あらすじ
炎上を超えて、小山田圭吾と出会いなおすために。
コーネリアスの小山田圭吾が東京五輪開会式の楽曲担当であることが発表された途端、過去の障害者「いじめ」問題がSNSで炎上。
数日間で辞任を余儀なくされた。
これは誤情報を多く含み、社会全体に感染症のように広がる「インフォデミック」であった。
本書は当該の雑誌記事から小山田圭吾の「いじめ」がどのように生まれ、歪んだ形で伝わってきたのかを検証するジャーナリスティックな側面と、日本におけるいじめ言説を丁寧に分析するアカデミックな側面から、いまの情報流通様式が招く深刻な「災い」を考察する現代批評である。
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
小山田圭吾に対する批判が、雑誌を恣意的に切り抜いたブログに依拠してなされていた、という話をもう少し掘り下げて知りたくて読んでみました。
ある意味当然ではあるのですが、恣意的な切り抜きかどうかは、結局のところ原典(音楽雑誌記事)に当たってみないと分からないところがあります。
それでも、小山田圭吾が、発達障害的な同級生との間でそれなりに親しい交流があったことを踏まえると、本書の主張にも説得力があるように感じました。
今後も同様の現象は起きると思いますが、情報源や原典に当たることの重要性は心に留めておきたいものです。
Posted by ブクログ
人文学者の手によるインフォデミック糾弾の書。僕は著者のような小山田圭吾の特別な信奉者というわけではないが、若い頃、パーフリから「Fantasma」まではそこそこ熱心な聞き手だったし、そこから20年以上も経たのちに持ち上がった件の「いじめ」報道と炎上騒ぎには心底辟易していた。ただ僕の抱いた疑念は著者のそれとは全く違い「なんであの小山田圭吾ともあろう者が『オリンピックの楽曲制作担当』などという名誉職を引き受けたのだろう?」というものだったけれど。念の為に申し添えれば僕はボランティアにも参加したオリンピック賛成派で、ただオリンピック自体は全く無害な催し(であり、それ以上のものではない)だがそれに付着している栄誉やら何やらは本当にくだらないと思っている。そこに唐突に加えられた小山田圭吾という強烈な色彩が、オリンピックのその無害さとどうにも相容れないものに思えただけだ。
そういうわけで、本書の第3章までの内容にはさほど共感することができなかった。確かに当時の邦楽ジャーナリズムが欲するように方向づけられてしまった面は否定できないだろうが、この奇矯なイメージづけで小山田が得たものもそれなりに大きいように思えるのだ。当時の小山田は、繊細で美麗な楽曲のコンポーザでありながら、攻撃的で非道徳的な面を併せ持つ一種理解し難い奥深さを持つアーティストとして認識されていた。そこに例のROJ・QJの一連の記事は一定の貢献をしたと言っては本当に過剰なのだろうか。それが反ヒューマニズムであるとして糾弾の対象となる度合いが、この数十年で大きく変動してしまったのは本当に不幸なことだが。
ただ、第4章の内容にはかなりシンパシーを感じた。自分の経験に照らしても、自分が「いじめている/いじめられている」まさにその時は、自分が「いじめる側/いじめられる側」にいるという意識は確かに希薄だ。しかしいったんそのような状況が閉じられた後で、それは「いじめ」や「パワハラ」であるという外部からの指摘ないし定義づけに接すると、そこではじめて「あれはいじめだったのだ」という明確な認識を持ったりする。他人が同様の状況(本書の言葉を借りればある種の「構造」)のもとで経験したエピソードに触れることで、自らの経験を事後的にその文脈で容易に捉えなおしてしまうのだ。
これはつまり「他人の人生を生きる」ということに他ならない。自らに固有の感性に基づくのではなく、他人の経験や批評を介してでしか自分の人生を評価できなくなってしまう。これは確かに著者のいうとおり由々しきことであり、奔逸する情報があまりに多すぎて、個々の情報を自らの経験に基づいて吟味する暇もなく脊髄反射的に反応することを余儀なくされている我々が容易に嵌りがちな陥穽だと言える。
「自分がエコーチェンバーの中にいるかどうか」は事後的にしかわからず、その外に出てみて「自分はエコーチェンバーに囚われていたのだ」と初めて認識できる。これはまさに「いじめ」の経験の図式と全く相似ではないか!「いじめ」と「エコーチェンバー」に同一の構造が隠されていることを喝破した、この著作は小山田圭吾のファンならずともぜひ一読すべきものだと思う。
Posted by ブクログ
2021年夏からの無茶苦茶なメディア、無茶苦茶なネット空間を思いだしてしまいなかなか読み進めることができませんでした。
この本には現代人として必要な知識が詰まっています。
全宇宙読め!
