あらすじ
文化庁芸術祭賞大賞、ギャラクシー賞選奨を受賞、映画化も決定した映像ドキュメンタリーの名作を書籍化。芥川の名作『藪の中』のような、圧倒的な読書体験。
1992年2月21日、小雪の舞う福岡県甘木市の山中で、二人の女児の遺体が発見された。
現場に駆け付けた警察官が確認したところ、遺体の服は乱れ、頭部には強い力で殴打されたことを示す傷が残っていた。
二人は、約18キロ離れた飯塚市内の小学校に通う一年生で、前日朝、連れ立って登校している最中、何者かが二人を誘拐し、その日のうちに殺害、遺棄したものと見られた。
同じ小学校では、この3年3ヵ月前にも同じ1年生の女児が失踪しており、未解決のまま時が流れていた。
福岡県警は威信を懸けてこの「飯塚事件」の捜査にあたることになる。わずかな目撃証言や遺留物などをたどったが、決定的な手がかりはなく、捜査は難航する。そこで警察が頼ったのが、DNA型鑑定だった。遺体から採取した血液などをもとに、犯人のDNA型を鑑定。さらに、遺体に付着していた微細な繊維片を鑑定することによって、発生から2年7ヵ月後、失踪現場近くに住む久間三千年が逮捕された。
「東の足利、西の飯塚」という言葉がある。栃木県足利市で4歳の女児が誘拐され、殺害された足利事件は、DNA型鑑定の結果、幼稚園バスの運転手だった菅家利和さんが逮捕・起訴され、無期懲役判決が確定したが、発生から18年後にDNA型の再鑑定が決まり、再審・無罪への道を開いた。
その2年後に起きた飯塚事件でも、DNA型鑑定の信頼性が、問題となった。
DNA型、繊維片に加え、目撃証言、久間の車に残された血痕など、警察幹部が「弱い証拠」と言う証拠の積み重ねによって久間は起訴され、本人否認のまま地裁、高裁で死刑判決がくだり、最高裁で確定した。
しかも、久間は死刑判決確定からわずか2年後、再審請求の準備中に死刑執行されてしまう。
本人は最後の最後まで否認したままだった。
久間は、本当に犯人だったのか。
DNA型鑑定は信用できるのか。
なぜこれほどの短期間で、死刑が執行されたのか。
事件捜査にあたった福岡県警の捜査一課長をはじめ、刑事、久間の未亡人、弁護士、さらにこの事件を取材した西日本新聞幹部に分厚い取材を行い、それぞれの「正義」に迫る。
「ジャーナリストとして学んだことがあるとすれば、どこかひとつの正義に寄りかかるんじゃなくて、常に色んな人の正義を相対化して、という視点で記事を書くという考えに至ったんです」(西日本新聞・宮崎昌治氏)
いったい何が真実なのか。
誰の「正義」を信じればいいのか――。
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Posted by ブクログ
女児2人の遺体が山林で発見された飯塚事件。
容疑者は意外にも早々に浮上した。
決め手の1つがDNA鑑定。
今でこそ高い正確性を持つが、この頃の精度は高いとは言えなかった。
DNA鑑定が決め手となった冤罪事件、足利事件と同じMCT118法で鑑定された。
別のDNA鑑定では、一致しなかった。
断定できる決定的な証拠がないにも関わらず、総合的判断で死刑が言い渡された。早すぎる死刑執行。
鑑定ノートや証拠の捏造、隠蔽、改ざん。
目撃証言誘導の可能性。
検察や警察の不正は火を見るよりも明らかだった。
ところが、再審請求は認められなかった。
昨日読んだ、青木俊「潔白」(フィクション)の内容とこの事件は酷似している。
本の内容だけで全てを判断できないが、司法はいつでも正しいとは限らないという事だけは言える。
Posted by ブクログ
「死ぬ前に一個お願いを聞いてくれて、というのがあって。そのときに、あの朝なにがあったのか、というのをですね、どこかにカメラがあって、巻き戻してですね、みせてほしいな、と。どんな感じで、本当に彼だとすればですよ。違う人だったらどうするのか、衝撃ですけどね、どっかのカメラからね、これが本当でした、っていう。30年間巻き戻して。」
宮崎元記者の言葉が、もう本当に読んだあとの気持ちそのまま。関係者は誰もが一度はこう思ったのではないか。
DNA鑑定の事件捜査への導入や予算獲得に向けて警察庁が動いていた時期と重なったこと、同じ鑑定方法をとった足利事件が冤罪となったこと、証言の誘導、証拠の捏造を疑われかねない久間容疑者をクロとした前提での警察の捜査、事件発生当初、権力を監視する立場であるジャーナリストが”ペンを持ったお巡りさん”化していたこと、弁護側に不利な司法制度、疑わしきを罰する死刑判決と早すぎる死刑執行…。読み終わった直後の衝撃は非常に大きかったものの、Wikipediaの「飯塚事件」のページを読んで、本作品であまりにも触れられていないことの多さに少し鼻白む思いもする。まさに真相は藪の中。
