【感想・ネタバレ】さらば東大 越境する知識人の半世紀のレビュー

あらすじ

日本を代表する知識人のひとりとして、非常に広い分野の著作を残し続けてきた吉見俊哉。その業績は、各分野の研究者たちに多大な影響を与えてきた。2023年3月に東京大学を退官するにあたり、これまでの学問遍歴を振り返る「特別ゼミ」を実施。都市、メディア、文化、アメリカ、大学……著者が探求し続けた5つの論点を、かつての教え子たちと徹底討論。そこから浮かび上がった、戦後日本社会の本質とは。1か月で15万回再生を記録した最終講義「東大紛争1968-69」の完全版も収録。

【目次】
前口上 吉見俊哉とは誰か(吉見ゼミ 門下生有志)
序 章 演劇から都市へ――虚構としての社会
第一章 都市をめぐるドラマ・政治・権力
第二章 メディアと身体――資本主義と聴覚・視覚
第三章 文化と社会――祝祭祭と権力
第四章 アメリカと戦後日本――帝国とアメリカ化
第五章 都市としての大学――日本の知の現在地
終 章 東大紛争 1968-69

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Posted by ブクログ

食べていく手段があるなら、人は後付けの権威主義的序列に加わらなくても生きていける。それが農地や店舗を持つ昔ながらの三ちゃん企業や三ちゃん農業だが、少なくとも、都市型の権威は関係ない。しかし、土地に縛り付けられる分、村社会や家族のヒエラルキーに対しては、より硬直的に組み込まれている。どちらが良いか。

都市の根本にあるのは移動性で、ムラは基本的に閉じた共同体。そのようなムラから飛び出したり、はじき出されたりした商人や職人たちのネットワークのハブとして都市が発達し、それが、西洋中世都市の基本モデルだと吉見はいう。

同様に大学も都市モデルで、教師や学生は移動を基本とした弱い立場であるはずだが、しかし日本では、大学受験があって、その先に就活があって社会人へ。この単線的な通過儀礼の中で「移動する自由」を前提にしていないという。大学は本来、ヨコ型の移動するネットワークのハブとして発達してきたものだが、日本では、大学はむしろ人々のタテ型の人生を支える仕組みになっている。それを偏差値というたったひとつの数字が貫いている。そこに、人々の価値観が一元化されてしまっている。この仕組み全体が、二一世紀の社会にもうまったく適合していないというのだ。

よく分かる気もする。その序列の下層に位置し、存在価値のない大学として社会的にも学生からも見下される状況があること自体が、日本の歪さの象徴ではないのだろうか。また、当然全てではないが、遊びに通うだけの大学という存在を所与のものとする社会は、不気味でさえある。アカデミアではなく、ただの社会への「階級付き整理券」の配布場所でしかない。

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2025年02月15日

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