あらすじ
難解な哲学書をわかりやすく解説する「超解読!」シリーズ最新刊!
ヨーロッパ哲学の最大の難問=認識論の謎を解明した二十世紀哲学の最高峰をわかりやすくかみ砕いて解説。
「普通認識は可能か」。ギリシャ哲学以来続く認識問題の難問。なぜフッサールは、この認識問題を解明するためには根本的な「視線の逆転」が欠かせないと主張したのか?
ヨーロッパ哲学にパラダイム転換をもたらし、人間と社会についての新しい「本質学」の道を開くこととなった現象学の核心に迫る!
フッサール現象学は、存在論哲学のハイデガー、言語哲学のヴィトゲンシュタインとならんで二十世紀哲学の三つの最高峰をなす。しかし現象学の根本動機、根本理念、根本方法は、ここまで大きな誤解に晒さらされ続けており、それは現在にまでいたっている。フッサール現象学の最大の功績は、ヨーロッパ哲学の最大の難問といえる認識論の謎、哲学的な普遍認識の可能性についての謎を完全に解明した点にある。にもかかわらず、ここまでのところ、フッサール現象学のこの根本動機が明確に指摘されたことはなく、したがって、その解明の方法のエッセンスが明示されたこともない。――「序論」より
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Posted by ブクログ
同じ事物を見たとしても、それを知覚する身体の内受容感覚、その形成にも影響する〝日常の経験“によっても認知世界は揺らぐ。よく用いる例えで言えば、〈鯛の姿造りをグロいと思うか美味しそうと思うか〉、これは食文化にも絡んだ経験と身体的なもの、お腹の空き具合による。
フッサールは、「世界も科学もすべて、意識の中で意味づけられた現象である」という立場を明確にする。ただしこれは「世界は君次第だ」という相対主義ではなく、「世界が現象として成立する条件」を明らかにする作業である。
ー まずヨーロッパの「認識問題」とそれが大きな難問であることの理由からはじめよう…とくにゴルギアスは三つの興味深い論証をおいた。これを私はゴルギアス・テーゼと呼ぶ。①存在はない。なぜなら誰も存在を証明できないから。②仮に存在があるとしても、誰も認識できない。③仮に存在の認識があるとしても、誰もそれを正しく言葉にできない。
常に言葉が出口になる必要は本来ないのだが、人は、言葉以外で思考することに慣れていない。絵画や音、匂いを複雑に構成しながら予測をする行為は案外無意識にやっているが、それを他者に伝える段階では、言葉が一番便利だからだろう。
ー ヴィトゲンシュタインの直接の意図とは別に、ここからつぎのような「間主観性」の基本構図を読み取ることができる。各人が頭の中の箱に「かぶと虫」をもつが、誰も自分の「かぶと虫」しか見ることができず、他者の「かぶと虫」を見ることは決してできない。つまり誰もが自分の主観の中に、つまり自分の「世界確信」の中に閉じ込められているのだ。誰も自分の主観の世界(主観の風船の中)以外を生きることはできない。よく考えるとその通りだ。しかし、人間は言語によって自分の世界経験(世界確信)を互いに交換しあっている。この世界経験の相互交換が、自分は他者たちと同一の世界を生きているという自然な共同世界の確信(間主観的確信)を作り上げているのである。
ー 数により自然科学は共通了解を作り出すが、人文領域は、同一性を形成できず、むしろ認識論上の一つの「原理」として観取される。ただ、この領域では一切が「相対的である」という考えは素村すぎる。ここでも構造的な相同性は形成される。善悪、美醜の基準は、文化、社会、個人の感受性などで少しずっ差異をもつが、しかしあらゆる文化で善悪や美醜の秩序は存在し、その構造には相同性がある。この構造的な相同性が、人文領域における普遍的認識と呼べるものが成立しうる根拠なのである。
ここで、エポケーだ。断定を保留せよというくらいの意味で考えるが、つまり、あなたの主観を意識するための「一呼吸」。主観世界から距離をおくためには、意味を決めつけない事を前提にすべきというのがフッサール的現象論の正しい態度なのだろう。鯛の姿造りで言えば、魚の死骸であり食材であり、価値であり、文化である。
Posted by ブクログ
「100分de名著」で取り上げられたのをきっかけに、積読になっていた本書を読んだ。
確かに難解で、解像度が無駄に高い独特な言い回しと用語でくどくどと語っているが、主張自体はシンプル。
白黒映像に男の子の笑顔が映し出される。ズームアウトすると、男の子は戦場に立っていた。側に倒れている人もいる。
でもさらにズームアウトすると、そこは映画のセットの中だった。
このように体験は何が見えるかによって意味が変わってくる。映画の撮影所の外で火事の炎が近寄ってきていた、といった具合に後から意外な情報が加わる可能性も否定できない。このように、ある現象が変化しながら組織化されていくメカニズムを「現象」と呼び、その意識における構造を哲学的に探究することを「現象学」という。
この他、エポケー(判断保留の姿勢)、ノエマ(意識に現れる対象の与えられ方)、ノエシス(行為としての意識)——この4つを押さえれば、日常会話レベルでは十分だと思う。
「あとがき」で著者らが「フッサールの言葉を足しも引きもせずに書いた」と述べているので、本書は初学者向けではないんじゃないかな。「改めて向き合うフッサール」というタイトルの方がピッタリ来る。
でも時々、この哲学的な「無駄に解像度の高い」文章に触れて、緩みまくった自分の思考や曇りまくった視点とのギャップを感じることは必要だと思う。中途半端に学んだ者ほど自信過剰に溺れ、達人ほど「自分は何もわかっていない」と無力感を噛みしめる「ダニング=クルーガー効果」は、この「現象学的還元」の良い実例と言える。フッサールの厳密さは、普段の雑な思考を引き締め直してくれる良い薬になった。