あらすじ
コロナウィルス感染拡大のなか、小説家のヤマネは、『実践講座・身近な場所を表現する/地図と映像を手がかりに』という講座を担当することになる。
PCを通して語られるそれぞれの記憶、忘れられない風景、そこから生まれる言葉……。
PC越しに誰かの記憶が、住む場所も年齢もばらばらな人たちの別の新たな記憶を呼び覚まし、ゆるやかにつながりあってゆく。
読売新聞夕刊連載小説、待望の単行本化。
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Posted by ブクログ
『いくつもの人の流れが交差する通路を歩き、ヤマネはようやく家に帰る路線に乗り換えた。ホームに入ってきた電車に乗り込むと、こちらもほどほどに混雑していた。ちょうど目の前の席が空いたので座り、一息つく。慌ただしくドアが閉まり、電車は走り始めた。スマホを取り出して、「普請中」がいつ書かれたのかを検索した。発表は明治四十三年。一九一〇年だから、百年以上前になる。百年以上、東京は普請中なのか、と思うと、長距離を移動してきた疲れも相まって頭の芯がふらっと揺れる感覚がした』―『話すことを思い出す/次の春から夏』
柴崎友香の風景というか情景描写がとても好きなのだけれど、その理由を突き止めようとすると言葉に窮する。ただその場の光景を言葉に置き換えているのではない。その視線の持ち主の心情がその景色をそのように見せているのだということが伝わって来るような書きぶり。デビュー以来、その筆致は変わることがない。
それなのに、この、普段なら数日もあれば読み終えてしまうだろう一冊の頁が中々進まないのを何故だろうと考えながら読んでいた。そして、読み進めなくなるのは、主人公が参加するオンラインでの創作講座の部分だと気付く。参加者が発表する画像や映像を描写する文章で躓いてしまうのだ。ああ、心情なしの描写だと柴崎友香の文章といえどもすっと言葉が入って来ないのだな、と。
本書は作家である主人公がコロナ禍の生活を過ごす、言ってみればヴァーチャルな人々との会話の前半と、ある程度自由に外出でき人とも会うことのできる後半とのコントラストが際立つ構成となっている。後半は、断然いつものこの作家らしい筆致で情景描写や会話が進むので、読んでいて楽しい。それに比べると前半は意図的かと思える程に色の無い世界の中で話が進む。例えば、オンラインの創作講座で発表される作品にモノクロの作品が多いのもそれを強調する。落ち葉の押し花を使う作品からも何となく枯れた葉の色が連想される。この作品は新聞の連載なので最初からそのように設計していたかは定かではないけれど、2023年からの連載時にコロナ禍での作家の実生活の中での心象を振り返り、それが反映されているのだろうと想像する。そして連載中に起きてしまった事象もまた、小説には投影されている。もちろん主人公の作家が柴崎友香本人だなどと野暮なことは言わないけれど、随分と重なる部分はあるし、独り言のような心情の吐露は作家自身の心の内を聞いているようでもある。それもかなり率直に思うことを語っているように聞こえる。
後半も最後の方になって、作家が担当編集者に対して、たくさん人が登場する作品が書きたい、という場面が出てくる。それが、この本のことを湾曲的に示唆しているようでもあるし、そうでないようでもあるのだけれど(しつこく言うけれど、この主人公を作家本人ではないと思いながら読むのは実は中々難しい)、自由に外出できるようになってからオフラインで講座の参加者たちと玉川上水を歩きにゆく場面は、同時並行に幾つもの会話が進行していて、こういう作品を意図していたのかなと勝手に理解する。それは柴崎友香の作家としての可能性をいち早く見抜いた保坂和志の「カンバセーションピース」の最終場面とよく似た構図でもある。最もこの小説は、そこへ向かって収束してゆく訳ではなくて、むしろ自由になった世界の中で改めて理解する不自由さや不条理のようなものの存在を静かに語り、自分の身に引き寄せることが主題となっているような気がする。作家の静かな主張が確かに響いている作品だと思う。
Posted by ブクログ
人の記憶や時間感覚は、思った以上に不正確なものであることを再確認させられる話。
「遠くまで歩く」というタイトルは、距離だけでなく記憶の中の遠く(=昔の記憶)まで遡って振り返ってみるということ。
本作では登場人物たちが身近な風景の写真と地図を基にして、そこにまつわる記憶や派生して考えたことを共有する会が開かれている。
記憶は記録しないと永遠に忘れ去られてしまうものも多い一方で、関連する映像や香りをきっかけに蘇ってくるものもあり、上述の会の参加者たちは改めてそのことに気付く。
それでも、その記憶が実は他の記憶と混ざっていたり、実は最初に思っていたより随分前の時代の出来事であったと気付くこともある。
本作は何か劇的な出来事が起きるわけではなく、先に先に読み進めようと急いでしまうと、単調に感じてしまうかもしれません。
そのため、時間的に余裕があるときにじっくりと味わいながら読みたい作品です。
映画や小説のような「作品」になると、鑑賞者はどうしても盛り上がる部分や「良い話」を期待してしまい、制作者側もそれに合わせた作品作りをしてしまいがちに思います。
しかし、作中にも出てくるような記憶にまつわる日常の景色をじっくりと観察し、その対象が積み重ねてきた年月に思いを馳せてみると、些細な事柄から浮かび上がってくる思考は無数にあるように思います。たとえそれが劇的なものではなくても、誰かの心を動かしたり、共感を呼んだりすることは、大いにあるのではないでしょうか。
記憶の中の「遠く」まで歩き、思索を深めることも案外楽しいことかもしれません。
Posted by ブクログ
「コロナ禍」を懐かしむ気持ちは少しもないけど、あの時期特有の人との繋がりや交歓は確かにあった。
それによく歩いた。
歩いたことぐらいしか記憶にないくらいよく歩いた。
しかも遠くまで。
そんな時代の記憶や感情を後に残す貴重な作品だと思った。
『その街の今は』をまた読みたくなった。
Posted by ブクログ
文章を書く、とりわけ物語を書くというのは、自分の経験してきた事や感じてきた事の反映であり、それを伝えんがために文字に起こす、という事なんだろう。
前半はささっとと読み進め、最終章はじっくり、少し落ちてくるものがあったかな。
Posted by ブクログ
コロナ時期が舞台。オンラインでのワークショップを軸に話が展開していく。場所と人の記憶というテーマが分かりやすく前面に出ていてたと思う。
川に沿って歩く場面も講座との対比でとても良かった。
Posted by ブクログ
コロナ禍で失ったものを懐かしく思い出した。
人と会うこと、みんなで集まること
歩きながらの感じたことを言うことを
思いついてできることの貴重さは
コロナ禍があったから。
オンラインで会ってたあの時と
遠くまで歩ける今にはやはり隔たりがあるのだと
Posted by ブクログ
コロナの最初の頃って混乱してたな、と今となっては思う。そんな時期に人と会いたいと思う欲求は、それが実行しにくいからなんだろうな。制限があることが刺激になるというか。