あらすじ
電車の中や部屋の中、気が付けばいつもスマホをスクロールしている。本当は何が知りたいのか、自分に何が必要なのかわからないままSNSの世界に浸り続け、気が付けば自分自身を見失ってしまった――。
スマホ時代の過剰な繋がりによって失われた〈私〉を私たちはどうやって取り戻すのか。気鋭の哲学者による現代を生き抜くための思考法!
【本書の主な内容】
第1章 デフォルトの〈私〉
――――動物になるか、善い人になるか
・ミニオンズの憂鬱
・パッケージ化された善に警戒せよ
・目を閉じて、〈私〉の声を聴く
第2章 〈私〉を取り戻すための哲学的思考
・「新デカルト主義」宣言
・判断しなくてよいという判断
・批判的思考のプロトタイプ
第3章 ポスト・トゥルースを終わらせる
・SNSを気にする学生
・「正しさをめぐる争い」は終わりにする
・陰謀論は理性と情動に訴える
第4章 ネガティブなものを引き受ける
・対話とネガティブ・ケイパビリティ
・アルゴリズムと自己消費
・「弱いロボット」から考える
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
ゆりちゃんに借りた本
最初の個人の体験から引き込まれる
とはいえ前半は哲学の紹介部分で、ある程度哲学用語は知っているとはいえ読むのが辛かった
後半は現在の世界の状況を哲学用語を使いながら解説して行く
個人的に、陰謀論について書かれていた部分で、苦しみは単なる偶然で起こったものもあるのに、苦しみの原因を探ろうとするあまり理性が原因を捏造しているという部分が面白かった
Posted by ブクログ
個人的にはすごく良かった。
社会という空間の中で宙に吊るされた〈私〉を、確かに取り戻してくれた気がした。意識しないと、また宙吊りになってしまいそう。
〈私〉の絶対性と有限性は、覚えておきたい。
Posted by ブクログ
学生時代不勉強だった私は、読み進めるうちに、わからない語句を調べる、文章に戻る、調べる戻るを繰り返し、ようやく読み終わりました。
現代にある問題にも通じ、生き方や考え方に大きく影響を与えてもらいました。
わからない事を保留し、そのままわからない状況でも不安にならない事、そして決めつけない。更に人は不完全であるから、不満あっても付き合える友人がいることの素晴らしさを再認識させて貰いました。
Posted by ブクログ
他者の視点や判断に身を委ねるうち、〈私〉という自己イメージが曖昧になってくる感覚を覚える人は多いだろう。その〈私〉を取り戻すためには、逆説的だが、自分が自由にできる〈私〉という自己イメージを手放す必要がある、というのが本書の主張。全般的にやや繰り返しが多く少々くどい感じがするが、認識論、現象学、経験論などを幅広くカバーしている割には論旨が一貫しており、おかげで理解がしやすい。自身の身の上話から本書が始まるのも共感できる(本書の要諦を体現しているとも言える)。
かつて社会を支えていた共同体が果つるところで立ち現れた〈終わりなき日常〉(宮台真司)では、当該共同体で必要とされるコミュニケーション能力なき者は、ひたすらに自己の快楽のみを追求するしかない。すると、間主体的な批評の対象となるような「物語」よりも、それを構成するフェティッシュな個々の「要素」のみに着目し、共通理解を拒むかのような「自己のエロス」に閉じこもる〈動物化〉(東浩紀)が生じる。そのような「なんでもあり」の状況では、人間は克服すべき課題や障壁を見失い、理想や欲望の所在が不明瞭となる〈退屈〉(國府功一郎)に苛まれることとなる。
著者はこれらの背景に〈善への意志〉、すなわちもう一度他者との関係性の中で普遍性倫理を取り戻そうとする回帰的な欲望の作動を見る。マルクス・ガブリエルの新実在論を引き合いに、ポストモダン的構築主義に倦厭した人々が、自らの自由を手放し外部規範に隷属することを欲しているのだと喝破しつつ、これが自らの〈内なる声〉に耳を傾けることなく他者の評価に拘泥する、現代人の病理の根源であると指摘する。
この「自己の放逐と他者への依存がもたらす空疎さ」に対処すべく著者が提唱するのが、経験論哲学の系統を継ぐ〈新デカルト主義〉だ。畢竟、〈私〉は現象学的な「見え」から脱却することができない。〈私〉は〈私〉の自由には必ずしもならないのだ。そうであればとにかくこの「見え」から出発し、同じく個々の「見え」に依拠するしかない他者の認識を認めた上で間主観的な合意を探っていくしかない。その際重要になるのは、物事に対する判断を一旦保留するピュロン主義の〈エポケー〉である。複数の真実が暫定的に共存しているという状況を認め、安易な臆見を差し控える。そこにあるのは自己の認識能力の限界に対する強い自覚であり、これがデカルトの提唱した〈方法論的懐疑〉に通ずるというのだ。
