あらすじ
ブルトンが絶讃した狂気と幻覚の手記
ペルシア語文学史上に現われた「モダニズムの騎士」による、狂気と厭世に満ちた代表作を含む中短篇集。「人生には徐々に孤独な魂をむしばんでいく潰瘍のような古傷がある」——生の核心に触れるような独白で始まる「盲目の梟」。筆入れの蓋に絵を描くことを生業とする語り手の男が、心惹かれた黒衣の乙女の死体を切り刻みトランクに詰めて埋めにいくシュルレアリスム的な前半部と、同じ語り手と思しい男が病に臥しての「妻殺し」をリアリスティックに回想する後半部とが、阿片と酒精、強烈なペシミズムと絶望、執拗に反復されるモチーフと妄想によって複雑に絡み合う。ドストエフスキーやカフカ、ポーなどの西欧文学と、仏教のニルヴァーナ、イランの神秘主義といった東洋思想とが融合した瞠目すべき表題作と、さまざまな傾向をもつ九つの短篇に加え、紀行文『エスファハーンは世界の半分』を収める。解説=中村菜穂
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Posted by ブクログ
題名がかっこいい。私は中高生くらいの時にNHKの動物番組で梟を見てから梟大好き。アイコンも梟です。
イスラムの男性中心社会で女性の立場の低さは苦しい。しかしヘダーヤトの書く男性だちは社会的地位が高く女性を殴りつけたりするくせに、なんとも情けない。女性だって反撃する。(しかし失うものは女性の方が大きい…)
作者はイランの貴族階級でフランスカトリックの大学に留学したが、結局ヨーロッパでは学位を取れない。
いろいろなものに接したが、どれにもなれなかったことで、小説に感じられるイスラムへの意識的及び無意識の皮肉があるのかもしれない。
【変わった女】
インドの下宿屋に短期滞在する語り手は、隣の部屋の「変わった女」フェリシアに興味を持つ。彼女は「世界中回ったけれどもインドほど郷愁を掻き立てるところはないわ」といって、貧しいインド人に同情を示す。だがインド人たちは「あれは熱帯病だよ。あんな放浪者には気をつけな」と言っている。西洋の価値観でインドに同調を感じている彼女と、インド人のインドは違うのだ。そして語り手はそんなフェリシアに振り回されるのでした。
【こわれた鏡】
ジャムシードはパリに短期滞在中。アパートの向かいの部屋に住むオデットと窓越しの交流していた。ある時町で会ったオデットに声をかけ何度かデートする。しかしパリの何もかもに興味を示すオデットに苛立ちを感じるようになり、彼女を拒絶する。パリを去りロンドンに付いたジャムードのもとにオデットからの手紙が届くが…。
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ジャムードはパリにいても「女性には、女性らしいものしかふさわしくない」とか、「女性に待たされるのが我慢できない」って風習のままですね。見せつけるように冷たくする様子は現代日本だったら「めんどくせえ男」。
最後のオデットからの手紙は、(※ネタバレ)自殺を仄めかすもの。でも私は読んでいて、オデットというからにはフランスの女性だろう。それが数回デートしただけのイスラムの威張りくさった男に酷い扱いされたからといって自殺はしないと思うんだよなあ。そのため私には「男権の感覚で、張り切って、威張っていたけれど、勝手に焦って勝手に自分が主人公になっている」男の周りの見えていなさを感じました。(オデットが本当に傷ついて自殺していたらごめんなさい)
【ラーレ】
60歳で一人暮らしのホダーダードのもとに13歳のジプシー少女が迷い込んできた。ホダーダードは「黙りっ子」を意味する「ラーレ」と名付けて養うことにする。
成長していくラーレに「お父ちゃん」と呼ばれるたびにホダーダードの胸は締め付けられるようになった。ラーレに恋していたのだ。
「わしはてておや代わりだから、悪い男からは引き離さなければいけない」と自分にも言い聞かせて、ラーレに近づく男を追い払い、少しの稼ぎでラーレに服を買う。
だがある時ラーレがいなくなった。必死で探してジプシーキャンプに辿り着いた。ホダーダードは、すっかりジプシー生活に戻ったラーレを見て、贈り物を渡して、引き返すしかなかった。
【ハージー・ラモード】
米屋のハージー・ラモードは、市場では旦那扱いされている。「ハージー」とはメッカ巡礼者への称号のようなもので、ラモード自身は巡礼していないのだが、叔父から財産とともに引き継いだのだ。
ハージー・ラモードがここにくるまでには、父が死に、共に移住した母と姉は乞食となってはぐれてしまい、たった一人で叔父のところに辿り着いたのだ。
美人の妻と結婚もしたが喧嘩ばかり。気に入らないとひっぱたく。妻は言い返す。またひっぱたく。妻はまた罵ってくる…その繰り返し。
その若くて美人の妻が一人で出歩いているところを目撃する。
亭主に黙って外出だって!?浮気に違いない!!
