あらすじ
「きれい好きな」日本の私?
日本人らしさとして語られがちな「毎日風呂に入るのが当たり前」「バスタブでお湯に浸かりたい」という感覚。私たちが無意識に内面化しているこの意識は、いったいどこからきたのだろうか? 西洋人が見た江戸の庶民の入浴習慣から、「日本人は風呂好き」言説のルーツ、家政書で説かれた「清潔な国民」を育てるための女性の役割、さらには教育勅語と関わる国民道徳論で議論された、身体・精神の「潔白性」まで。入浴を通して見えてくる、衛生と統治をめぐる知られざる日本近代史!
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Posted by ブクログ
風呂と愛国
「清潔な国民」はいかに生まれたか
著者:川端美季
発行:2024年10月10日
NHK出版(NHK出版新書729)
著者は立命館大学生存学研究所特別招聘准教授で、専門が公衆衛生史。
一般的に信じられている日本人は清潔好きという傾向が、どういう思想から強まっていったのか。国家権力側がどのようにそう啓蒙していったのか。そこには日本人としての愛国心をくすぐるような言い回しもあったようである。
欧米との比較をしつつ、日本の入浴習慣の成立を見ていく。そこには、宗教観や国家観なども入り、国家権力側がうまく利用している姿も見えてくる。日本人は西洋人と違って毎日入浴する習慣があることを、優越的に語り、愛国心と結びつけたり、あるいはアジア人は西洋人から遅れているという風潮を否定したりした。
そして、清潔さは、心の清さにも通じるとして、精神論に発展していくわけである。切腹を生み出したのだという説まで登場する。
また、一人の衛生が一国の衛生につながる、それをさせるのが家庭であり、女性の責任なのだ、という「良妻賢母論」も利用されたようである。
第1章 風呂とは古来なんだったのか
6世紀半ば、仏教とともに日本に「風呂」という様式が伝わったが、浴槽ではなく蒸し風呂だった。各地の寺院には、浴堂や浴室と呼ばれる入浴施設が造られた。東大寺の大湯屋が代表的。
恒常的なの浴場は、遅くとも鎌倉時代には存在していた。室町時代や戦国時代にもあったが、みんな蒸し風呂だった。
江戸時代、1591年」に、伊勢輿一(いせのよいち)という男が「せんとう風呂」を始めた。
その1年前の1590年には、大坂で風呂屋出来たとも言われている。
都市部では、火災リスクを下げる意味もあって湯屋ができた。
17世紀後半には、江戸に「湯屋仲間」という同業者組合が組織される。
江戸初期は蒸し風呂が継続して使われていたが、同時期に蒸し風呂と湯に浸かる温浴が混合した浴場が現れたと言われている。その一つに「戸棚風呂」がある。入口の内側に低い浴槽があり、入口の扉を閉めると内部に上記が充満する仕組み。扉を開閉して入る様子が戸棚に入るように見えた。
19世紀初頭の江戸では、「湯屋」と「風呂屋」は性質が異なるものだった。湯屋は営業用浴場、風呂屋性行為を目的とする店。
大坂から江戸に移り住んだ商人・喜多川守貞は「京阪ニテ、風呂屋ト云(いい)、江戸ニテ、銭湯或ハ湯屋ト云」と書いている。
幕末から明治初期にかけて、外国人から見た男女混浴の風呂屋はどう映ったか。ペリーに随行した宣教使ウイリアムズは、自分が見聞した異教徒諸国の中では、この国が一番淫らかと思われた、としている。慎みを知らない。
一方、初代駐日総領事のハリスは、労働者が毎日入浴して体を洗うことを評価しつつ、どうしてこのような品の悪いことをするのか苦しんでいる、としている。しかし、それが女性の貞操を危うくするものと考えられていないことはたしかであり、筵反対に、この露出こそ、神秘と困難によって募る欲情の力を弱めるものであると、彼らは主張している、としている。
日米和親条約意向、西洋人の間で日本人が男女で混浴していることは噂になり、日本を訪れる際にわざわざ湯屋を訪れ、混浴の様子を確認することがあった。湯屋を見学するツアーもあった。
第二章 管理・統制される浴場
近代以降の公衆浴場の歴史について。
明治期、まず自治体が湯屋に対する規制を断続的に行い始めた。
・1972(明治5)年、東京で男女混浴禁止、内部が屋外から見えないようにすること、湯屋の2階の禁止など
・1879(明治12)年、東京で日本では最も早い包括的な取締規則である「湯屋取締規則」が発令された
江戸時代に主流だった石榴口が明治期でも続いていたが、当時の浴槽は高く踏み板を超えて入るため、その前に石榴口が立っていると、客はまずそこをくぐり、さらに踏み板を越えて浴槽に入る。浴槽内は昼でも薄暗い。明治21年ごろから「温泉風呂」と呼ばれる石榴グチではない現在の構造に近い浴場が現れる
