あらすじ
※この商品はタブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字だけを拡大することや、文字列のハイライト、検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。
【内容】
2024年春スタート、朝の連続テレビ小説の主人公のモデルとなった、三淵嘉子の生涯をまとめた本。女性で初めて司法化試験に合格して弁護士となったり、日本初の女性裁判所長になったりと、法曹界において時代を切り開いてきた、女性の生涯を描く。
また、仕事だけでなく、結婚や出産、再婚など、プライベートな部分にも迫り、社会に広く貢献してきた三淵のパーソナルな部分も垣間見えるような一冊である。
第1章 嘉子誕生 — 賢く活発な少女
第2章 人とは違う学生時代 — 反対にもめげず、明治大学へ進学
第3章 法律家への第一歩 — 女性初の司法科試験合格
第4章 嘉子、結婚 — 幸せから一転、過酷な戦中生活へ
第5章 激動の戦後 — 夫、父母、弟の死を乗り越えて
第6章 母として、働く女性として — 法を司る裁判官の責任を自覚
第7章 地方転勤と再婚 — 名古屋での出会い、新しい家族との生活
第8章 初の女性裁判所長に — 法曹界内の女性差別に敢然と講義
第9章 退官、その後 — 幸せな老後と最期の別れ
【著者】
佐賀 千惠美(さが ちえみ)
1952年、熊本県で生まれる。1977年、司法試験に合格。1978年、東京大学法学部を卒業、司法修習生に。1980年、東京地方検察庁の検事に。1981年、同退官。1986年、弁護士登録(京都弁護士会)。1991年、早稲田経営出版より『華やぐ女たち 女性法曹のあけぼの』を出版。1996年、京都弁護士会の副会長に。2001年、京都府労働委員会の会長に。同年、佐賀千惠美法律事務所を開設。2023年、『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』(日本評論社)が発売に。
もっと少なく読む
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
人生を羽ばたいた〝トラママ〟
三淵嘉子の生涯
著者:佐賀智恵美
発行:2024年4月1日
内外出版社
朝ドラ「虎と翼」の主役・寅子(ともこ)のモデルとなった裁判官で弁護士が、この三淵嘉子(よしこ)という人物。大正3(1914)年にシンガポールで生まれ、昭和59(1984)年に東京で逝去している。
本書の著者も、東大法学部時代に司法試験に合格し、検察官から弁護士になった法律家。30年以上も前に『華やぐ女たち 女性法曹のあけぼの』を出版し、日本で初めて弁護士になった女性、三淵嘉子、中田正子、久米愛の3人のことを紹介している。今回はドラマにあわせて三淵嘉子をフィーチャーした版に書き換え、本を売ろうということのようだ。
読んでみて、フィクションである朝ドラが、結構、この本というか、史実に基づいて作られていることに驚いた。父親は医師の家系で、東大法学部から台湾銀行に入ったエリート。弁護士なんていいぞ、とすすめたのはこの父親だった。母親像も、ドラマと一致している。ただ、兄弟は弟が4人で兄はいない。(ドラマで)親友と結婚して戦死したのは兄ではなく、すぐ下の弟。だから、ドラマと違って、嘉子1人が残された全員を経済面で支えなければいけない立場だったようだ。また、彼女自身の子供は娘ではなく息子だった。弟の妻(未亡人)は同居していたが、そこにドラマのように子供がいたかどうかは言及されていない。また、ドラマのように元々の親友だったかどうかも書かれていない。
父親が銀行幹部の身代わりで不正の罪を被りそうになるというような、ドラマにあった話は出てこなかった。