自己と他者の認識が高々現象学的な「見え」に依存するという意味において対等である、という前提にたてば、「真実はいかなるものであるのか」という問いはその基盤が揺らいでくる。それよりは「私とあなたの認識がどのような意識体験から生じたのかを検討し、対話を通じて共通点を探ろうではないか。そのためには時間が必要だから即断は避け、問題を単なる信念対立から本質洞察に昇華させよう」と著者は提唱するのだ。
私の主観的・現象学的「見え」ではなく、外部の〈善のパッケージ〉に判断を委ねてしまうと、理性と情動に訴えかけてくる陰謀論に容易く取り込まれてしまう。そうではなく、この〈私〉がどう感じどう考えるかを観照し、同型の認識が他者でも成り立っていることを認めた上で共通理解を探る。その際、〈私〉が感じた違和感や摩擦が外部的対象の成立を担保しているのだから、そのようなネガティブネスから目を逸らしてはならないというのだ。
面白いと思ったのは、サイバースペースでやりがちな〈私〉のドレスアップを続けるうち、どうしても改変できないものが残るのだが、それこそが〈私〉のコアである可能性に言及していること。なるほどと思った。
Posted by ブクログ
【主な目次】
第1章 デフォルトの〈私〉
――――動物になるか、善い人になるか
・ミニオンズの憂鬱
・パッケージ化された善に警戒せよ
・目を閉じて、〈私〉の声を聴く
第2章 〈私〉を取り戻すための哲学的思考
・「新デカルト主義」宣言
・判断しなくてよいという判断
・批判的思考のプロトタイプ
第3章 ポスト・トゥルースを終わらせる
・SNSを気にする学生
・「正しさをめぐる争い」は終わりにする
・陰謀論は理性と情動に訴える
第4章 ネガティブなものを引き受ける
・対話とネガティブ・ケイパビリティ
・アルゴリズムと自己消費
・「弱いロボット」から考える
Posted by ブクログ
星4.5かな。
相対主義、構築主義の時代にあって、力に押し切られないために、<私>という確かな場をもつこと、そのことを自分だけでなく、あらゆる<私>に見出し、普遍の基盤を広げる。そこに倫理の基盤もある。
背景には、スマホ時代の<私>からの逃避も捉えられている。
デカルト、フッサールの哲学を参照しつつ、<私>という基軸を打ち立てる手法を説得している。
Posted by ブクログ
<私>を取り戻す哲学は、世界を取り戻す闘いでもある。一人ひとりが、<私>の内側に視線を移し、内省すること。それは、「スマホ」を介した外側の世界との接続ではなく、<私>の意識体験を見つめることだ。そこから、「よい」世界は創られていく。
Posted by ブクログ
岩内さんの『〈普遍性〉をつくる哲学』に敗北感を味わったこともあり、新書ならさすがにもう少し歩み寄れるだろうと、今度はこちらを手に取ってみました。
帯にあるように、なぜスマホを見続けてしまうのか、と私は日々スマホを長々とスクロールした後に自分が嫌になっております。
なぜスマホを見続けてしまうのか、それはタイトルからも想起させるように、自分(つまり、〈私〉)がないからです。
いやいや、待って、私は〈私〉があると思ってるんだけど…。
そんな気持ちで読み進めていくと、どうやらタイトルにある〈私〉は、私がまだたどり着けていない〈私〉かもしれないと思うようになりました。
自分自身、退屈を防ぐためにスマホを使う時と、自分はそれなりにいいことやってるよねという「善の確認」の意味でスマホを使ってる時があるような気がします。
「ついスマホを見ちゃう」には、その2つが入り混じった蟻地獄が潜んでいます。
特に厄介なのが、「善の確認」の方で、つまり、自分をさらけ出して、周囲に自らの行いを確認してもらわないと、この社会に存在していられないような不安がそこにあるのです。
もっと自分を自分で承認してあげる、そして、その自分で他者を承認する、他者から承認してもらう、スマホを介さずにその一連の相互承認ができると、自然とスマホとも適度な距離感で付き合えるのかもしれないなと改めて実感しました。
それが読書会や対話会をやる意味だと感じました。
さて、そんなことをインスタに投稿している自分は、少しは〈私〉を取り戻せているんだろうか?よくわかりません
Posted by ブクログ
