【感想・ネタバレ】僧侶はなぜ仏像を破壊したのか 国宝に秘められた神仏分離・廃仏毀釈の闇のレビュー

あらすじ

明治天皇の「王政復古の大号令」にともない新政府が行った神仏分離によって巻き起こった廃仏毀釈から150年。神社と寺院を分離する政策が、なぜ僧侶自らが率先して神職への転職を申し出て、本尊を斧で叩き割ったとされる史上稀な宗教攻撃、文化財破壊にエスカレートしたのか? 日本の寺院、国宝が半減したといわれる明治維新の黒歴史。日吉大社、八坂神社、石清水八幡宮、興福寺、大神神社、金峯山寺、金刀比羅宮、出羽三山、浅草寺、日光東照宮……。衝撃的なビジュアル史料とともに、数々の具体的事例で日本宗教史における最大のタブーを読み解く!

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Posted by ブクログ

「『奇想の系譜』辻惟雄/筑摩書房」を読んだとき、奇想の画家と定義される6人の作品やそれぞれが生きた歴史のことを読みながら、作品の多くが破損し火災で焼け失われてしまっていることをとても残念に思った。
本流と言われる流派から外れ、その生涯も作品も不明に近い人もいるという。寺などに身を寄せて描いたものはどうなったのだろう。

この春、興福寺国宝館の仏像の前で、ガラスの中に収まっているかもしれない国宝級の絵や彫刻。今はもう会えない多くの寺の宝物を思った、明治維新の仏教抹殺、廃仏毀釈の大波で薪になったりしたことを思い出した。

明治維新という波はなぜ寺を焼き滅ぼし、新政府の急進的な改革の的を仏教に絞って多くの寺を跡形もなく消し去ったのだろうか。

そんな、消えた絵画を惜しむ気持ちからふと手に取ったこの本で、明治維新に足を踏み入れてしまった。

王政復古を旗印にした明治政府は、祭政一致という神道国家を建てること、文明開化、富国強兵というスローガンで、幕藩体制を解体し古代から続く神国の伝統を受け継ぐ国を作り上げようとした。

早速、神仏分離令を発布した。しかし思惑は横道にそれて拡大した。寺の伽藍の破壊、具物、本尊をはじめ信仰の対象となったすべてが、急進思想の拡大解釈で廃仏毀釈の波は怒涛のように寺をつぶして荒れた。

長い歴史は神仏混淆、念仏あり、お祓いあり、雨乞いの御祈祷あり、神と仏は共存してきた。天皇が出家するのも珍しくないおおらかな宗教風土だった。

しかし体制の刷新は、身分制度などの縛りの上で生きている人々、救いの信仰をよりどころに生きている弱い人々にとって、目新しい国で、神仏を分離するという、前代未聞の政策は庶民にとって鬱積した生活苦のはけ口になったのかもしれない。

神仏分離令を拡大解釈した破壊の火の手は比叡山の麓、吉田神社から上がったという。僧侶が神官の上に立って何かと小競り合いもあり虐げられていた。そこに神仏分離令を旗印に、寺を襲い破壊した。神社内にある寺ゆかりの物にまでその行為が広がった。

それが火種になって全国隅々にまで広がっていった。

集団心理による暴徒の勢いの前で明治政府は困った、寺の物を壊す前には伺いをたてよ。と政令で言ってみた。
しかし積み重なった恨みは深く、収まるのに数年かかった(明治7年ごろまで)

政府は飴と鞭でそろそろと対処した(ここまで来てしまったら強権で抑えられなくなってしまったのだろう)早期短慮、庶民生活に配慮が足りなかった。

僧侶には肉食妻帯を許した。ばたばたとした案だがこれが僧侶に対する規制緩和措置だった。結果僧侶の堕落のために仏教の力は衰えてきた。一口に破壊行為がうっ憤のはけ口だったとは言えない。
檀家を抱え信仰代ともいえる収入を得て、寺や僧侶の暮らしが肥太したこともある。
こうして寺を離れ生活の糧となる寺領を与えられ還俗する僧侶も多かった。

一応維新の目的は果たされた。
ただ、何時の時代でも、体制は器づくりから始まる。

明治維新の目指す神道国家は、進歩的な法治国家に向かう一本道だったかもしれない。理想を掲げ海外に出て、初めて目を向けた外の国は輝いて見えたかもしれない。

そうした急進的な国造りがここから始まった、しかし現実は足元を見ないことで、器からあふれた国民の心情、暮らしはついていかなかった。
新しい器が国民の実情を全て汲み取ることはできないと、心ある人は理解している。時代はそうして勢いがあるものによって作られ続いてきた。

