あらすじ
小山評定はなかった? 徳川家康は豊臣家を潰したかったのか? 豊臣秀頼は本当に凡愚だったのか? 最新研究から見た、二大合戦の“新常識”とは――。関ケ原合戦と大坂の陣は、乱世を終わらせたという点で極めて重要な戦いだ。しかし研究の進展によって、その捉え方は大きく塗り替えられつつある。本書は、関ケ原合戦と大坂の陣を語るうえで、新たな視点をもたらしてくれる15の論考を収録。二大合戦における“新常識”を知ることができる一冊。 【内容】第I部 関ケ原合戦 ●小山評定と問い鉄砲はなかったのか? 関ケ原をめぐる論点:笠谷和比古 ●家康を「天下人」へと押し上げた5つのターニングポイント:黒田基樹 ●石田三成、毛利輝元……西軍を主導した男たちの思惑:光成準治 ●一貫した東軍ではなかった? 加藤清正と鍋島直茂の真意:光成準治 ●決戦地の「地形」を読み解く! 勝敗を分けたものとは:谷口研語 ●徳川軍団は何をしていたか……「天下分け目」の舞台裏:橋場日月 ●「北政所」と「淀殿」の敵対説は事実なのか:福田千鶴 ●伊賀者、甲賀者……「必要不可欠」とされた忍びの任務とは:山田雄司 ●東軍勝利の陰で……戦いを左右した語られざる要因:小和田哲男 第II部 大坂の陣 ●徳川家康は本当に豊臣家を潰したかったのか:笠谷和比古 ●開戦への導火線となった決別……茶々と片桐且元の苦悩:黒田基樹 ●豊臣秀頼は凡愚だったのか? 家康に対峙した青年の真実:福田千鶴 ●意外な武将が大坂方にいた! 裏事情があって戦いに臨んだ男たち:橋場日月 ●世界史からの随想――キリシタン武士が全滅、日本人らしさはかくして守られた:荒山徹 ●小堀遠州の書状が語る「大坂幕府構想」:跡部信
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
いつも楽しみにしている大人の休日倶楽部パスを使って、新幹線・特急に乗って駅にあるピアノを弾きながら、鉄道旅をしました、その途中の売店で見つけた本です。記録によれば、今年(2025)のGW頃に読んでいました、しかし読み返してみて面白いポイントが前回よりも増えています、
当時は目の調子が悪く、入力作業が辛かったのかもしれません。あれから音声入力も使えるようになったので、多くのポイントを記しておきたいと思います。
以下は気になったポイントです。
・伏見城内にある自分の管理する曲輪が 一番安全であり、そこに逃げ込む方が理にかなっている。つまり 石田三成は伏見城の治部 少輔曲輪に籠り、 家康の屋敷に逃げ込んだのではないと考えられる。この当時の家康の屋敷は伏見城から離れた、宇治川 対岸の向島であった(p16)
・ 当時の兵士動員の原則は、 敵地に近いところに領地を持つ大名の順で、従軍する義務を負う。 これを 義務的従軍という(駿府の中村、浜松の堀尾、吉田の池田、岡崎の田中、清洲の福島) 。一方 義務を課されない大名では、中津の黒田長政、 宇和島の藤堂高虎、 宮津の細川忠興 などは 天下分け目の対戦が始まるだろう こと を見越して、上杉征伐に従軍した(p22)
・3奉行と秀頼生母の淀殿は、三成 たち が不穏な動きをしている、早く 上方に戻って 不穏な動きを鎮静してほしいという内容の手紙を 家康に送っていたので、ほとんどの 豊臣系 大名が家康に味方するのは当然であった。しかし3 奉行と 淀殿が 鞍替えして「内府違いの条々」 を出して、家康を謀反人と 弾劾 したことで、 家康と行動を共にする軍は反乱軍となった(P24)
・関ヶ原戦いの紛争処理にあたり 家康は毛利輝元と 起請文を交換して政治的連携を誓約しあった、家康は 輝元を弟として扱い 、輝元は家康を父として扱うもので家康の主導性は明らかであった、 上杉景勝については、 家康の子供を、まだ 嫡男のいなかった養嗣子にすることを取り決めている(P36)
・徳川家康は 西の丸に入城すると、秀吉が晩年に制定していた「御置目」「御掟」や遺言を刷新し、新たに「御置目」「法度」を 制定した、家康はそれに基づいて 秀頼の後見人として 天下統治を行うようになった。その立場は 執政に当たるもので、 これは事実上のクーデターとみなされる(P38)
・石田三成は小早川秀秋の離反を知り、 その近所に布陣 していた 大谷吉継 が危険にさらされるということで救出のために大垣城を出て 関ヶ原に進軍し、秀秋 への備えを取ることになる。それを家康が追撃して、翌月15日 関ヶ原で両軍は激突する。両軍が関ヶ原で衝突したのは、 この秀秋離反の露見が 原因であった(P43)