導入に惹かれて読み進めた。
サイバースペースとの常時接続、暇だからこその悩み、動物化の欲求などたしかに〜!となるポイントがたくさん。
その後は、わかるようでわからん部分もたくさんあったが、これが理解できたらおもしろいんだろうな〜という期待感がなぜかあって最後まで読めた。
最後の最後で急に感傷的なエピソードが出てきてそれもよかった。
Posted by ブクログ
世界があり、それをわたしが正しく知覚する のではなく、わたしが知覚することはわたしの見方でしかないという絶対性と有限性に立ち戻る。そして言葉を通じたコミュニケーションによって他者と共有する。他者の絶対性も自分の絶対性も認めた上で、「間主観的な普遍認識」を獲得しうる。
ネガティブな感情をただ見つめること。解決しようとしないこと。はむずいけど、「時間が解決する」っていうのはそういうことなんだよなとも
Posted by ブクログ
宮台真司・東浩紀・國分功一郎と、日本の現代思想史上の三人を辿り直し、終わりなき日常・動物化・退屈というそれぞれのキーワードを再解釈したうえで、私たちはそのなかでサイバースペースが提供してくる世界に埋没し<私>を見失っている、と著者はいう。その上で、新デカルト主義の立場に立ち、まず自分自身とじっくり向き合い、拙速に決めつけるのではなく判断を保留することや、<私>を大切にするのと同様に、<私>の周囲やサイバースペースで出会うたくさんの<私>のことも大切にすることで<私>がゆたかになっていく、と論じられる。あとがきで「本書を書いている途中で、私はこれを家庭の中で実践できているのか、と何度も反省した」(p251)と著者は書いている。そういう姿勢が素晴らしいと思う。
Posted by ブクログ
メタバースという現象が一般化する前から、アバターを使って仮想現実に入る体験を少しだけしたことがある。ただそれはあまりにも非現実的で、人物造形も極めて荒かったためにすぐに飽きてしまった。最近のものは知らないが、メタバースというくらいだから、仮想現実というにふさわしいものになっているのだろう。
最近は現実社会に直視していないのではないかと思われる言動に出会うことがある。分かりやすいのはこの前の選挙である。日本人ファーストを主張した政党は、少なくとも末端の街頭演説では外国人が不当に優遇されており、日本人の職を奪っていると主張していた。確かにコンビニの店員はカタカナの名前の店員ばかりだし、駅で外国語を話す人が増えている。でも、彼らの多くは低賃金の労働者であり、その代わりを日本人が埋めることができるのかと言えばかなり怪しい。
つまり、ソーシャルメディアの情報などに左右されて、自分の見解を失っている人があまりに増えていること。それを煽る人たちの言説を無批判に信じてしまう人が増えているという事実がある。本書の著書の危機感はここにある。
本書の中心的主張である新デカルト主義は自己の復権をいうための方便と読んだ。デカルトの時代と現代では状況が違いすぎる。ただ、自分の人生の主人公を、他者との関係性にすべて還元してしまう最近の哲学の破綻を批判したいことはよくわかった。
情報化社会が他者への関心を極限まで高めた引き換えに、自分のことを見失わせたことをいま一度考え直さなくてはならないと感じた。
Posted by ブクログ
デカルトの「我思う、ゆえに我在り」には影響を受けていて、〈私〉を形づくっていると思う。
弱さや脆さ、自分ではどうにもならないことなどが、〈私〉の実在性を確かなものにしているとあって、〈私〉の内面を見つめ直してみたいと思った。
スマホを見続けてしまうのは、自己デザインと自己消費を繰り返してしまうからというので、気をつけないといけないと思った。
Posted by ブクログ
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』がとても面白かったので、似たような本として、こちらを読んだ。
最後のページまで、大変興味深かった。
多様性――“人それぞれ”という考え方に、違和感を抱いている人は多い。
「それって本当に自由なのかな?」と。
いや、確かにそれは自由なのかもしれない。
が、“人それぞれ”という考え方で得られる自由を、はたして私たちは本当に求めているか。相対主義を徹底した先に、何があるのか、そこに希望があるのか。“孤独”しかないじゃないか、と。
それに対し、新デカルト主義をもとに、<私>と<私>の共生について、間主観的な共通理解、新たな道筋を示してくれる。
