あらすじ
呆けてしまった母の姿に、分からないからこその呆然とした実存そのものの不安と恐怖を感じ、癌になった愛猫フネの、生き物の宿命である死をそのまま受け入れている目にひるみ、その静寂さの前に恥じる。生きるって何だろう。北軽井沢の春に、腹の底から踊り狂うように嬉しくなり、土に暮らす友と語りあう。いつ死んでもいい、でも今日でなくていい。
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この本に出てくる農家のアライさん夫婦の話が好きだ。泰然自若としていて、おごることなく自然と向き合い暮らしている。どんな時も慌てず、騒がず「そうだノウ」とのんびり構えている。
ミツバチを飼っているフルヤさんはキリストと同じ顔と体をしている。神様みたいに静かな人で、大切なはちみつを佐野さんにタダでくれた。栗の花と野の花のはちみつ・・舐めたらうっとりするほど美味しかったと言う。水あめを混ぜた市販品を食べている全国の人たちに向かって「あっははは」と笑いたくなるほど、それは素晴らしかったそうだ。
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「100万回〜」の絵本で有名な佐野さん。
初めて読んだエッセイがこれ。
面白かった。なんか辛口で。
そして確かこの本で、長嶋有さんのことを知った。
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『神も仏もありませぬ』(筑摩書房)を読む。この佐野洋子さん、なんだかとっても面白い人。御歳65歳。鏡に映ったご自分の容姿にぎょっとしたり 過激な言葉を宣ってみたりと とても正直で、且つかわいらしいの。どんな女性なんだろう。豪快で繊細。文章も個性的で、所々 『_・)ぷっ』って笑える。ユーモアがあるんだね。
絵本『百万回生きたねこ』(有名なんでしょ?)を描いた絵本作家さん。この『神も仏も・・』は彼女のエッセイ集だ。
佐野さんは、生きていることにいくつになっても慣れきっていないところが素敵なんだよね。。冗談みたいなこと言いながらも、生きていくことに対して本当に謙虚。そして 歳とったなどとおっしゃってはいるが 今を生きているのよね。格好良くもある。子供みたいな瑞々しい感性にも、脱帽。佐野さんのように歳をとれたらなぁ。でもあんな風になれる人はあんまりいないだろうな。
結婚は何度かされていたらしいけれど、現在は軽井沢にお一人でお住いだ。以前は深大寺にお住いだったらしい。いろんな人に囲まれながら、人間っぽく 考えたり、あがいたり、楽しんだり、悲しんだり、笑ったり、泣いたり。
今日も佐野さんは、この空の下でそうやって生きているんだろう。こういう自由な人もいるのね。。。とナゼかすごく元気がでてくる本なのだ。生きていくのも悪くなさそ・・とそんな気にもさせる。佐野さんはいいよ。
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最終章まできて、泣きそうになった。仕方ないよね、仕方ないよね、と繰り返される言葉が強くて、でも脆い。生きるって、老いるって、こういうことなのか。
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なんて風通しのいい方だったのだろうと思う。裏表どころか前も後ろも横もなく、全方位ただ佐野洋子そのものであるというような。当時60代の著者、もう人生降りて死に向かって緩やかに下降していきたいと書きつつ(そして心底思っていたのであろうことはわかる)それでも花や山や人に心を寄せながら西軽井沢で過ごす日々が描かれている。山荘というシチュエーションもあるかもしれないけれど、佐野さんと武田百合子さんにどこか似通った部分を見る。媚びないウソ言わない感じたままを口にする、というあたり。
長嶋有さんが登場してちょっとびっくり。そういえば表紙、佐野さんだったなぁと思い出した。
飼い猫の死について書いた一編が心に残る。
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画家で、「100万回生きたねこ」の作者としても知られる佐野洋子さんの63歳から65歳の頃に書かれたエッセイ。
63歳の佐野さんが88歳の痴呆の母親に年を尋ねたら「そうねェー四歳くらいかしら」佐野さん自身が衝撃を受けながらも同時に可笑しさが込み上げて来る様子が手に取るようにわかる。
佐野さん、その他に出てくる佐野さんの友人たち、すべての人たちが面白くて個性的に思える。それはそれぞれの人たちが魅力を持っているだけでなく、佐野さんのフィルターを通して描かれているからなんだろうなあと思えた。
生きていること、次第に年を取って心身ともに変化していくこと、老いていく自分に抗わず、ありのままに受け止めること。
真っ直ぐな心情が、読んでいて心に響いてくる。オイラもこんな風に真っ直ぐに年を取りたいものだなあと思う。
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絵本の『100万回生きたねこ』の作者のエッセイ。
どんな人があの『ねこ』を書いたのかしらと、
興味がわいて読んでみました。
あのねこは・・・作者そのもの?
