あらすじ
鴻上尚史の革命と青春を描いた初小説作品。
あの熱狂、あの悲惨、あの戦いはなんだったのか?
ふと、休憩のためにつけたテレビ画面から流れたヘルメットをかぶった彼女。
その映像は60年代後半の学生運動のいち場面。
それから30年以上もたっていた。
同じ大学の、10歳ほど年上だ。
僕は彼女にあいたいと思った。
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Posted by ブクログ
この本は、ささやかにでも国家と闘うためのガイドであり、国家と何らかのすべで、闘うこと
考えること身体でリアルを感じることをやめないように、呼びかけるものだ。
人民のための大義だよ、
国家権力の横暴に対しては直接行動しかないことぐらい、知ってるだろ
リアルな現実 リアルとはなにか
国家という抽象を具体的に身体で感じる喜び
現実を取り戻した 現実のリアルを実感できる喜び
胡散臭い、敵対すべき国家は、なくなってしまった。国家」マスコミや偉い人にたてつくとSNSやテレビで批判されテレビは国家を嫌悪したり敵視する人は出さなくなって、自助を国家から求められそれを実行しながら国家を再びお上とよびお上と捉えて何もしてくれないのに、本書の言葉を引けば、
脆弱な個人のアイデンティティーを支えてくれる存在 になってきた。このイゴゴチのわるさ気持ち悪さはまさに鴻上さんがおっしゃる通りだと思う。
学生運動や革命運動は日本には長らく無いから、それを体験してない同時代でないひとは本能的に引き寄せられるか必要に迫られる生い立ちか何らかの身体的なリアル身体的に国家を感じ取った場合に、磁石のように引き寄せられ、もどかしいような苛立たしいような、憧れのような、親近感と疎外感と違和感と複雑な感情で、彼等を追ってしまう、という点で激しく鴻上さんに共感する。
今2024年春おそらくアメリカから始まった学生運動、大学がイスラエルガザ攻撃に関与していることを糾弾する運動は全く異なる文脈。でも、1978年3月の成田空港管制塔に連なる爽やかさと、現実、リアルな国家に対峙しリアルを体感する硬いものを叩きつける感覚があると思う。
この作品は小説の入れ子というか、小説の執筆過程を小説にしていて、書いていることはセクトの名前を除いてほとんど伏せ字や仮名なし作者本人まで実名なので小説かエッセイか日記か何だかわからないくらい、書いてあるのはほぼほんとのこと。
想像すること、出会うこと。
最後にボット出版から再び刊行される際のあとがき。彼は早稲田で死んだ、が原案の
ゲバルトの杜という映画の中の、内ゲバ、川口くんを殺してしまうドラマパートを鴻上さんが担当するという話が展開されている。浅間山荘や内ゲバや成田三里塚の闘争ですっかり悪者になってしまった学生、左翼、、リベラルまでもが。
息苦しさしかない、国家への従順が求められるこの時代に、声を出しても声をあげてもパレスチナにもミャンマーにも届かない殺伐とした時代に。リアルな現実と思う、感じることを信じて闘う。かっこ悪いんだろうけどヘルメットをかぶらない、かぶれない私たちの闘い方、リアルを打ち破るリアルを示唆してくれる。