あらすじ
サディズム、マゾヒズム、フェティシズム、同性愛や異性装などのセクシュアリティをもつ人々が集った雑誌「奇譚クラブ」は、「その表紙に触れるだけでも戦慄が走る一種危険な雑誌」「戦後の裏文化の帝王」などと語られ名前だけは広く知られてきたが、雑誌の特色や内容に関する本格的な研究がなされてこなかった。
本書では、「奇譚クラブ」を含めた1950年代の戦後風俗雑誌7誌を全号通覧のうえ、類似雑誌の系譜・模倣関係を検証、「奇譚クラブ」の史料的特質とその重要性を浮き彫りにする。
吾妻新、沼正三、土路草一、古川裕子という4人の「奇譚クラブ」作家/思想家に着目する。戦後民主主義・近代化の潮流のなかで、サディスト・マゾヒストを自認した人々は、支配と暴力をめぐる欲望について何を考え、どう語ったのか。「家畜人ヤプー」「夜光島」などのポルノ小説やエロティックな告白手記から、主体性、自立、同意、愛をめぐる論点を取り出し、近代的な人間性をめぐる規範の限界をあぶり出す。
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Posted by ブクログ
「SM」こそ親密な関係である!!
ズボンとスラックス論争など、最初から最後まで読んでいて面白かった。特に、家畜人ヤプーの解説は興味深く、全書購入してしまった。沼ワールドに誘われ、深淵なるSMの領域へと実践知ではなく「知」から入ろう。
Posted by ブクログ
1950年台から60年代初頭の「奇譚クラブ」、特に当時「奇譚クラブ」の投稿者として名をはせた吾妻新と沼正三の二人を中心に(高橋鐵のような外部からの精神医学や性科学てきなアプローチではなく)当時の当事者たちによるSM論を読み解くというもの。「家畜人ヤプー」の沼正三はともかく、一般的にはほぼ名を知られていない吾妻新についてここまでキチンと論考されたことがあっただろうか?
内容も丁寧な読解でありがちな著者の考えが先走ったような強引さもなく納得のいくもの。沼正三の「家畜人ヤプー」についてはいろいろな人がいろいろ語りつくしてきたけれど、これほど明確なすっきりとした解説はなかったのではと思う。
個人的には吾妻新に近代化され合意に基づく脱病理化された遊戯としてのサディズムについては今一つ腑に落ちないものを感じる。当事者として生きる上において必要というのは十二分に理解できるが、自身の倫理観に基づく内なる欲望のコントロールの話で、どちらかというと社会生活を送る上でのマナー、処世術のようなものではないのかという気がする。吾妻新の性的嗜好は狭義の本来の語義的な意味でのサディズムというよりも、もっとフェティシズムに近いマゾヒズム的な関係性萌えとでも言うべきもののように見えるので、自身の中であまり葛藤のようなものは感じなかったのかもしれないが。
あと、最後の古川裕子の「暴力か愛か」という話は「レイプかそうでないか」と同じくマゾヒストである古川裕子にとってそれはそれまでの過程における文脈において明確であるが、サディストである吾妻新においてはそれが判らないということではないのかなぁ・・・
Posted by ブクログ
揚場町風俗資料館で日がなSM本を一緒に読んだ友達が勧めてくれた。
筆者はまさかの歴史学者(!)で、原則実証主義歴史学の方法で書かれているのだけれども、SMが日常生活と切り離すことにより、対等な主体同士でも可能とみなされるのが先進的だと捉えられていた時代から、尊厳を損なってもなお生き続けることの意義を問う時代へと移行しているという、いわば人間学や哲学に近い見方もきちんとあとがきでやっているのが好感持てた。特に吾妻新(村上信彦)と沼正三(倉田卓次)の対比から見えてくるものは大きい。
非ヴァニラセックス中心主義者としても、読むべき本でございました。