いきなりひっぱたいて罵った。それなのに妻は「誰だいあんたは!こんなことして家の亭主が承知しないよ!?」なんていう。まさか人違いのはずがない!だって白い縁飾りの被衣を被っているではないか!
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社会的権利の強い男だけど、見かけの称号を笠に着て、その内面を暴かれそうになると怒る男のアホさ加減が見える。女性だって黙ってはいない。でも結局女性は、夫の立場が弱いと自分の立場も弱いし、女性の方が失うものも多い。
【サンピンゲ】
父は死に財産は買い叩かれた。母パドマは姉娘のラクシュミーを高利貸しに嫁にやった。妹娘のサンピンゲは姉夫婦のやっかいになっている。控え目な彼女はそんな生活でも多くを望まず静かに生きている。しかし姉が亡くなった。
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ファンタジー的に別世界に行ったと解釈したい。
【赦しを求めて】
イマーム(イスラムの「指導者」)への巡礼の旅人たちが、それぞれの罪を告白し合う。
第二夫人が赤ちゃんを産んで自分が蔑ろにされたのが悔しくて悔しくて、次々に殺してやった!
金持客を殺して金を奪った。
私の夫と内通した姉を死ぬとわかってる旅に連れ出した。
彼らは「この罪が許されなければ自分には復活の日が訪れない」という苦しさから巡礼に出たのだ。これで大丈夫。だって巡礼者は巡礼しようと決心して出発した瞬間に罪が清められるんだから。
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えええーーーー(´д`)
「神に罪を赦してもらう」って、あくまでも神と自分の話だから、被害者は関係ないんだよね。それは被害者と神の話で自分には無関係!
【野良犬】
市場で野良犬はぶたれ、蹴飛ばされ、石を投げつけられている。犬は宗教上呪われた存在で七十回生まれ変わる必要のある不浄の存在なのだ。そんな野良犬だって飼い犬として大切にされていたことがある。だが野生の衝動(発情期)により彼は野良犬になったのだ。
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イスラム教では犬は不浄のもので虐待される。サダーヤトはゾロアスター教を研究していたので犬は神様の遣いという面もみていた。
【三滴の血】
精神病院、かな。ここには奇妙な人々がいる。そして語り手自身の話。語り手には親友スィヤーヴォシュがいた。語り手とスィヤーヴォシュは、スィヤーヴォシュの親戚の姉妹と婚約していた。ある時スィヤーヴォシュは、語り手に発情期のネコを撃ち殺したことを話した。そのこと証言した語り手だが、どうやらハメられたらしく…?
【ダーシュ・アーコル】
中年男ダーシュ・アーコルは街では顔役だった。喧嘩っぱやく、大酒飲み。だが皆から好かれていた。自分の資産は人々に投げ出し、女には優しく、ひどい目にあった人がいれば代わりに復讐してやった。
そんな彼の男気を見込んでハージー・サマドは自分の死後の遺産管理人に指定した。めんどくせーと思いつつ屋敷に赴いた彼は、14歳の美少女マルジャーンに一目惚れしてしまった。自分の資産には全く興味を示さなかった彼は、サマドの遺産で彼の妻子を養うために管理に奔走した。男気溢れて、大酒かっくらい、オシャレで喧嘩の日々を送る彼が!