京都市
1907(明治40)年ごろまで僅かに蒸し風呂が存在していたようだが、1917(対象)年頃にはなくなっていたようである。
湯屋での入浴拒否される対象として、付き添いのいない老人と幼児、人の嫌忌する疾患者(梅毒や疥癬など)・・・他府県にも似た取締規則がある
第三章 「風呂好きな日本人」の誕生~入浴はなぜ美徳になったのか
そもそも風呂に入ることについて、日本人がどうのように考えていたのか、どのようなことに中位していたのか、江戸時代から振り返る。これが本章の要旨。
出版文化が栄えた江戸時代から日本人の識字率は高く、なかでも養生所がよく読まれた。「沐浴」がいいとされた。
江戸時代初期の医師である曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の『延寿撮要(えんじゅさつよう)』の定義では、「沐」は「カミアラウ」、「浴」が「ユアブル」という意味。
ただし、頻繁に入るのはいけないと書かれているものも多い。貝原益軒の『養生訓』(1713)には、「湯浴(ゆあみ)はしばしばすべからず。温気過ぎて肌開け、汗出て気へる」との記述。
入浴習慣が普及していた理由に、中世以来の仏教的入浴観の浸透がある。蒸し風呂での発汗が、毛穴が開いて全身から悪いものが排出されるという養生と密生津関わっているとみなされた。
湯に浸かる(沐浴)が必要というのは明治30年代になってから記述されるようになった。日本には古来から入浴する習慣があったが、西洋人にはそれがない、と。日本には公浴場があったから、と。西洋人は不潔だが、日本人は清潔である。清潔にしていないと西洋人から「東洋人種」は不潔だと嘲笑されてしまう。東洋人種は不潔だと言われた背景があったからこそ、欧米と比較したこうした言い方が出て来たのではないかと、著者は推測する。
日清・日露戦争を経験するなかで、世界から日本がどう見られているかが気になり始めた。明治生まれが30歳になって社会の中核にもなってきた。19世紀末から、欧州ではアジア圏の人種が欧米圏の白人や国家にとって脅威になるという黄禍論(おうかろん)が唱えられ始める。そうした偏見を跳ね飛ばそうという背景も。
明治30年代は、湯屋の水質が問題になってきた時期でもあった。水質検査などが行われ、報告がなされる。西洋では一人一人入浴してお湯を換えるという報告も。シャワーにつながるものか?
第四章 日本の新しい公衆浴場~欧米の公衆浴場運動と日本の入浴問題
日本の銭湯における不潔さに目が向いて西洋風の浴場が推奨されはじめたが、知識人たちは海外でその土地の入浴施設を視察していた。その西洋の浴場とは?
ヨーロッパでは古代から中世まで日常的な入浴習慣があった。清潔だけでなく、疲れを癒やし、浴場で食事や宴もした。娯楽施設でもあった。
中世の浴場は売春宿としての側面を備えていたところもあったが、梅毒やペストの流行でヨーロッパの入浴習慣は大きく影響をうけた。皮膚を通して空気や水を浸透、吸収するイメージが警戒心をつくる。また、毛穴が開いて身体の物質が放出されて弱らせるイメージも。
入浴はもはや安全に行えるものではなくなり、16~17世紀にかけては「休息、安眠、保護服」とともに行うモノとされた。これができるのは、例えば王侯貴族。
15世紀初頭、ロンドンでは蒸し風呂の営業が禁止に。
18世紀になると再び入浴が清潔に結びつけられる。フランス貴族の身だしなみとして鬘(かつら)があったが、シラミ対策のためだったものの、鬘だけでは避けられないため、入浴が有効だと認識されるように。加えて身体の清潔さは18世紀の貴族や中流階級の間では礼儀作法と結びつき、上品さを示すものに。
イリギスでは冷水浴が上中流階級を中心に民間療法のひとつとして広まった。
1830年代以降、公衆衛生と結びつき身体衛生が教化される。運動場と並んで浴場が整備され、上流中流階級を超えて広がっていく。
1820年代にイギリスで始まった「公衆浴場運動」
により、清潔さが「道徳的純潔」の問題として明確にとらえられるように。
清潔な人=道徳的 とみなされるようになった。
清潔さは健康だけでなく、社会の秩序や規律と結びついた。
公衆浴場運動は、19世紀後半にかけて、ヨーロッパやアメリカに広がっていった。
身体の清潔さと内面性の結びつきを端的に表す言葉
Cleanliness is next to Godliness.