なんというか、「少しキレイすぎる話だな…」という気がしないでもないが、これは希望が感じられる展開である。
新デカルト主義、<私>の絶対性と有限性、エポケー、ネガティブ・ケイパビリティ、ポスト・トゥルース、陰謀論、弱いロボット……
どの章を読んでも、面白い。興味深い。
途中、「んー…難解だな…」という箇所もあったが、執拗にこだわらず、ある程度理解ができたら次へと読み進めた。
特に説明もなく、専門用語が出てきたりするので、基礎的な哲学知識は必要かもしれない。
とはいえ、丁寧に時間をかけて読めば、本質的な部分は十分理解できる。
速読することに振り回されず、一冊としっかり向き合って、じっくり読む。
読み終えたとき、本書はその態度に見合った満足感を与えてくれる。
***
本書を読むことで、
日常生活における実用的な知識を得られるかといえば、まぁ、哲学なので、期待しないほうがいい。せいぜい、「良い態度を身につけられる」、その程度だ。
「実生活で活かしたい!」とか、そんなんじゃなく、「こういう考え方、面白いなぁ」という、娯楽目線で読む。結果、相当面白かった。
Posted by ブクログ
思考を重ねていくという表現が正しいか、思考を深めていくという表現が正しいか、哲学の王道を見るような本。著者と一緒にその道を歩くのだが、所々深さや厚みが一致せずに躓きながら、その過程もエキサイティングで楽しかった。
言葉を厳選し、そこに意味を凝縮する。その凝縮した言葉から敷衍したり、イメージをコンパイルする。例えば、「常時接続と過剰接続」というキーワード。今の社会は人間関係がスマホにより、常時、そして過剰に繋がっているという話だ。そのために、いつでも誰かからの情報を気にしてしまい、自分だけの余暇に他者の価値観が侵出する。それは、「過剰」だというのだ。単に、気が散ると言っても良いかも知れない。何に気が散るのか、それは、自らの潜在的な欲望と他者の価値が重なるポイントでもある。
ー 余計なものをそぎ落として私を取り戻すこと、情報と関係性の過剰さを哲学的に解体することー 本書で考えてみたいのは、すべての認識の起点となる(私)にほかならない。さしあたってここでは、(私)の本質は、「絶対性」と「有限性」である、と言っておこう。デカルト的省察のハイライトは、(私)に見えているものを見えていないと言うことはできず(絶対性)、しかし(私)の見え方は完全なものではない(=有限性)、というものである。
ー 逆に言えば、(私)によく見えていないものについては、それが何であるかの判断を急がない。つまり、判断を保留してみる、という選択も成立するだろう。この判断保留という選択は、事実と嘘の見分けがつきにくくなったポスト・トウルースの時代を生きていくための指針となるだけではなく、(私)にはどうにもならない状況に耐えるかを陶治する。
タイトルの話だが、取り戻す、という事は奪われた、と言える。そして、元々はあったもの、とも言えるだろう。取り戻すという言葉遣いだけで、著者の主張が分かる。元々なかった、とは言っていないし、私を奪った何者かの存在を示唆しているし、更に言えば、しかし「今はない」と言っていて、何なら、「元が良かった」とも読める。
その仮定は正しいだろうか。私を構成する言葉や価値観は常に外部や他者と混ざるもの。これは奪うとか、取り戻すとかという丸ごとを左右する話とは、本質的に異なる。単に環境適応的なだけだとも、ゼロ百で捉えるのは誤りだとも言える。そんな事を考えた読書。
Posted by ブクログ
最後のところがよかった。のだけど、私は傍点が苦手だということが分かった。著者にはすまないのだが、単に、苦手らしい。こういうのも抵抗のうちではある。
Posted by ブクログ
新デカルト主義、現象学について分かりやすく書かれており、よく理解できた。全体的に読みやすいが、哲学の入門知識があるとより分かりやすいと思う。引用されている文献に日本の本が多いのが特徴的。
Posted by ブクログ
サイバースペースへの接続によって情報摂取をし、コンテンツを消費し続けるのは退屈が原因であるが、情報を消費することにも退屈を感じ結局自分が何なのか、何をしたいのかわからなくなる。そこに「私」について、考える隙がない。うまくスマホ依存を言い表している。
