【感想・ネタバレ】女って何だ? コミュ障の私が考えてみたのレビュー

あらすじ

職場の同僚、ママ友、親戚、ご近所……女同士の付き合いは、いくつになっても難しい。「同じ女でありながら<女>に対して言い知れぬ畏怖を感じる」というコミュ障の著者が、日々をたくましく生きる女性たちを、生き生きと時にシニカルに描いたコラム集。

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感情タグBEST3

Posted by ブクログ

「負ける技術」を読んで、カレー沢薫先生の世界観と筆致に完全に打ちのめされ、以来、見つかる限りのエッセイ本を現在進行形で拝読中。

この本は各エッセイのクオリティが高く、カレー沢薫先生の筆がノっている感じがします

この本に星5をつけたのには理由があり、第一部108ページ〜「お局」の項の存在です

の職場にも存在しているであろう、「お局」タイプの女性についてその生態を述べた文章ですが、史上後にも先にも、お局の生態をここまでコンパクトかつ的確に、漏らさず捉えた文章は存在しないでしょう。数々のカレー沢先生のエッセイの中でもマイベストオブベストです。

カレー沢薫先生の観察眼と筆力がここで極致に達しています。

全体を通して、一見、女性に対する一面的な見方を助長するような本にも見えるのですがそれは違います。

この本は、人間がいかに「典型/ステレオタイプ」というものに囚われ、自分の生き方や他人に対する物の見方の自由を失ってしまっているかという真理を教えてくれます

カレー沢薫先生が私の中で神格化されつつあります。

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2025年10月30日

Posted by ブクログ

ネタバレ

◾️record memo

私は自らのことをキラキラ系女子の対極として「消灯おばさん」と称したことがある。

人生で起きるさまざまなことは、自分自身さえ笑い飛ばしてしまえば、他人から見てもたいしたことではなくなる。ただ、意識とプライドが高いと、笑い飛ばせないことが多くなる一方なのである。
不遇な立場に立たされれば「自分はこんなところにいる人間じゃない」と思い悩むし、他人からぞんざいな扱いを受ければ屈辱と感じ、傷つく。

「自分はこんなもんじゃない」と思いながら生きるのは「私はこの程度」と思って生きるよりずっとつらいことである。

そもそも、この世界が人間にとって快適だったことが未だかつてあっただろうか。昔だったら、玄関出てすぐ、マンモスと遭遇、とかあったはずだ。これは相当生きづらい、というかリアルに死ぬ。そこから衣食住が確保できるようになると今度は「豊かに生きるべき」みたいないらんことを言う奴が現れ、それが「他人より豊かに生きるべき」となった時点で地獄の幕開けである。

どんな逆境でも本人が不幸だと思わなければ、それは不幸ではないのだ。

世の中にはまるで息をするように「かわいい」と言う女がいる。「そういう鳴き声」と分析する専門家もいるほどだ。

「何でもかわいいと言っとけば済むと思っているだろう」と非難する声も多いが、実際、社会ではかわいいと言えば済む場面は多いし、自分の美意識と関係なく「かわいい」と発せられる女の方がコミュニケーション能力は高い場合が多い。

大して親しくもない他人から突然見せられた赤ん坊の写真に、"勤続20年サンドイッチ工場ピクルス係(42)"の如く、惰性だが、正確かつスピーディに、「かわいい〜↓」という名のピクルスを置ける女と、赤ん坊の写真を『なんでも鑑定団』のBGMと共に査定、30分の長考の後「鑑定額:39円」というフリップを出す女、どちらに社会性があるだろうか。

『なんでも鑑定団』女のような、私は自分の認めた物しか褒めない、それが相手に対する誠意である、などというこだわりを、相手が理解してくれるわけないのだ。ことに女同士においては、本音でぶつかった方がいい相手なんて実は少ない。多くがパステルカラーの部屋でお互いの体に生クリームを塗りあいながら、「かわいい〜↓」と飛び跳ねる方が良しとされる関係である。