今までこの世になかったネット空間が日常となった現代、人類はまだまだこの技術についていくことができていないのだ。
まずはインフォデミックという言葉を覚えることから始めましょう。
将来、ネット空間を含めより良い世界になることを願います。
Posted by ブクログ
読んで良かったす
偶然にも「なぜ働くと本が読めなくなるのか」を読んだあとだったのが良かった。
読書にはノイズ(自分と関係がない情報)が含まれ、必要な情報に簡単にアクセスできる現代では避けられるようになった、というのが「なぜ働くと〜」の結論だった。
本書は冒頭で「複雑なことを複雑なまま伝えることが必要」という言葉で始められ、これが読書だけが担える役割であって、現代のポストトゥルースの甘受、あるいは無意識的享受に対抗し得る手段であると思えた。
本書で扱う問題は、ファクトチェックが進んだ現在でも、「シンプルに丸めて」理解しようとすればするほど氏にとって不利な材料が多い点が一層インフォデミックを加速していると感じた(当人が行っていないと釈明した行為を除いた上で、他のいじめに近い行為があった事実。被害者証言の不足等)。
それでも、全てに目を通すと「他人には短い時間でこの問題の是非を伝えることは難しいけど、自分の中で一つケリはつけられた」と思えたし、様々なネット記事の通覧では得られなかったであろう読後感であった。
特に、雑誌の意図的なプロデュースや2ちゃんコピペに端を発するブログ記事、ブログ記事参照の炎上発端ツイート、毎日新聞によるツイートの取り上げの一連の流れとその詳細なファクトチェックは、注意すべき一事例として参照の価値があると感じた。
Posted by ブクログ
当該インタビューをリアルタイムに読んだものとしては、あの騒動について全く理解し難いことだったのだけど、この書を始めとしてしっかりと総括されていることについて、非常に頼もしく思います。妙な憎しみで世の中が満たされているような感じがしているのですが、冷静に少しずつでも薄まっていけばよいな、と思います。
Posted by ブクログ
読む順が前後したから仕方ないんだけど、先だって読んだ小山田炎上関連本で、概ね触れられてた内容。簡単に炎上に与してしまいがちな姿勢を非難するのでなく、そこに至る背景を丁寧に紐解き、あくまで中立的立場から経緯を纏め直そうという論旨が好もしい。見習わないと。
Posted by ブクログ
読み物としてもおもしろかった。
著者の小山田圭吾への愛が感じられ、そこに感動した。
実際には犯罪を犯していないのに、民衆によって犯罪者のように断罪される。この事例はなにも現代特有のものではなく、人間社会では常に起こってきたこと。(様々な冤罪事件含めて)
そして、小山田氏の事例も例に漏れず。
ただ、問題を矮小化することなく多岐にわたる視点で総括し、(インターネット空間で起こるエコーチェンバーとインフォデミックを細かく検証しているのは意義があるが、インターネット以前のメディアでもこうしたことは起こっていたと思う。巻き込む民衆の単位の桁が違うが。しかし、こういった総括や反論のスピード感もこの時代ならではとも言えると思う。)それらを踏まえて、今後への展望を語っているところに愛と本書の意味を感じた。
帯が「出会い直し」やもんね。
Posted by ブクログ
小山田圭吾が思っていたよりもさらに悪くなくて驚いた。イメージに引っ張られていたと反省して最新作を聴いてみたが良さが分からなかった。なんか仙人みたいになってないか。
あと、小山田圭吾を糾弾した人とこの本を読んで糾弾した人を糾弾する人の間にはたいした違いはないのではという考えが頭を離れなくて読んでいて居心地が悪かった。