あらすじ
突然怒り、取り繕い、身近なことを忘れる。変わっていく認知症の父に、60男は戸惑うが、周囲の人の助けも借りて、新しい環境に向き合っていく。結局、おやじはおやじなんだ。時に父と笑い合いながら、亡くなるまでの日々を過ごす。「健忘があるから、幸福も希望もあるのだ」という哲学者ニーチェの至言に背中を押されながら。
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Posted by ブクログ
この本に登場する「父」(=著者の父親)は80歳代後半。一方で私の両親はともに80歳代前半。現在私は両親といっしょには生活していないが、両親の認知機能がなだらかな坂を下るかのように低下しているのは日常会話などからなんとなく感じられる。だから私がこの本を読んだきっかけは、自分の両親(さらには自分自身)の認知症がより進行した場合に備えた“予習”だ。
この本の副題-認知症の父と過ごした436日-とは、著者の母が亡くなった日から数えて父本人が亡くなるまでの日数を指している。つまり父にとって長年生活を共にしてきた妻がこの世からいなくなった時点がスタート。だが冒頭から「父は母の死を認知していないようだった」というショッキングな記述に突き当たる。著者が母の名前を言って「亡くなったんだよ」と言っても目を丸くするだけだという記述を、私は現実感をもって受け止められなかった。
これは認知症の症状として私の両親のものを大きく超えている。私の両親は現在、記憶の引き出しが開くのに時間はかかるものの、完全に閉まった状態とまでは言えない。しかし著者の父の認知症はもっと進行しているということだ。まさに「認知力」に関して脳みそをスポンジのようにぎゅっと握って縮めたかのような状態なのではと思った。そして「私の両親もいつかはこのようになるのか…」という厳しい現実を見せられたようで暗い気持ちになった。だが現実は現実。目をそらさずに、この本を著者が文章で残そうとした認知症患者に関する“貴重な記録”だと思い、読み進めることにした。
先に私は脳をぎゅっと縮めたかのよう、と書いたが、この本の読後、それは半分当たっていて半分誤っていると思い直した。多くの人が私と同様に思うだろうが、均一的にぎゅっと縮まっているのではなく、縮まり方にも強弱というか濃淡があるのがわかる。例えば著者の父と著者との会話はちぐはぐで父の答えからは要領を得られないことが多いが、父の答えや行動はある意味でぐるーっと遠回りしたあげくに違う位置に到達しているようなものなのではと考えられる。つまりいわゆる“一般常識”からは遠く離れたところだけど、別の“どこか”、すなわち父が思うところに行き当たっているのではという発想。ではそこはどこなのか?著者がそれを解く鍵として着眼したのが「哲学」だ。
ここでもしかしたら『哲学に結びつけるなんて“こじつけ”じゃないの?』って考える人も多いと思う。実際そうかもしれない。だが著者も(そして私も)そんなことはどうでもいい。少なくとも私はこう考える。著者が目指したのは、認知症自体がともすれば否定的に捉えられてしまう状況で、父の認知症(そして父の存在全体)を“肯定”する手段としての哲学の引用だと。
真剣な話、著者の父が起こす徘徊や怒りの感情の暴発など、いくら認知症とはいえ介護する側が黙過して平常心を保つことが難しい場面も多く出てくる。しかしそれらを含めて、哲学化(という言葉があればであるが)した著者の発想は、介護する側がつらい場面をそれに負けずに押し切れるポジティブな“武器”になりうることを示したとして積極的に評価したい。
まあ、哲学に関する記述は難解なものも多く、私も全部を理解したとは言えない。だが著者の436日にわたる“闘い”の記録、または父を「認知症患者」から「ニーチェ」へと転化させた貴重な記録として、私も素直に受け入れ、自分の両親(そして自分自身)に応用できるようにしたい。
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面白い!認知症の方と向き合うということの深い考察と、哲学を同時に学べる。否定はしちゃいけない!とか言われるけど肯定すればよいわけではない。
「力は期待されることで、力になる」とか格言がたくさん。最後に著者が母校の先輩だと偶然知る。
Posted by ブクログ
認知症を何となしにわかっていたつもりでしたが、本書を読んで、概念や定義など他の疾患との特異性を感じました。その事から実際の筆者の父の訳のわからない言動にも何かその背後の意味あるところなど認知症に対しての構え方ヒントが隠されている事を非常に興味深く読ませて頂きました。哲学とは認知症対策だったのかとあとがきで触れていたのも納得でした。
Posted by ブクログ
物事は、驚くからストレスにならないのか!むしろ冷静を保つことこそ肝心とか思っていたけれど、驚ければ忘れられて、偶然の産物になるのだとか。これ、やってみよう。
著者のお父さんが、こう言った、こういうことをやっていたと、読み進めるたびに4月に亡くなった親父がのことが、親父もそうだったよな、親父はそうだったかな、と色々思い浮かんできたが、やっぱり会いたいよな、認知のままの親父でもいいからさ。
Posted by ブクログ
自身の介護実体験と古今東西の思想家の議論とを照らし合わせながら、認知症業界で用いられている言葉を一つひとつ吟味し相対化していく。ただ吟味とは言っても、あくまで所感であって、エッセイ的にいい感じのところで手仕舞いしている感はある。まぁ、だからこそ気楽に読めるのであり、そのように仕上げる著者の力量はすごいと思う。
Posted by ブクログ
認知症が哲学になっている。こういう捉え方は驚きで新鮮だった。多分国民病みたいになってくる認知症、身近なものでありながら未知のもの。福祉専門学校ではニーチェを必読書にしても良いかと。あるいはサルトル?