確かに私も、かわいいに憧れ、かわいいを欲し、そしてかわいいに囲まれた自分かわいいと思い、思われたいと思った時期があった。

地元と仲間(ファミリー)を愛している、と言えば聞こえはいいが、「ぬるま湯から出たくない」とも言えるし、さらにそのぬるま湯には仲間(ファミリー)も一緒に浸かっているので安心できる。
同じく私も地元を出たことがない。ただ私が浸かっているのは、湯というより「六一〇ハップ入れた?」みたいな、異臭を放つ黄色の液体な上、周りに誰一人いねえ、という貸切状態であり、「出るべきだ」とは思っているものの、出られない。出られない理由はヤンキー女と同じだ。「出たら多分寒い」からである。そして「じゃ今のままでよくね?」となるのだ。

キラキラ系や自分探し系は、上昇志向が強く、さらに現状満足度が低いのだろう。だからむやみに上を目指したり、今の自分じゃない自分を探してしまうのだろう。
別に上下スウェットにキティちゃんのサンダルでドンキの妖精になる必要はない。だが、今の自分に満足する力というのはヤンキー女に学ぶべきかもしれない。

干物女に必要なのはやはり、外野の声に「ひよっこが何か言っておるわ」と、炙ったイカをしゃぶれる、伝説の老兵精神なのだろう。

大人になると、「友達ができにくい」が「友達が必要な場面が減る」に変わる。つまり、大人になって無理をして友達を作ろうとするのは、特に必要のないものをリスクを冒して得ようとしているということである。

学生時代は女友達がいないことに悩んでいた。それだけ実害があったからだ。しかし「性格が悪すぎて友達がいない」の「性格が悪い」という部分は悩むべきかもしれないが、「友達がいない」ことに関しては、もう悩む必要などないのかもしれない。

社交辞令は必要だが、羨ましくもないものを羨ましがってみせるのはやめた方がいいのかもしれない。羨ましがる時は、本気、瞳孔全開、相手を八つ裂きにしたい時だけにしよう。

賢人曰く、そういう噂、悪口しか言わない嫌味なクソババアというのは、自分の生活に不満しかない不幸な奴なのだから、ムカつくより哀れめ。そもそも短い人生、そんな大便お婆さんのことで悩んでいる時間がもったいないではないか、ないものと思え、何を言われても1ワードしか登録されてないbotのように「そーですね」と言っておけばいいのだ、とのことである。

女というのは、大体が死ぬまで戦う、サイヤ人級の戦闘民族である。だったらサイヤ人のように、若い期間が長いという、戦闘に特化した体にしてほしかった。だが逆に、老いても平気で戦い続けるという点で言えば、サイヤ人以上の蛮族とも言える。

だが、戦う場所は女によって違う。鳥山明は、背景を描くのが面倒だから、早めに周囲を爆破して、荒野にしてしまっていたらしいが、女は背景も気にせず学校やオフィス、ママ友が集う公園、義実家など、様々なフィールドで激しい戦いを繰り広げている。

今回は「会社」というバトルフィールドを取り上げたい。ここで戦うと、背景を描くのが大変そうなので早めに爆破しておきたい。それでなくても会社というのはおそらく、世界一爆発を願われている施設だ。

会社というのは、戦場の中でも無差別級だ。士官学校を卒業したばかりの者から伝説の老兵まで、同じ部隊で戦っている。そして私も、中年OL兵として、この部隊に所属している。

つまり、会社、仕事というのは、多くの人が、生活のため、プライベートを楽しむための賃金を得る場なので、楽しくやれなきゃダメだということはなく、むしろ、プライベートの楽しみのために我慢をする場だ。
所詮、制限時間(退社時間)までの、我慢大会会場なのである。スーツ姿でサウナに正座し、膝に重石を乗せられている状態なのに、さらに隣の奴に「どこ住み?」と声をかけて友達にならなければいけないなんて、酷すぎるだろう。
終了のゴングが鳴ったら、さっさと全裸になって、「お先!」と部屋を出るぐらいの関係で十分だ。

たまにネット上で、理屈の通じない相手からバーリトゥード・ファイトを挑まれている人を見たことがあると思うが、あれは現実、会社でも起こるのだ。
「◯◯くん(アイドル)かっこいい」というツイッターのつぶやきに、「彼は私の彼氏なんですけど、どういうつもりですか?」と言ってくる人や、若い男性社員と話しているだけで、「アイツは色目を使っている」と言ってくる相手と、まともに戦えるだろうか。ましてや勝つことなど、できるだろうか。
「ちょっと待ってください、相撲で決着をつけましょう」と言っても無駄だ。清めの塩で目潰しをされるか、行司の軍配を奪って殴ってくるだけである。

