あらすじ
世界に冠たる古書店街「神田神保町」はいかにして出来上がったか。幕末から現代にまで至る一世紀半余、そこに蝟集した書店、出版社、取次、大学、語学学校、専門学校、予備校、映画館etc.の栄枯盛衰をさまざまな記憶と記録を召喚して描き出し、日本近代を育んだ“特異点”の全貌を明らかにした大著が、未来の“本の街”への扉を開く「文庫版あとがき」を増補して遂に文庫化!
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Posted by ブクログ
神田神保町は、徒歩圏内というわけではないが通っていた大学から比較的近かったこともあり、学生時代よく行っていた。
就職で東京を離れた後は、コロナ禍の2020年を除き月1回、東京へ出てきていたが、神保町に立ち寄る時間はなく、しばらくの間、足が遠のいていた。
一昨年、十数年ぶりに東京へ戻り、再び神保町へ足を運ぶようになったが、学生時代と大きく変わっていて驚いた。当時よく行っていた古書店や喫茶店の「エリカ」は既に閉店、三省堂は建て替えのため取り壊され、書泉グランデも当時と様変わりしていた。東京堂は健在だが店内風景が当時と大きく変わっている(しかしブックカバーの掛け方は当時のままで安心した)。
そんなこんなで、東京堂の店頭でたまたま見つけたため買ってみた。神保町の歴史について、街だけでなく個々の書店について(芳賀書店も含め)詳細に書かれている。
読むのに時間はかかるが、神保町好き本好きには必読の書だろう。
Posted by ブクログ
今年、神保町では、3年ぶりに古本まつりを開催された。大勢の人が古本を手にとってパラパラめくっていた。
そんな神保町を取り上げたのが今回の本だ。しかも著者は本好きで、様々な古い資料を集めていることで有名な鹿島茂。
文庫というには分厚い766ページで、定価は2000円+税と他の文庫に比べて高い。
神田神保町を取り上げようと思ったら200ページぐらいなんて済まないのだろう。
神田という地名は、「むかし各国に一ヵ所ずつ大神宮の御供米を植える田が設定され、これを神田と称したので、武蔵国の供米田は即ち今日の神田にあったのである」と矢田挿雲『江戸から東京編(一)麹町・神田・日本橋・京橋・本郷・下谷』(中公文庫)から引用して説明している。
今でも面影すら見られないが、そんな過去があったのか。
古代は「神田」と書いて「みとしろ」と読んだ。「椿山荘」と書いて「ちんざんそう」と読むくらい難しいなあ。
そして、「神保町」という地名は、「町名は表神保町北側にある『神保小路』に由来する。神保小路は、元禄二年(1689)に旗本の神保長治が小川町に屋敷地を拝領したことにより、このように呼ばれた」(北原進監修『大江戸透絵図 千代田から江戸が見える』「第二部 千代田区町名由来事典」)
慶応二年(1865)の地図で「神保小路」に「表」と「裏」をつけた別の通りとして扱っていたそうだ。
後に靖国通りになる細い通りが「裏神保小路」で、現在のすずらん通りがあるところが「表神保小路」だった。
今では表と裏が逆転しているな。
明治時代になりこの周辺にあった武家屋敷は、官有地になり、新しく太政官の役人になった人に住居として貸与されたり、払い下げられたりした。
その中にあの「Eiichi. Sibusawa」がいた。渋沢栄一が買い取った新住居は、総坪数543坪というからなかなかの邸宅だ。
現代ではどこに当たるのか著者が調べると、なんと地下に神田伯剌西爾という昭和レトロを感じさせる喫茶店のある小宮山書店から一誠堂書店の辺りまでがすべて渋沢の屋敷だった。
現在の価格に換算すると2200万円くらいで売却されていた。
ビッグになる人は違うなあ。
本が集まり売って買う人がいないと商売は成り立たない。神保町が古本の街になったのは、大学、専門学校、予備校ができて、学生が集まり、本を売ったり買ったりする層が生まれたからだ。
神保町の書店といえば、三省堂書店が浮かんでくる。現在、仮店舗で営業している。
そんな三省堂書店は1881年(明治14年)に創業した。場所はこの前まで営業していたところで、古本屋から始まった。
出版社では、有斐閣が1877年(明治10年)に創業した。
そういえば、太平洋戦争時に神田神保町は、空襲で店舗が焼けなかった。
植草甚一という古本好きの方が「植草甚一スクラップブック39 植草甚一日記」(晶文社)を出していた。そこでは1945年当時の神保町の様子が分かる。
植草甚一は、足繁く神保町の古本屋に行って古本を買っていたことがわかる。古本と言っても洋書なのでビックリ。「鬼畜米英」と叫ばれていた時代にまさかに洋書を売っていた。
植草は、8月14日という翌日に「玉音放送」で、終戦を国民が知らされる前日にも古本を買って、しかも銀座の東宝本社で、ナマ・ビールを相当飲んだそうだ。
こんな時に生ビールを飲んでいたのもビックリだが、洋書を買うとは相当奇特な人と思わずにはいられない。
当時、神保町の古本屋が洋書を売っているには理由があった。それは、1941年施行の公定価格令以来、和書は良書を手に入れるのが難しくなり、店先には駄本しかなかった。
そうなると、公定価格のない洋書を目玉商品にせざるを得なかったようだ。
この後もバブル期の地上げ、平成不況、読者層の減少などの厳しい時代を生き抜いてきた神田神保町。
古本好きなだけに、これからどうなっていくのか気になるなあ。