男性でも女性でも
ここまでスッパリと物事を言いきれる作家に初めて会いました。
この著書は、山村で暮らす自分の生活をもとに、
幼いころの思い出や家族のことなど、
日常の中での小さな出来事までも、鮮明に書かれたエッセイでした。
最初に驚いたのは、物事に対する考え方が実にストレートなこと。
過激すぎるほどストレートです。
婉曲やはぐらかすような表現はいっさいせず、
「○」か「×」か。「好き」か「嫌い」か。どちらかの表現のみなのです。
自己中心的な発想の仕方といえば、それで終わりなのですが、表立って自分の意見をはっきりと主張できる人が少ない現代、このような大胆すぎるほどの発言で意表を突いた文章を読むと、本当にすっきりします。
自分の人生観、世相感もなんだか少し見つめ直したくなりました。
いい子ぶらずに本当の自分をさらけ出すことが
気持ちのいい正直な生き方なのだなと思いましたので。
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”そして、私は不機嫌なまま65歳になった。”
”7歳も40歳も今でも同じでただ私が驚いている”
と。
老いや物忘れの日常を、構えなく綴る。
時々深刻で時々さびしかったりもするけれど、ほとんどあっけらかんと可笑しい。
たぶんそうなんだろうな。
”金の心配をしながら、90まで生きたらどうしよう、呆けたらどうしようと、暗闇に突っ込まれた様になったが、ひどくたびたび突っ込まれても、考えたからって、どうなるものでもなかった。一生懸命心配しても呆けない保証もなく、もしかしたら102歳まで生きてしまうのを止める事も出来ず、今運よく心臓発作におそわれるかもしれない。しかしそれは人の力をこえる事だった。”
そうなんだ、テキトーなところで去りたいものだけれど、長生きしちゃったらどうしよう、自分では選べない。心配してもしょうがない。
「いつ死んでもいい、でも今日でなくてもいい」の境地?にたどり着き、意味もない小さいことに”ヘラヘラ”喜びたい。
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やっぱり佐野洋子さんのエッセイはいいね。
こういう60代でもいいんだ!!!って気持ちが楽になります。
もちろん、常人ではないすごいエネルギーと才能がおありだった
特殊な人の例なので、凡人以下の自分が真似しても
鼻つまみ者になるだけですが、、、
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面白かった。佐野さんは少し前までは絵本「100万回生きた猫」の作家で、この間「シズコさん」を読んだ時には絵本作家とはまったく別の顔を見せられて衝撃を受け、今回はとっても自由に生きる一人の魅力的な人間だった。老いてますます元気になんて言わないところがいい。もう引退したい、くらいに思っているところがとてもいい。いい人ぶらないしきれいごとじゃない本音も書いている。長生きしてボケることを恐れている。そうかー、そうだよなー、そうなるのかもしれないなーと、何度も思いました。
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田舎暮らしのサノさん。近所の人との交流、日々の雑感、旨い物。曰く「日々飯を食い、糞をたれ、眠った」。市川悦子の言葉を思い出した。というより同じことを言っている。強いお人だ。
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老いていく自分を時々卑下しながらも、
まぁ いいか的な感じで日々を送っている作者の歯に衣着せぬ言いようが小気味よいエッセイでした。
登場するご近所さんもかなり個性派揃い。
自分も60歳をすぎてこんな風にユカイに過ごす事ができれば老いもそれ程悪くないカモ・・・。
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佐野洋子さんは無邪気だなあと思う。いい歳をして、子供だなあと思う。そこがめちゃくちゃ羨ましい。