「きれい好きは敬神に次ぐ美徳」
欧米の「公衆浴場運動」を受けて、日本でも同様の関心が生まれた。日本では多くの都市に湯屋(公衆浴場)があったが、大正期には貧困層や労働者の入浴回数が問題視されるようになった。彼らの居住地域には浴場の数が不足しているため、入浴環境を保障するべく、行政によって建てられる浴場=公設浴場が造られた時期だった。
欧米の公衆浴場運動で造られた浴場を紹介した中心的存在は、社会事業家たちだった。例えば、内務省社会局嘱託の留岡幸助や生江孝之。
欧米の公衆浴場運動は、上流中流階級の社会防衛的な思想にもとづく社会改良運動の一環だった。こうした発想を生江も引き継ぎ、公衆浴場という施設を通じて清潔さの規範を浸透させるとともに、日本の社会全体で貧困層の自立を促す必要性についても触れている。
生江は特定の人々が入浴できない問題があることを指摘。労働者本人が入浴できたとしても、その家族の入浴回数が非常に少ない。入浴料が高いから。労働者世帯のためには入浴料を下げなければならない。生江がまず注目したのは、被差別部落の地域などの浴場であった。工業化で労働者人口が急増する東京や大阪など、大都会の「普通細民窟」にも「細民救済」のための公設浴場を設置すべきだと主張した。
大坂では、大正末期から昭和初期にかけて、労働者に対しての公設浴場とは別に、社会教化事業の融和施設として浴場が設置されていくようになっていく。融和運動は部落改善運動を地方改善事業として引継ながら、行政関係者が中心となり主導した運動だった。
大坂の公設浴場が主に興行地帯の労働者を対象にすることかr始まったのに対して、京都は社会事業自体が被差別部落を対象に展開していた点に特徴がある。被差別部落内にあった共同浴場を利用するかたちで公設浴場が設けられた。
大坂や京都での公設浴場の設置は、労働者や貧困層の生活・衛生環境改善の側面がある一方で、入浴習慣の啓蒙活動であり、入浴しない人々を不潔であり前近代的(野蛮)だと意味づけることにもつながったと考えられる。現代の私達が当たり前のように感じている、毎日入浴して身体を清潔にしなければならない、という意識にもつながっているのではないだろうか、と著者。
第五章 近代日本の新たな「母親」像
よい習慣である入浴を根付かせるためコミュニティとして重視されたのが「家庭」だった。明治時代から大正時代における、日常生活に密着したレベルでの記述を行う家政学の理論を中心に、日本人の習慣としての入浴が、どのように家庭に、とりわけ女性に託されてきたのか。それを見ていくのが、本章の要旨。
入浴に関する記述が家政書に現れるのは明治中期頃。1888(明治21)年刊行の山本与一郎『家庭衛生論』。1人の衛生を守ることが一家の衛生につながり、その一家の衛生はやがて一国の衛生に結びつく、という主張。一家の衛生を守るのは母の勤めであり、母が行う衛生法を完遂することが、一国の衛生を守るために重要である、ともいう。
1890(明治23)年出版の飯島半十郎編『家事経済書』。身体の毛穴が垢などで塞がれると、身体が滞り発熱などの症状が出る。その上で日本時は熱湯によくする悪弊があると述べている。だから注意せよ、とは女性に向けられた言葉だろう。
第一次大戦後に女子教育が再編され、それまで求められていた「良妻賢母」の思想も再編された。高騰教育の必要性が強調され、女性の「潜在的能力」を引き出し、家庭に限定せずにその能力を社会的、国家邸に生かすことが求められるようになった。
明治期半ば以降、衛生領域や国民道徳論などの教育思想の領域で、西洋との比較によって日本人らしさと日本の入浴習慣が結びつけられたことと同様に、家政書でも入浴は日本人らしさと結びつけられていった。入浴を好む日本人というイメージを強化するものであった。言い換えると、近代国家に相応しい国民を示す「入浴習慣」という指標が用いられたのである。