会社というのは、友達を作る必要はなく、仕事だけしていればいい。それでも居づらくなる時は居づらくなる。その時は長居は無用。どうせ我慢大会会場だ、我慢できなくなったら他の我慢できそうな会場に行った方がいいだろう。

最近はSNSで映えるようなイケてる写真を撮るために、友人役のサクラを雇う者がいると聞いたが、そんなもの、インスタグラマー如きがやりだす何十年も前から、こっちはやっている。むしろ元祖だと言い張りたい。卒業までの契約で、お互い友達役のサクラをやっているようなものなのだ。

女は、子どもと旦那の面倒を見ながらフルタイムで働き、何だったら双方の両親の介護をこなしつつ、手作りのおやつをこさえ、いつもキレイにしていろ、母である前に妻であり女であることも忘れるな、さもなくば旦那に浮気されても文句は言えぬぞ、ということのようだ。これは10人がかりでやることかな?と思ったら、どうやら一人でやらなければならないようだ。

つまり、生きているだけで文句をつけられるのが女である。だったら、せめて自分だけでも、自分が納得できる生き方を選ぶしかないだろう。

このように、一個人への感情が「これだから男は、女は」になってしまう、「突然主語が巨大化」現象も、女vs男戦争を引き起こす要因である。

よって、クソと出会った時、そいつが男だったからといって、「これだから男はクソ」と思うのではなく、「クソがたまたま男だったというだけで他の男は関係ない」、もしくは「性別を与えるにも値しないただのクソ」と思うようにすれば、いらぬ性別戦争はなくなり平和になるのではないだろうか。

生きていく以上、敵に遭遇するのは避けられないかもしれないが、敵じゃないものまで敵視しても仕方ない。

お互い、ないもの、起こらないものの痛みで言い合っても永遠にわかりあえない。それより「痛がっているやつがいたら心配する」のが普通である。

「こっちの方が痛い」と言うのは、男、女ではなく、人として優しくない。

当コラムをどんな属性の人が読んでいるのかは知らないし、そもそも誰か読んでいるのかさえ謎だが、万が一読んでいる女性がいるとしたら「この乱世において、文字が読めるところまで、その性別でやってこれた」ということである。どこにいても厳しい社会において、それでも女としてやってきた上に、ひらがなやカタカナ、果ては漢字まで覚えたのだから、まずはそこを評価する方向でいきたい。

女に生まれてしまった以上、「この腐敗した世界に生まれてしまったゴッズチャイルド」という思想ではなく、「せっかく女に生まれたんだから」という姿勢で生きるべきだろう。

つまり私はこの6年の間に30代からついに40代に突入した。これも他人から見れば「おばさんの期間が終了しおばさんの期間がはじまった」という、スペースババア状態でしかないかもしれないが、ババアにもババア本人にしかわからない深度というものがある。

つまり、人を生きづらくさせているのは年齢や性別ではなく「他人の視線」なのではないか。

若い時ほど他人の視線を気にしがち、そして「若い女が注目されやすい社会」だとしたら、やはり女は若いほど生きづらく、年を取るほど視線が気にならなくなり生きやすくなる、と言えなくもない。

他人の視線を気にしなくなって楽になったとしても、他人にばかり視線を向けているような人生は楽しくない。つまり、他人の視線を気にせず、自身に目を向け、己の価値観により自分の人生を楽しめているのがBB(ベストババア)状態である。

「女はこう」などと、ひとまとめにして語られたくないなら、まず自分自身が己のことを語る時「私たち女は」と、主語をでかくして責任を分散させるような言い方をせず「私は若い女にクソ嫉妬しますね」と、個人を明確にして発信していかなければいけない。

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2025年09月14日

Posted by ブクログ

第1部つまんなくて、もうこの感じ飽きたなーと思った。
ワンパターンではある。

でも第2部は共感しきり。
普段Xを見ていて自分が思うことがそのまま書いてあった。
そのまますぎて、これはこれで自分が読む意義はないなとは思った。
つまりこれは、男の人が読んでくれたらいいのにな、という案件です。
でもなかなか読まないんだろうな。

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2024年10月30日

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