デザインされた「私」からネガティブな部分を排除することで、人間的な本質が見えてこなくなる。人間は持ちつ持たれつで支え合いそこからつながりが生まれる。ネガティブな事柄にもポジティブな役割があることを忘れてはいけない。全く同感だ。無難なコンテンツばかり公開される中で、パッケージ化された善が氾濫し、我々はどこに向かっているのだろうかと時々不思議に思う。どんなにAIやテクノロジーが発展しようと多様性が推奨されようと、いじめや自殺や戦争がなぜ無くならないのか?ネガティブな心理の原因や役割から目を背けて「よい」ことだけを発信し続けていても、本当の喜びやつながりは生まれない。
Posted by ブクログ
とても現実的で、実践的な哲学。結局私とは自分が意識的に経験してきたものの総和だということ。
また、これは全員が持っている普遍であり確信できるもの。だからこそ、経験から語られものが人の心を動かし実用性に富んだものになるのだと思う。
これを感覚的に分かっている人はいるが、それをこれからの新しい哲学が証明できていることがすごい。
結局、自分へ内省から外へと繋がっていかなければ揺るがない自分にはならない。揺るがない自分はまた時と共に変容していく。
Posted by ブクログ
感想
見えない総体への恐怖。炎上を避け批判から逃れる。しかし本当にやりたいことはなんだろう。耳を傾けて目を見開く。自分の意見を聞いてみる。
Posted by ブクログ
エポケーですよ
あのね、もうちょっと分かりやすく書けへんかったのかなと思います
難しい漢字や専門用語を使い過ぎです
知っているという前提でがんがんくる
新書という形態にこだわり過ぎだよ講談社
この苦しい前半を乗り越えると、めちゃくちゃ視界が開けてきて、「なるほど〜」の連続になってくるんだけどね
ちょっと有段者向けの「哲学」だなって感じちゃいました
わいなんかまだまだ入門したてですから、ちょっと早かったのかも
で、エポケーっすわ
え?っと思わずぽけ〜っとしましょう!という意味です
やだ、嘘しか言わない、この人
Posted by ブクログ
現代は、外部から絶えず提供される情報に注意を奪われて、自分自身について考える時間が減っている。何故そうなっているかという背景と、その弊害、そして対抗策について論じた本。
自己とは何かについて論じられている部分が多かったが、個人的には、何故、多くの人が陰謀論にはまるのかを考えるきっかけになった。思うに、
① 他者より優位と思い込みたい願望
② 判断を保留できない気早な性格
これらを持つ人が、陰謀論を信じやすくなるのだと思う。
両方の特性を促進しているのは、SNSや動画配信プラットフォームではないだろうか。つまり、常に他者と表面上の優位性を競わされ、短い間隔で次々と新たな情報をインプットされることが、安易な他者への優位性の模索と、待つことへの耐性の低さを促進し、陰謀論への脆弱性を高めるのだと考える。対策としては、以下が有用な気がする。
① 謙虚さを持つこと
②ただ何もしない時間に慣れること
③ 世界の複雑性を理解すること
つまり、何かの問題の責任が特定の組織や人物の責任だという言説がある場合、自身がすぐに判断できる問題でないと認識し、分かった気になり得られる快感を我慢し、世の中の多くの問題は複雑な要因の連鎖で起こっていると考えることで、判断を保留でき、安易に陰謀論を信じることを避けることができるのではないだろうか。
Posted by ブクログ
自分には難しい内容でしたが、多面的に考えるよい機会になりました。相手や社会から押しつけるような話があったとき、一度立ち止まって考えてみようと思います。
Posted by ブクログ
哲学系の書籍を読んだり、勉強したことがほとんどなかったため、出てくる単語や概念を頭に入れることに終始していたが、哲学に興味を持つよいきっかけになる一冊であった。現代思想の基本的な事柄について詳しく丁寧に書かれており、デカルトの哲学との関係性や、構築主義や相対主義、ポストトゥルースの落とし穴を理解することができた。
構築主義や相対主義が蔓延している現代に生きる私たちが私を見失わないためには、私という確かな存在を持つこと。サイバースペースでは、自分を都合の良いように取り繕うことで私という存在が私から離れていってしまう。そのためには、取り繕いたい自分の内面も相手にさらすことが時には必要である。それはネガティブケイパビリティの考えにも繋がる。この考えや、なにかを判断する際には、判断保留を意味するエポケーという選択肢を持つことも、私という存在を確かなものにするには必要な要素である。
しかし、この一冊を読んだだけでは理解が深まっていないので、千葉雅也さんの「現代思想入門」(講談社現代新書)を読んで基本的な部分を理解していきたい。