第六章 精神に求められる清潔さ
欧米→19世紀に始まった公衆浴場運動を通して清潔規範の強化。清潔な体を持つことが道徳性をもった市民である
日本→清潔さを市民性ではなく国民性と関連づけた。「国民性」としていかに語られていったのかが、この章のテーマ
医師や衛生家、社会事業家たちは「清潔」という言葉を用いることが多かったが、国民道徳論においては「潔白」という用語が用いられた。
国文学者・芳賀(はが)矢一の『国民性十論』(1907年)というベストセラー。このなかで日本の国民性には十の特性があるとした。「忠君愛国」「先祖を崇(とうと)び家名を重んじる」「現世的、実際的」「草木を愛し、自然を喜ぶ」「楽天洒落「淡泊瀟洒」「繊麗繊巧(せんれいせんこう)」「清浄潔白」「礼節作法」「温和寛如(かんじょ)」。
清浄潔白の節では・・・
こざっぱりとした木綿物は気持ちがよい、新しい青畳は居心地がよいという我が国民は清潔を愛する民族である。隣国の品陣などと比べては大きな相違である。
日本人の様に盛んに全身浴をする国民は他にあるまい。東京史の湯屋は八百余件以上もあり、其外中流以上の家には各湯殿があって・・・
これに影響を受けた井上哲次郎『国民道徳概論』(1912年)では、国民性は14項目あり、「潔白性」はその五つ目に挙げられている。「現実性」「楽天性」「単純性」「淡泊性」「潔白性」「感激性」「応化性」「統一性」「短気性」「依頼性」「浅薄性」「鋭敏性」「狭小性」「虚栄性」
潔白性には、物質上と精神上の二つがある。それは土地の関係から来ていて、日本には綺麗な水があるのでそれに慣れているため不潔なことに耐えられない、とも。
野田義夫『日本国民性の研究』(1914)では、潔白であることが「忠誠の本領」を表すと述べ、潔白さは忠誠の象徴であり、日本人の道徳性を示すものだった。潔白でないことは「不道徳」であることを意味。
深作安文(井上哲次郎の弟子)の『国民道徳要義』(1916)では、日本の国民性として第一に挙げるべきものは潔白性だとし、潔白性とは清潔を愛して浮上を忌む国民性だとした。
肉体上の「潔癖」、つまり入浴を好むことが精神の「潔癖に」つながり、浸透の「正直、誠実、簡素」につながったと結論。
精神の潔白は、正直さのみならず、精神の潔白を証明するために「切腹」という風習が日本に成立したと説く。
第七章 世のため国のための身体
1880(明治13)年~1945(昭和20)年まで小学校科目で最も高く位置づけられてきた修身教育がこの章の内容。
国定修身教科書は、1945年までに5度編纂され、第1期から第5期に分類される。
第1期の尋常小学校修身書の第2学年では、体を綺麗にしなければならない、汚くしておくと病になることがある、としている。
第3学年では、丈夫な心は、丈夫な体に宿る、とし、身体が健康でなければ両親にも心配をかけ、世間のためにつくすこともできないと説明。
第4学年では、身体についての心得として、運動するのが大切、着物は清潔に、眠りや食事は規則正しく。垢をつけておくのは病気のもとになる、体を丈夫にして強い日本人となろう、と呼びかける。丈夫な身体や健康な身体が国家のために尽くすもの、と位置づけられている。
義務教育は尋常小学校4年までだが、その上に高等小学校の2年間ある。
高等小学修身書2年生では、「公衆衛生」という項目があり、衛生は公衆のためでもあると説かれる。
1907年に義務教育が6年間に変更。
第3期(1918年~)では、1914年に起こった第一次大戦の影響が。第6巻の「国民の務め」では、日本男子は少年のときから身体を強健にし、元気を養って見事に徴兵検査に合格して陸海軍に入り、名誉ある護国の義務を果たせるように心がけなければならないという要旨が記される。