★人間ってすごい丈夫だよねェ、六十年も動きつづける機械はないよ。毎日使っているんだよ。内臓なんて寝てても一秒も休まず働いているよ。時々手入れなんかすると百年も動きつづけるよ。百年も走る車ないよねェ。
★人間は少しも利口になどならないのだ。そしてうすうす気が付き始めていた。利口な奴は生れた時から利口なのだ。馬鹿は生れつき馬鹿で、年をとって馬鹿が治るわけではないのだ。馬鹿は、利口な奴が経験しない馬鹿を限りなく重ねてゆくのだ。そして思ったものだ。馬鹿を生きる方が面白いかも知れぬなどと。
★いつ死ぬかわからぬが、今は生きている。生きているうちは、生きてゆくより外はない。生きるって何だ。そうだ、明日アライさんちに行って、でっかい蕗の根を分けてもらいに行くことだ。それで来年でっかい蕗が芽を出すか出さないか心配することだ。そして、ちょっとでかい蕗のトウが出て来たらよろこぶことだ。いつ死んでもいい。でも今日でなくてもいいと思って生きるのかなあ。この日本で。
★男ってみんなガキなのだ。鈴木宗男を見ているとガキの顔してやってるなあと思う。男が一心不乱になるとみんなガキになる。ワールドカップの男たちが、ちんこいボール一つに文字通り生命をかけて必死の形相でかけ回る。ガキの美しい形相に感動する。昔子供の草野球でも男の子はあんな形相をしていた。ガキの情熱がこの世を作って来たのだ。エジソンもピカソもガキの顔付きで自らに没頭して来たのだろう。小市民もガキの情熱で、つつましく生きているのだ。
★大衆芸能というものは、大衆が望むから生れるものだろうし、もう大衆は浪曲を必要としなくなったのだろう。しかし私達は、吉本のタレントのバカ話を本当に望んでいるのだろうか。テレビは悪いなあ、どんどん人心を荒廃させていく。誰も人の道など説かない。説く奴はうさんくさい。時代と共に滅んでいったものが戻って来ることは決してない。失ったものの代わりに、私達は豊かな物質生活を手に入れただけなのだろうか。
★アライさんはひどく記憶力のいい人で、私は「アライさんは学者になれるね」と時々思う。そのアライさんが「俺は、同じ話を同じ人にしないようにしている」と云うのでますます感心したが、「俺は、同じ話を同じ人にしないようにしている」と少なくとも三回は私に云った。そして子供の時十円を盗んで山の木にしばりつけられたという話を、私は何度も聞いている。そのたびに面白いのだが、あのアライさんでさえもの忘れが多少はあるのだ。ああ、他人がもの忘れをするとどうして私はこんなに嬉しいのだろう。
★私が超美人だったら、きっとひどい嫌な人間になっていたにちがいない。私はブス故にひがみっぽい人格になっている事を忘れて、力弱く我が身をはげまして一生が過ぎようとしている。そして、しわ、たるみ、しみなどが花咲いた老人になって、すごく気が楽になった。もうどうでもええや、今から男をたぶらかしたりする戦場に出てゆくわけでもない。世の中をはたから見るだけって、何と幸せで心安らかであることか。老年とは神が与え給う平安なのだ。あらゆる意味で現役ではないなあと思うのは、淋しいだけではない。ふくふくと嬉しい事でもあるのだ。
★日本中死ぬまで現役、現役とマスゲームをやっている様な気がする。いきいき老後とか、はつらつ熟年とか印刷されているもの見ると私はむかつくんじゃ。こんな年になってさえ、何で、競走ラインに参加せにゃならん。わしら疲れているのよ。いや疲れている老人と、疲れを知らぬ老人に分けられているのだろうか。疲れている人は堂々と疲れたい。
★私は深くしみじみ腹のもっと下の方から幸せだなあ、こんな幸せ生れてはじめてだなあ、今日死ななくてもいいなあ、と思うのだった。意味なく生きても人は幸せなのだ、ありがたい事だ、ありがたい事だと、ヘラヘラ笑えて来た。
Posted by ブクログ
この人の文章は、軽やかでさっぱり(サバサバ?)していて読んでいて気分がいい。生き方、考え方もさっぱりしていそうだ。そして暮らしが楽しそう。そんなエッセイ。わたしなぞは爪のあかを飲ませていただく必要がありそう…。