マルジャーンの苦しい恋心を話す相手はオウムだけ。どんなに恋しくても管理人の自分が手を出すことは仁義にもとる。そして何年も経ち、マルジャーンの結婚が決まった。
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マチスモなんだろうけどなんとも切ないなあ。絶対に手を出せない相手だけど、マルジャーンはアーコルと結婚したほうが幸せそうだなあというだけ余計に切ない。
【盲目の梟】
語り手は家に閉じこもって同じモチーフの絵を書き続けている。老人と、老人に向かって手を伸ばす黒衣の被衣(チャドール)の女。ある日家の前の路地で黒衣の女を目に留める。まさにあの女だ。
数日後、彼女が家の前にいるではないか。鍵を開けると彼女は先に家に入り、寝室で眠った。まるでこの家を知っているかのように。
語り手は眠る彼女に、彼が生まれた時に仕込んだといわれている葡萄酒を飲ませる。彼は女の「眼」が見たかった。だが語り手が触れた女は冷たい。なんと彼女は死んでいるではないか!
このあと語り手は「彼女を誰にも見られたくない」としてバラバラにしてトランクに入れて、墓地に運ばせます。死んで閉じた女の眼は語り手を見つめる。
トランクを運び、穴をほった老人は「こんないいものをみつけましたよ、ひっひっひ」と「昔の町レイの花瓶」を見せる。
…バラバラにするのって別々に埋めるためかと思ったら、そのままトランクに入れて、そのまま埋めていた。なぜバラした(-_-?)
場面は代わり、語り手のこれまでの人生。
父は、シヴァ神を祀る男根崇拝寺院の舞姫のブーガーム・ダースィーに恋をした。やがて語り手が生まれ、父は妻子を伴い家に帰ってくる。
だが何もかも父に瓜二つの叔父が、母に夢中になった。叔父は父と偽り母の寝室に入る。そのことを知った母は、父と叔父にある試練(ご神託?)を受けさせる。毒蛇と共に地下室に入り、生き残ったほうを本物の夫とするというのだ。
地下室から出てきたほうは「叔父」と見做された。だが生き残った人も死んだ人も風貌がそっくりで、生き残った人は精神錯乱になっていたので、はたして「父」なのか「叔父」なのかは誰にもわからない…。
そして地下室に入る前、父は母に舞を所望していた。語り手が繰り返し描いていたモチーフはそれだったのだ。
叔父と母は、赤子だった語り手を叔母に預ける。語り手は、従妹と共に叔母一家の乳母に育てられた。語り手は叔母を慕った。そこで叔母の娘である従妹と結婚した。
いや、結婚させられたのだろう。
妻である従妹は、淫売女だったのだ。語り手は彼女を「ラカーテ(淫売女)」と呼んでいる。妻は、夫である語り手以外のあらゆる下層階級の男たちと寝ていた。妊娠さえした。だが語り手にはひたすら冷たく、見下していた。
そして今、語り手は、妻の相手の一人である老人として、妻の寝室に入った。
戻った語り手は、自分自身が老人になっていることを見る。
そして、自分が殺してしまった女と、舞姫だった母親が同じ顔だったことに気がつくのだ。
現実的な時系列はよくわからないし、女をバラした語り手と、半生を語った語り手が同じ現実として繋がっているのかもわからない。
繰り返し出てくるモチーフがある。レイの花瓶、蛇毒を仕込んだ葡萄酒、老人の前で踊る女、白髪で兎唇の老人。
時系列も内容も矛盾しているし、語り手はアヘン中毒者だし、いうことやること正反対(死にたいの?死にたくないの?知りたいの?知りたくないの?)で、わけはわからんが、小説として完成されている!!素晴らしい!
