あらすじ
「anan」「BRUTUS」「POPEYE」日本の出版文化の一時代を築いた雑誌を生み出したアートディレクターであり、数々の名作絵本の作者としても知られる堀内誠一。エディトリアルデザインの先駆者であり、天才と呼ばれた著者が、戦前から1980年代までの雑誌と絵本作りの現場を生き生きと語る唯一の自伝が初の文庫化。各方面で活躍したクリエイターたちとの交遊録も必見。
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Posted by ブクログ
堀内誠一(1932-1987)。むかし写真を見て、目のギョロッとした不思議な人だと思った。an・anやOliveなどの雑誌のアートディレクター、福音館の魅力的な絵本の作者、フランス在住のエッセイスト……いろんな顔があるが、いったいどんな人なのか。
本書は、前半に47歳の時に出した自叙伝、後半にその後のエッセイとインタビューを収める。個人的には、伊勢丹の修業時代のエピソードがもっとも興味深かった。
1947年、14歳で伊勢丹に就職し、宣伝課修飾係に配属。新宿・伊勢丹ビルは、3階以上は進駐軍に接収されていて、2階以下で営業。
夜は美術研究所(塾だね)に通いながら、伊勢丹に10年。そのセンスとノウハウ、とくに時代の風を読む能力は、この時代に磨かれたのではないだろうか。
この時伊勢丹は「水着ショー」を始め、最初のことゆえ、モデル集めに苦労したという。「体育学校の人を起用したり、宝塚チームから探したり、新宿のバアからスカウトしたり」。ちなみに、体育学校は左幸子、宝塚は松田和子、新宿のバアは芳村真理。
Posted by ブクログ
『アンアン』を製本する工場での創刊記念祝賀会にて平凡出版副社長 清水達夫から「これからは美しい雑誌でなければいけません。そのためにはアート・ディレクターが重要な役目です。ですのでこの機械の動き出すテープを切る役目はアート・ディレクターの堀内さんにしてもらいます」とやられてびっくりした男、堀内誠一。彼の存在が新しい文化の扉を開けたことは椎名和「49冊のアンアン」で読んだばっかり。まるで時代の特異点をつくった突然現れた天才みたいに感じてしまいますが、父の「レインボー・スタジオ」のこと、父の出身の多田北烏の「サン・スタジオ」のこと、図案家という職業のこと、伊勢丹宣伝部時代の装飾係のこと、広告係のこと、PR誌製作のこと、それと並行して通った現代絵画研究所のこと、写真雑誌『ロッコール』のこと、新雑誌『装いの泉』のこと、織物出版社からアド・センターのこと、名取洋之助のこと、ヨーロッパ滞在のこと、じわじわとあの堀内誠一になっていく過程がとつとつを語られています。それは時代がが図案家をグラフィックデザイナーにしていく流れでもあるような気がします。そしてグラフィックデザイナーの後の絵本作家時代の話もしみじみ語られています。瀬田貞二さんの話は堀内誠一が何を大切にしているのか、を表していると思いました。「次いで『平凡パンチ』ではメンズモードのページを担当し、『パンチ女性版』では編集まるごと引き受けた。これが勉強期間で、平凡出版の最初の女性誌への進出である『アンアン』の創刊からADをすることになったわけです。もっとも僕のやっているあいだ『アンアン』は伸びませんでした。どうも僕は流行とは関係ないみたいですよ。」もしかしたら時代が堀内誠一という職能を見つけ出し社会を変えたけど、本人はなにも変わっていないのかもしれません。『アンアン』は淡々と…なのかもしれません。グラフィックデザイナーの底流に流れる図案家という源流の可能性は、デジタル時代の今も大切なのかも…と感じたりしました。