土俗的な信仰をもって地道に暮らしていくことは、基礎教育で良しとするような改革でもまだまだ積み残しが多い、それが弱さになり近年まで、心情的身分制度は改善されていない。生活格差は広がってきた。

明治維新という光は、廃仏毀釈、祭政一致を照らすつもりが。8世紀に渡来し、内紛の末に花開いた仏教文化や寺院見る影もなく捨ててしまった。

古代史の幕開けと共に仏教は仏典と仏像で一気に根を下ろした。富める者も貧しいものも形あるものを信じた。

だがそれを書き換えようとして大きな禍根を残した。

日本人の神は素敵だ。
国学者たちの、今残る名前では本居宣長は儒学を深めた。それは生活の中に浸透していった。

すべてのものに神が宿る、自然とともにある暮らしは人々の心の底にあるアニミズムが恵みを与え時には荒れることがあったとしても大いなる自然に対し敬虔な信仰は古代から深く根を下ろしている。
神々、生きて関わる全ての八百万の神にたいする信仰心も当然暮らしに根付いてきた。

一方、人由来の仏教が言葉(経典)を持ち、姿を見せ(具現化された絵画彫刻)今も私たちはその心に癒されてもいる。

しかし廃仏毀釈の火種は長くくすぶっていて、各地の寺は無くなっていった、薩摩では寺院僧侶が0になったそうだ。
また尊王思想の強いところでは寺の破壊が激しく再建されないままである。

多くの破壊されたものを偶像にしたのはこうした政治に後押しされ心を見捨てた結果神が残り、維新に利用された。為政者は利用するという感覚はなかったとしても。

今、静かに仏像を仰ぎ見ると、長い歴史の波を潜り抜けてきた美しい心の歴史を見ることができる。

仏教抹殺・廃仏毀釈は暴力的なプロパガンダで一時心を失ったともいえる。


お盆の風習が残っている、墓地で手を合わせていると、何を信仰するということがなくても、季節の巡りを実感し、自然の中で生きていることを感じ亡くなった人たちを偲ぶことができる。

悪法は目に見えないところでささやかれ力のあるところで実行されている。
自然に目を凝らし、いつに時代もどんな時も静かに心の声に耳けるようにしたい。

不意に襲われる災害、ウイルス感染、庶民は息をひそめ待つばかりでなく多くの声が届く政治が歴史を作っていくことを、一人一人が振り返るのではなく今、現在どうするかを考えるときだろう。

渡来人が、仏教を命がけで持ってきた。意図は別にしても今でも心の支えにしている、人の一生は短い。古代と名付けても歴史は浅い。

向き合えば支えになるだろう仏教やそして巷にあふれる新興の神々は壊されても起き上がる力が信仰の自由を産んだ。

短い命の舟に乗って生きなくてはならない人間は、その儚さゆえに根も葉もないものに憑りつかる。
浅いエリート意識がひとを連れて行くことも、手の出しようがない妨害にも、どうにかできるという狂騒に巻き込まれることもある。そうして時代は進化してきた。


寺の屏風や襖絵など、生活のために描いたものも多くあったに違いない
今の三倍の国宝・重文が失われてきたそうだ。

そしてその思想はいまだに政策に打ち克ってはいない。無くしたものは命だけでなく、もう戻らないことを予知できない、大衆が歴史を作っていることに気づかない。

美術品は風雪に耐え語り掛けてくる。
取り返しのつかないものがあることに気がつくことが生きているということかもしれないと。

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2026年02月10日

Posted by ブクログ

◼️ 古川順弘「僧侶はなぜ仏像を破壊したのか」

廃仏毀釈、というものにはかねて興味を持っていた。熱に浮かされたような大騒動。

貴重な仏像、仏具が棄却され、寺院が廃されたという明治維新期の動乱の1つ、廃仏毀釈。なぜそんなことが起きたのか知りたかった。そして、現実の事象は読む前に予想していたより酷かった。

1867年の王政復古の際、明治天皇は神武天皇の時代に行われていたとされる政体に回帰することを宣した。これは祭祀と政治が融合した体制のこと。

これに伴い1868年、混乱の大元である神仏混淆禁止令、といったものが出される。目的は、明治政府が国家神道をして政治の基本としようとし、神社の仏教色を排除することだった。