個人の正義、組織の正義が語られる中で、徳田弁護士の「正義があまり好きではない。立場によって価値観が変わる正義については語りたくない」という言葉が印象的だった。正義の数だけ真実はある。SNSの炎上やいじめ、戦争までも、もとをただせば正義感によるもの、とどこかで読んだことを思い出す。だからこそ、宮崎元記者が語る「どこか一つの正義に寄りかかるんじゃなくて常にいろんな人の正義を相対化」する手続きがジャーナリズムにおいてのみならず司法の場でも必要だと思う。
現状の司法制度では、検察側にすべての証拠の開示義務がなく、裁判所側も弁護側の請求に対し、必要と認めなければ開示請求を却下できる。「飯塚事件」立件の柱となる証拠は、すべて状況証拠(目撃証言、DNA型鑑定、後部座席の血痕、繊維鑑定)で、直接証拠がなかった。ある一つの正義下で行われる状況証拠の積み重ねは、偏った真実を生む危険性を孕む。ならば、客観的事実を検察側と弁護側が共有してそれぞれの立場で分析し、裁判所で比較検討する、という”正義の相対化”が必要だったのではないか。死刑制度を採用している上で、冤罪による死の可能性はなくならない。その可能性を限りなくゼロに近づけるために、せめてこのような状況証拠のみで裁判が争われる場合だけでも全面的な証拠開示があってほしい。
Posted by ブクログ
正義というものについて考えさせられることがあり、タイトルを見た時に「誰のどんな正義についての話だろう?」と興味を惹かれて手に取りました。
恥ずかしながら飯塚事件というものを全く知りませんでした。名前は聞いたことはあったもののその事件の概要や、裁判・判決・死刑執行、更にその後の再審請求など全く知らず。(ドキュメンタリー映像もあるのですね)
司法における異例の事態といっても言い過ぎではない展開には息を呑みました。第二次再審請求の判断がほんの2週間前ほどにでたということもネットで知りさらに衝撃を受けました。
事件が起きた頃がDNA鑑定導入の黎明期だったことや足利事件とのからみなど、この時期でなければ事件のその後は違う展開を見せていたかもしれないと思わせられるものがあり、判決には確かに疑問を感じる点が本書を読んだ限りではとてもあります。
もしも無辜の民が処刑されたのならと考えたら…言葉を失います。
また、この人が犯人でなかったならば、極悪非道の人間が何の罰を受けることもなく普通に暮らしているということでもあり、大変怖いことです。
何人かの警察の人のインタビューを読んでいると、私にはそれは警察官としての正義というよりは思い込みなのではと感じさせられるコメントがありました。
後の警察庁長官になった人と西日本新聞の編集局長が信頼関係を元々持っていて、事件の関係で相反する立場になったという状況もなんだか因縁めいているなとも。
新聞社の人が最後の方で「司法というのは信頼できるんだと、任せておけば大丈夫と暢気に思っていたけれどそういうものじゃない」というようなことを語っています。私もそう思っています。
人生で普通に生きていたら中々検察官と関わることなどないでしょうけれど自分もある検察官と関わりそう思うようになりました。検察官だって人間です。正義からモノを言っていても、それが犯罪を犯した人ではなく無辜の人間を追い詰めることがあるのだと司法に関わる人間にはよくよくわかってもらいたいと今は思います。
本書の、無実の罪で処刑されたかもしれない人の妻が最後の方で(多分いつかの再審請求の最中と思いますが)「警察の中にまだ正義があると思ってる」と言ってることに私は正直驚きました。
そんな風に思えるものだろうか、と。確かにこの人の言うように個人個人の警察官にはいい人が多いかもしれない。でも夫を無実だと信じているなら夫を捕らえた人たちをそんな風には思えないのではと自分は思ったので、人の心はやはり不思議なものだと感じます。
「正義があまり好きではない」と話した弁護士さんに共感します。
正義を振りかざす人はそれを信じるあまり、誤っていてもなかなかそれを認めないし謝罪しない。そしてそれが本当に正義中の正義であったとしてもその正しさ故に逃げ場を失って追い詰められたり傷つけられたりして立ち上がれなく人間を生み出すことに気づかないです。
この事件の被告が無実だったかは永遠に分からないと思います。
本書と離れてやはり思うのは無辜の人を追い詰めるほどの正義って正義なのだろうか、ということ。
本書を読んでもそれはわかりませんでした。