【感想・ネタバレ】名著の予知能力のレビュー

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Posted by ブクログ

ネタバレ

 感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会的なものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。(「人生論ノート」三木清著、新潮文庫)
 普通に読むと逆ではないかと思ってしまう。なぜなら感情なんて個人のものなのだから主観的に決まっているし、知性は客観的なことについて言及する能力のはずだ。ここには、三木らしいレトリックがある。この言葉のいいかえの部分に注目してみよう。
 客観的なもの=社会的なもの。主観的なもの=人格的なもの。このように三木による定義づけよにって文章を読みかえていくと、本当の意味がわかってくる。感情が社会的なものというのは、自分ならではの純粋な感情ではなくて、たとえば、他人がこの番組が面白いといえばなんとなく自分も面白そうだと思ったり、グルメサイトの口コミで多数の人がおいしいと書き込んでいれば、なんとなくそのレストランの料理をおいしく感じてしまう。感情というのはこんなふうにたやすく煽られたり、空気によって左右されたりするものだ。三木は、これを「社会化されている」「客観」と表現しているのだ。
 しかし、知性は違う。社会やその場の空気に左右されず、きちんと自己の基準で良否を吟味し判断できるのが知性。だからこそ、三木は知性こそが主観的なものであり、人格的なものであると述べているのだ。

「感情を煽ることは容易だが、知性を煽ることはできない」
 岸見さんは三木の知性に対する考えを一言に凝縮してこう表現してくれた。私たちは、ともすると、周囲の空気に流されてしまい、自分で考えることをやめてしまいがちだ。三木は、こうした状況を「精神のオートマティズム」と名付けて鋭く批判した。

 若松さんとの打ち合わせの中で、特に印象的だったのが、「西田哲学は決して日常を離れた思想的営為ではない」というポイントだった。「純粋経験」などというと、日常を離れた悟りの境地のようなものであり、私たち凡人には関係のない高尚な概念だと思いがちだ。だが、若松さんは、たとえば、料理をするとき、掃除をするときなど、私たちの生活の中にも「純粋経験」はあるという。絵画を鑑賞するような事例がわかりやすいだろう。私たちは、美術館で絵画を鑑賞するとき、パッと見てよくわからない場合は、まずキャプションから読もうとする。その解説を見て絵画を解釈しわかった気になろうとするわけだ。
 西田であれば、これは「美の体験」ではないというだろう。私たちは、事前に得た知識や、好き嫌いといった嗜好、慣れや習慣などを通して、事物を見たり体験したりしがちだ。だが、幾重にも重ねた色眼鏡を通してものを見てしまうがゆえ、「そのもの自体」を見ていないと西田はいう。「純粋経験」とは、こうした色眼鏡を一つひとつ取り外して「じかに観る」ということなのだ。自分と対象の間にフィルターを置かず、その体験そのものに身を浸してみること。そうすることで、私たちは世界の本質にもっと近づけるというのだ。

 五十代も半ば近くになると、周囲の知人・友人たちも、部長やそれ以上のクラスの管理職を担っていることが多い。彼らの多くが、今、厳しい問題に向き合っているのだ。大きな企業ほど「大企業病」とでもいうべき病に苦しんでいる。
 代表的な病は、管理部門の行き過ぎた肥大化である。知人・友人には、書籍やWEBメディア、映像などのコンテンツを制作する人や、学術界で働いている人が多い。だから、五十代で管理職といっても、フロントラインで働いている人が多いのだ。彼らと飲みにいくと真っ先に愚痴が出るのは、報告書や提出書類のたぐいがびっくりするくらい多いこと。このご時世、企業や研究機関への世間からの視線は厳しい。「コンプライアンスの順守」の名のもとに、それらに忙殺されて、肝心の学術研究や、コンテンツ制作に手が回らないことが多いというのだ。それに伴って、そうした報告書類を管理・処理する管理部門がどんどん大きくなっているという。実際に商品やコンテンツを作り、お金を稼ぐために最前線で戦っている彼らがそのことに注力できず、雑務に追われて疲弊してしまうという皮肉な現象……。まことに本末転倒なことが起こってるのだ。
 それに追い打ちをかけるのが、全く現場のことを知ろうとしないトップや部門リーダーが、思いつきのような形で進めようとする「改革」という名の現場崩壊。それを支えているのは、たとえ現場のためにならない改革と分かっていても、自らの保身のために忖度しまくり、指令をそのまま説明もなくおろしてくるイエスマンの側近たち。
 目先の成果が上がれば上に対してのよい報告の類になるから、勢い、短期的な成果ねらいの派手な商品や企画だけが尊ばれ、これまで企業や研究機関として大切に育ててきた、公共的な価値が高く、長期的なスパンでしか結果の出ない大事な仕事が次々に滅ぼされていく。結果、長らくその企業の商品やコンテンツを愛してきた人々が離れていってしまうのだ。
 同世代のサラリーマンや研究者たちが直面している悩み、苦しみは、こんなふうにほぼ共通している。これは、今、日本全体を覆っている暗雲なのかもしれない。

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2023年07月29日

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