⇒読書会にて「繰り返しながらも、少しずつずらす。閉じた空間だが、輪っかが次第に狭くなってゆく。」と言っていて、読んでいてそれが快感なのかな。
【エスファハーンは世界の半分】
作者がエスファハーン旅行に行った記録。旅行記で都市紹介で、歴史にも触れている。
…すみませんが、あまりよくわからず飛ばし読み(-_-;)
【読書会】
❐愛欲、死、信仰
❐「エスファハーンは世界の半分」で書かれた経験が短編に生かされているとしたら、経験をどのように作品にするのかを感じた。
❐作者にとって女性とは理解できないもの?関係が成り立つ男女がいない。生きた女性とは交流できない。
❐作者はイランの貴族階級。フランスカトリック系の学校に留学。自分の故郷から他のものを追って違う場所に行ったが、どこにも馴染めない。最たるものが「野良犬」で、作者が現れているのではないか。
Posted by ブクログ
盲目の梟 サーテグ・ヘダーヤト 批評
美しい文章を紡ぐ才能を持つ人の数は少ない。それは恐ろしく貴重な才能で、幸運にも持ち合わせた人は、表現の世界において抜きん出た成果を生み出す。そして選ばれし者の中でもさらに特別な人間は、世界中の人々を魅了し、いつまでも読者の心に残り続けることを許される。
サーテグ・ヘダーヤトという作家の能力は、本人の読書量や努力によるものも勿論あるだろうが、間違いなく選ばれた人間のそれだ。特に表題作においてその才能は遺憾無く発揮されている。文章の構築様式は雅で、選ばれる言葉も鋭敏に磨かれており、絢爛かつ技巧的だ。細心の注意を払いながら撚り合わせて紡いだ糸で編まれたこの作品の、阿片による幻覚の中においても超越的な力で人を導く本質的な美を表現しようとする主題は多分に魅力的で、それを再現するために敷いた構成も、朧げに見えながら裏では恐ろしいほどに緻密に組み立てられていて驚愕させられる。著者の影響源はカフカにあるとあとがきで目にしたが、そのグロテスクなイメージと美しさの同居する作風にはボードレールの面影が感じられた。フランス文学のエッセンスを存分に吸収し、ペルシャ譲りの絢爛豪華な文体でもって作品を練り上げる、その独自のスタイルがイランで認められたのは、偶然でもなんでもなく必然であろう。
しかし、ヘダーヤトの力量はそこまでの物だ。彼の作品は世界に羽ばたくだけの独自性と内容の深さを持ち合わせていない。
巻末の旅行記『イスファハーンは世界の半分』にて顕著だが、彼は言葉を重視しすぎるあまり言葉が力強くなりすぎる。結果文章が雅になりすぎて描きたい内容の描写が疎かになってしまっている。文章を読んでその美しさに酔いしれるだけであれば問題ないが、本来読み手が求めているのはその奥に潜む内容だ。文字はそれ自体神秘的だが、所詮は何かを伝えるための道具にすぎない。
彼の用いる美やグロテスクなイメージは、よく磨かれた上で表出されており目を見張るものがあるのだが、独特の香りのようなものが感じられない。言ってしまえば、彼の使うイメージを得たいのであれば直接フランスの文学作品をあたれば済んでしまうのである。世界を飛び出して作品を振り撒くのに必要なことといえば、全ての人間に共通のイメージを、その人自身の内面から発せられる言葉で表現することだ。こういったことについては、ノーベル文学賞受賞者の発表が近づく度に話題になる村上春樹の方が圧倒的に優れている。昨今『ノルウェイの森』に代表されるような、露骨な性描写の多さ故に稚拙であるとされることもある彼の作品だが、愛の複雑さ、様々な男女関係の形を簡潔ながら個性的で私的な文章で綴った点は見過ごしてはならないだろう。愛や人間の在り方についての小説は他にスタンダール『赤と黒』があるが、あれもそのアプローチの仕方に興味をそそられる。サーテグヘダーヤトの文章能力は、正直にいってしまえばスタンダールや村上春樹を遥かに凌駕するだろう。しかし、作家は文章だけで人を惹きつけることができないのだ。漫画家が絵だけ描いているだけでは支持を得ることができないのと同じように…。
訳者が評価する程に彼の作品が魅力的なわけではないが、表題以外の作品にも多く佳作のある本書、その文章力の高さを見るために読んでみて損はないと思う。素敵な文章を目にすることができることは、まさに至高の喜びといっていいだろう。