・ 毛利輝元は 四国から北部九州に至る 広範囲で自領を拡大しようとした、 この行動の背景には関白 豊臣秀次が 失脚した 1595年 秀吉が「大坂より西については 輝元と小早川隆景に申しつける」 が根拠であった。この秀吉の言葉を根拠に、 輝元は西国方面の大名に対して 西軍 参加を呼びかけ、それに従わない 大名には懲罰権の発動として軍事侵略を企画した(P56)
・関ヶ原を「関がある原」または「関があった原」と呼ぶのは、古代の関所「 不破関」に由来している。古代 律令制度では、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道という政府の管理する7つの官道が設置され、都から放射状に伸ばされた。東へと向かう道は、東海・ 東山・北陸の3つである。 律令が整えられた 8世紀初頭 、当時 「東国」と呼ばれた東日本へは国家の支配が十分 浸透していなかったので、東日本と西日本を画す交通上・軍事上の要衝に関が設けられた、東海道:近江と伊勢間には、「鈴鹿関」、北陸道:近江と越前間に「愛発関」、東山道:近江と美濃の間に「不破関」である、この3つを「律令三関」という(P72) これが廃止されたのは 798年であり、その後現在の関東地方では、略奪などの事件が多発するようになったので、899年に、 東山道の信濃・上野間の 「碓氷峠」、東海道の 駿河・ 相模国境の「 足柄峠」(足柄坂、後には箱根)に関所が置かれた、 それ以降現在の関東平野 周辺が、関東・坂東と呼ばれるようになった(P74)
・寧(ねね)と茶々(淀殿)は秀吉の正妻であり、第一夫人が 寧々であり、第二夫人が 茶々であった。その関係は秀吉の死後も変わらなかった 、従って よく言われる「正妻」対「愛妾」 のという 対立構造も 史実としては成立する余地はない、 なぜなら茶々は、 愛妾ではないから(p99)
・ 徳川家康が関ヶ原合戦で勝利をすることができたのは、当日の彼の軍事的な采配が優れていたからだけではない。むしろ 家康がそれ以前に売っていた手が最大の勝因だと言える。合戦前の1ヶ月ほど前に、 169通にも及ぶ手紙を日本全国の大名に出していた。 つまり 事前の根回しが巧みであった。中でも、松尾山の 小早川秀秋の 寝返り 工作、南宮山の 吉川広家から不戦の約束を取り付けていた、この2点は 特に 家康勝利の大きな要因となった(p117)
・関ヶ原の合戦の結果 、 大名の転封・ 移封が徹底的に行われたが、これによって 幕藩体制の基礎ができた。 それまでの 地方分権 国家から中央集権国家へ 大きく変わる戦いであった。 秀吉との違いは、家康は「農民は連れて行くな」という命令が出された、結果として これが兵農分離を促進させることになり、社会の固定化と安定化が図られた(p117)
・関ヶ原合戦 後 、 家康による諸大名への領地の給付は、一人一人に口頭伝達するというやり方であった、 当時の 家康には領地 朱印状を 発給する権限がなかった。出すのであれば、秀頼の名前で出さなければならなかった(p137)
・ 関ヶ原合戦後の当時の人々は、「家康の 将軍制」と「 秀頼の関白制」 が相並ぶ「二重公儀」になるだろうと 認識していた。この体制は家康自身が設計したものと考える。 その理由として、日本の半分に当たる 京都から西に、徳川 大名が一人もいない(p139)
・ 大坂夏の陣で徳川側が総攻撃をしなかったのは、和議を働きかけていたから。大坂城を退去し 淀殿を人質に出すよう説得したが 豊臣方の 意見 はまとまらなかった。 結局 しびれを切らした前線部隊が威嚇射撃をし、それが 呼び水となって 不規則な形で戦闘が始まってしまった。しかも 豊臣型の奮戦は凄まじく、天王寺口 中央に布陣した毛利勝永隊の目覚ましい 進撃のために 徳川方の将 兵が多数 討ち取られた ほか、 家康本陣まで後退させられた。 そうなると徳川家の面目上、 家康も 豊臣家を滅ぼさざるを得なくなる。皮肉だが善戦したことが 反って豊臣家を滅ぼしたことになる(p151)
・日本では大坂の陣でキリシタン大名・武士が全滅し、誰もが 檀那寺の檀家になり、檀家であることを 寺院が証明する 寺請制度が設けられた、大坂の陣こそが宗教戦争の本祭、島原の乱が裏祭りという位置付けになる(p199,201)
2025年12月5日読破
2025年12月5日作成