住んでいた家を建物疎開で失ったこと、子供をつれて疎開したこと、書生として下宿をしていた男性と結婚したが、彼も出征して死んだ点は、ドラマと大体同じだが、死亡原因は戦死と病死で(1回目の召集は病気ですぐに召集解除になっていて、2度目の召集で出征していた)、長崎まで戻って入院していて、そこで家族に連絡されないまま死んだらしい。その時、嘉子親子は福島県に疎開し、住んでいた粗末な小屋で毎日、ノミを取っていた。
(時代は戻るが)
高等女学校時代は理系が得意で成績抜群。しかし、ガリ勉でも優等生タイプでもなく、演劇好きで女優に憧れ、絵画や文章を書く才能もあった。トップで卒業し、総代を務めた。タイミングよく開校した明治大学の専門部女子部から進んだ明治大学法学部の卒業式でも、成績トップの総代だった。
ドラマでは、新潟地裁家裁の三条支所で判事になったが、実際は、裁判官として判事補になったのが東京地方裁判所、判事になったのが名古屋地方裁判所だった。なお、のちに新潟家庭裁判所長にもなる。
そんな彼女気性が激しかったらしい。ドラマではまだだが、初代最高裁長官の息子で最高裁調査官の男性、三淵乾太郎と再婚をすることになる。ドラマでは岡田将生が演じている新潟地方裁判所裁判官である。その乾太郎には子供が4人いて、長女は2人の再婚とほぼ同時に結婚したが、あとの3人と嘉子の子供とで暮らすことになる。夫側の連れ子の長男によると、継母(嘉子)は一言でいうと猛女で、夫婦仲も、昨日は仲睦まじかったかと思えば、今日は言い争うといった風に波乱が起き、家庭は平穏とは言いがたい状態だったらしい。とくに結婚して出て行っていた長女と嘉子は最も激しくやりやった。
嘉子の連れ子である息子の芳武から見ても、嘉子のありようには目に余るところがあったようで、電話で言い争っている母に「やめろ!」と怒鳴ったこともあったという。
そんな嘉子と乾太郎の共通の趣味はゴルフだったが、乾太郎は理屈でするゴルフ、嘉子は力でかっ飛ばすゴルフ、だったそうである。
嘉子の素顔はマージャンをするときによく表れた。息子の友人が遊びに来て、乾太郎、嘉子、息子、友人でマージャンをする。嘉子が高い点の手を狙っているときに息子が安い手で上がってしまうと烈火のごとく怒る。そして、「この親不孝者!」と怒鳴る。
******
明治大は積極的に女性法曹の養成を目指し、女子学生を入学させた。そのため、草分けの女性法曹のほとんどは明治大出身。
明治大女子部は、初年度300人の入学を予定していたが、途中で結婚のため退学する人も多く、嘉子の学年も50人入って20人卒業。
昭和11年に女性も司法科試験受験可能に。女子の受験もあったが合格者なし。翌年は中田正子が筆記試験突破、口述試験不合格。昭和13年秋の試験では、卒業した嘉子を含めた3人の女性が合格。女性の受験者数は約20人。
合格したが釈然としなかったのは、女性は弁護士にはなれても、検事や裁判官にはなれない、願書すらもらえないこと。そしてもう一つは「女性のための弁護士」を強調する新聞記事に違和感。女だから女の味方をするの?
弁護士になったものの、戦争の影響で民事裁判が減り、出番も減ってきた。国が戦争をしているときに国民同士争っている場合か、という風潮。そのころ受任していた離婚訴訟は、妻の不貞を理由に夫から起こされたもので、妻側としては不貞を否認する名誉をかけた争いだった。しかし、訴訟中に夫に召集令状が来ると事態は一変、周囲の圧力で協議離婚が成立してしまう。
アメリカ視察から戻った嘉子は、メアリー・イースタリングという女性弁護士に会った。彼女の提案で、日本でも女性法律家の組織を設立することになり、在京10人の法律家で「日本婦人法律家協会」を発足した。初代会長は久米愛、副会長は嘉子。
その頃、最高裁長官を囲む座談会が行われ、2代目長官が「女性の裁判官は、女性本来の特性から見て、家庭裁判所の裁判官がふさわしい」と発言したためその場で反論した。「家庭裁判所裁判官の適性があるかどうかは個人の特性によるもので、男女の別に決められるものではありません」。大変な勇気。
裁判官として危険な目にも。法廷での審査が終わってトイレに行くと、その日の裁判の当事者だった高齢女性に、洗面台でいきなりカミソリの刃を向けられた。