変わる!? ってね。
 この時マイクは、セリフが下手かどうかを診断するテストを教えてくれた。やり方はこうだ。脚本のどこか一ページを選んで、登場人物の名前を隠し、セリフを読んでみる。名前を隠しても、誰がしゃべっているかわかるだろうか? バリー&エンライトのマイクのオフィスで初めてこのテストをやったとき、私はびっくりした。くそっ! たしかにマイクの言うとおりだ。名前を隠すと登場人物が区別できなかった。しかももう一つ分かったことがある。どの登場人物もみな、私のしゃべり方になってる! よくできた脚本だったらこんなことはない。登場人物は各自ちがった、独特の話し方をするものだ。たとえそれが「やあ、元気?」「うん、元気」のような、ごくありふれた日常の会話だったとしても。

 何を隠そう、書き直し作業に十カ月もかかってしまった脚本がある。相棒のシェルドンと私は《金の羊毛》作品を書いていたが、納得の行く仕上がりになるまで六回も書き直したのである。どうしてそんなにかかったのか? それは……。《一歩戻って》のルールを破るという根本的な間違いをしていたからだ。そういうことはよくあるのだ――たとえプロでもね。
 チャプター4でもこの脚本について触れた。スパルタ式の学校を退学になった少年が家に帰ろうとしたが、家族はいつの間にか引っ越していたというストーリーだ。家族のもとに向かう冒険の途中で、少年はいろいろな人と出会い、彼らを助けたり人生を変えたりもする。じゃあ私たちはどこで間違ったのか? それはこの主人公――人助けをする気立てのいい少年――が最初から変化し終わっていたからだ。最初から最後までいい少年で、何も変わらなかった。つまり、そもそも旅など必要なかったのである。この問題を解決するのに、かなり長い時間がかかってしまった。主人公にとって旅が意味のあるものになるには、主人公の感情が変化する前の段階が必要だった。じゃあ、一歩戻ろう、いやもっと最初のところまで戻そう! って感じで一歩一歩戻していった。こんなこと今となっては当たり前なのに、当時はどう修正していいかわからず、途方にくれてしまった。ストーリーの前進によって主人公が変化していくためには、最初は主人公が変化する前の状態になっているなんて常識なのに……。当時は気づかなかったのだ。びっくりするだろうけど、こういう間違いは意外とあるのだ。
 脚本家であれば、自分の書いた主人公がどう変化するかわかっているし、成長していく過程であまり苦しめるようなことはしたくないと思う。だから辛い部分は避けがちになる。けれども子育てと同じように、それは無理な話だ。主人公はあらゆる困難や障害にぶつかって成長するものだし、嫌であろうとなかろうと、そういう道を歩ませなきゃいけない。シェルドンと私の場合も、主人公の少年が大好きになってしまい、陽気で前向きで特別な存在にすることばかり考え、あまり苦労させたくなかったんだ。問題集の問題をやらずに、巻末の答えを先に見てしまったようなものだ。最終地点に到達することを望むあまりに、到達までのストーリーが旅までなのだということを忘れてしまっていた。旅の途中で大きな問題にぶつかればぶつかるほど、最後の報いは大きいのに。
《一歩戻って》のルールは、主人公だけでなく、すべての登場人物に当てはまる。ストーリーの進行とともに全員が変化し成長するには、まずは彼らが変化する前の地点をしっかりと設定し、見せなければいけない。最後の結果ばかりを気にして、到達するまでのお楽しみを忘れちゃいけない。観客はみんな、その変化の過程を見たいのだから。
 映画というのは、観客にすべてを見せなければいけない。主人公の変化、成長、旅で経験することすべてを見せるのだ。それには主人公を最終地点からできるだけ遠くまで引き戻す。弓を強く引けば引くほど、矢は力強く最高の状態で長く飛んでいくのと同じだ。《一歩戻って》のルールはこの重要な原理を再確認させてくれるのである。
 登場人物の旅の過程が見えない、変化が見えないと思ったら……一歩ずつ戻って、すべてを観客に見せよう。観客はそれを見たがっているのだから。

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2025年04月04日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 売れる脚本には法則がある。芸術特に時間芸術と言われているものは一定の「型」が見られるが映画脚本においてもそれがあるということである。「三幕構成」が有名だが本書が提唱するのが「BS2(ブレイク・スナイダー・ビート・シート)」である。
 BS2は以下で構成されている。この構成がキモである。構成を作った人が「脚本家」として印税を手にできるのだそうだ。また全体を110ページとした場合は下記の長さはほぼ決まっており、業界の人はペラペラとめくって見るだけで良いものかどうなのかの判断ができる。ベンチマークの意味あいもある。なかなかシステマティックである。
1.オープニング・イメージ
2.テーマの提示
3.セットアップ
4.きっかけ
5.悩みのとき
6.第1ターニング・ポイント
7.サブプロット
8.お楽しみ
9.ミッド・ポイント
10.迫り来る悪い奴ら
11.すべてを失って
12.心の暗闇
13.第2ターニング・ポイント
14.フィナーレ
15.ファイナル・イメージ

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2021年07月16日

Posted by ブクログ

ネタバレ

「脚本術」とあるが、規模こそ違えど、プレゼン資料や読書感想文にも活用できそう。脚本家だけでなく、ビジネスマンや学生も一読の価値あり。
全体的にシニカルな口調でさらっと読めるし、映画の名前もたくさん出てくるので、映画評論的な目線でも読めるかと。
各チャプターには練習問題があるし、後半は完全に脚本家向けと感じた。

以下参考になった箇所。
・ログラインを最初に考える
 →どんな映画なの?を簡潔に一行で表現
  皮肉やパンチが効いているか
  観客層が想定できるか
  実際に興味を持ってもらえるかテストする
・共感できる主人公であること
 主人公は最後には成長すること
・構成を考えてから描き始める
 →ブレイクスナイダービートシート
・ボードにシーンを書き出して全体を可視化する

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2021年02月03日

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