読んで驚いたが、名の知れた神社でも神仏習合の状態が普通の状態だったという。神道でいう神は如来にまでは達していない存在だと捉え、仏教が神道の上に来て教導する、という時代が長く続いた。権現とは神が仏の化身として現れたもの、という意味だそうだ。別当寺、神宮寺、宮寺など神社に寄り添う形である寺院がそういった存在で、出雲大社にも伊勢神宮にも神宮寺はあった。神社の中には牛頭天王や八幡大菩薩などを祭神とするところも多かった。

この事態に活気づいたのはこれまで寺の僧の下に置かれていた神職や、国家神道の研究者たちであり、政府の役人としてさまざまな施策、弾圧ともいえるものを含む、を実行した。

おふれが出たため神社に入っている仏具、仏典、仏像などはすべて撤去された。焼却、破却、売却。中には古い由来の、いまなら国宝級のものも多くあった。御神体を鏡にせよ、祀るのを記紀に記されている神にせよ、神社に勤めている僧はすべて還俗せよ、だけでなく、役人の判断で廃寺とされたところも多い。

この影響は甚大で、国学が広まった薩摩藩では寺や僧侶を不要と見る向きが藩論となり、維新前1066箇所あった寺院が維新後はなんとゼロになっている。3000人近くいた僧侶もことごとく還俗させられた。

日本最古の神社とされる奈良の大神神社、中世には隠然とした大きな勢力だった興福寺、京都では観光地として人気の伏見稲荷、八坂神社、北野天満宮、岩清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮、日光東照宮ほかもろもろでも大きな動きがあった。東大寺、法隆寺、薬師寺は被害が小さかったがそれでも何らかの影響を被っている。これら皇室にもゆかりのある寺や、財力を有していた京都の東西本願寺は各寺の擁護に回り、ある程度の発言力はあったようだ。

私の故郷太宰府天満宮、という名前は1947年からのことで、維新前は安楽寺が取り仕切る宮寺。安楽寺天満宮などと呼ばれていた。御神体は菅原道真直筆の法華経で、廃仏毀釈の嵐の中で元僧侶の天満宮司が自ら焼き捨てた。安楽寺は廃寺となっている。

この本ではあくまで神仏分離が法令であって明治政府は廃仏毀釈まで命じていないとしている。しかし読むにつけ、結局のところ政府が廃仏毀釈を推進したのと同じだな、という感想だ。

冷静に受け止めたいとは思うが、自分の中でちょっと錯綜した部分はある。ご一新の世情、徳川幕府は倒れ、武士が突然いなくなり、何が起きてもおかしくない雰囲気だった。そもそも対外危機から自身の国体に向き合った日本人は支配層の武士自ら長年自分たちに従っていた朝廷を戴く尊王を言い出したという流れがある。諸外国にも王を中心とする歴史を持った国が多かった。

これまで権力を持ち、上位にあった仏教界の後ろ盾はなくなった。敵対勢力もあり、過剰にムードが盛り上がった、というのも要因の1つだろう。偉そうな立場だったものが一気に叩かれるのは歴史に類例が見られる。

手塚治虫の「火の鳥」で仏教は外来の宗教、という見方を知り、かつて物部氏と蘇我氏系で大戦争があった歴史に刺激を受けた。1000年以上の時を経て、仏教は外国の宗教、という考えが復興し奔流となったことには感じるものがある。そもそも論というのは激流を生むのではと思える。

とはいえ、仏教と神道が結びついていったのもまた歴史であり、民衆にしてみれば信仰として根付いていたものも多いはずなのだが・・と自然とそうなったものにそもそも論を持ち込むことの罪もまたあるとは思う。

廃仏毀釈の大きな動きは10年ほどであって、廃寺の処分を受けた寺も、寺号の復活を許されたりしている。まさに熱は去るのも早かったということか。このヒステリックな混乱は何だったのか、という気にもなる。

うーん、考えさせる本ではあった。

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2025年06月16日

Posted by ブクログ

なぜ廃仏毀釈が激化したのか、ざっくりと学べる。
仏教より下に置かれてきた神職の不満、仏教の怠惰、民衆の不満など。太宰府天満宮は寺であった、菅原道真の写経が捨てられた、というのが驚き。

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2025年05月08日

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