福祉を学ぶ人はこの本を手にとってほしい。
Posted by ブクログ
哲学は苦手だ。なんだこの本、俺は認知症のことが知りたくて手にしたのにと、正直ザッと読み飛ばそうと思ったがいつの間にか引き込まれたわ。
100冊を軽く越える参考文献の数にただ者ならぬ作者の本気度を感じてしまった。この人、すごい。
親子のやり取りに涙は出そうになるし、ノートを引っ張り出して抜書きを始めるし、俺もおかしくなった。アルツハイマーの進行する妻をもっともっと大切にしよう。
Posted by ブクログ
重い、切ないテーマをなんだかユーモラスに描いてくれてニヤリとしていいのかどうか、たじろいでしまうけれど。
認知症の父親を看ているということにまず、スゴいと思ってしまう。
本当にその境地に達した人は哲学者になるのでは。
いざという時、(いつ?)
また手に取ってしまう本だと思う。
Posted by ブクログ
ノンフィクション作家の高橋秀実氏が老年の実父を介護した経験をユーモラスに綴る作品。というか45%くらいは哲学や思想を現実世界へ応用を試みた文章?といっても過言ではありません。
なお高橋氏は小林秀雄賞受賞の作家さんで、村上春樹氏の『アンダーグラウンド』著述に関してリサーチャーをつとめたとのこと。惜しくも2024年にガンで逝去されました。
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当方も父が84歳。相応に認知症症状が出ています。
帰ってくるたびに私の職場を確認する(日本?海外だっけ?)、家内の出身の外国のこと(料理・文化・気候)を度々聞く。
まあ、その程度のことならば私も全然平気で対応できますし、精々様子を見に来れるのも一年に1度や2度ですから耐えられます。
ただ、本作を読んで、認知症介護のリアル、みたいなものをひしひしと理解できたと思います。うちはまだそこまではいっていない様子。
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筆者の場合、お母様が突然なくなり、そこからお父様の認知症が急激に進んだとのこと。
そして普段から『ボケているのか、とぼけているのか』分からない飄々とした雰囲気の父上は、果たして認知症なのか、考えてしまったそう。
ここから筆者の哲学談義が始まります。
西洋哲学史のごとく、プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガー、サルトル等々、日本哲学では九鬼周造や西田幾多郎がひかれ、さらに仏教や心理学の引用も。
で何が語られるかといえば、自己とは、意識とは、認識するとは、こととものの違い、等々です。
哲学でイシューとなるこうした事柄を認知症患者の言動に併せて読むと、なんと筆者のお父様は先哲の言動と一致する!という事がしばしばだったらしい。
ただこれ、認知症のマニュアル的書籍に沿って読めばお父様の行動や言動は『見当識の喪失』『取り繕い』等々となるとのことですが、どうやら筆者はそうした医学的な分析で人を見るのを良しとしない風でありました。
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とは言え筆者は攻撃的でもなく、かつ医学的な分析に批判的でもないのです。
寧ろ相当に認知症関連の文献を渉猟し、きちんと学んだ様子が見受けられます(理論武装?)。
その観点から言えば、多くの認知症文献が引用されおり、認知症への参考文献総覧、認知症関連本への入り口としての使い方もできるかなと感じました。
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ということで高橋秀実氏の認知症ルポでした。
ユーモアと暖かさにあふれる筆致であると共に、認知症の具体的症例や行動、ケアマネージャーとの連携やお父様が死に至るまでの経過を綴り、一具体例として非常に貴重な作品であると感じました。
親御さんに同類の症例のある方、そうなりそうな親族をお持ちの方にはおすすめ出来る作品です。暗くならない(むしろ笑ってしまう)介護本でした。
Posted by ブクログ
母が無くなり、認知症の父の面倒を見る事になった著者。
作家でもあり、実際の出来事を哲学的な見地、又賢人の言葉に照らせ合わせながら物語は進んでいく。
・認知症の確定診断は、死んでから脳を見ないと分からない 80-84歳 21% 85-89歳 41%
・物忘れの自覚が有り、メモを取り対策をしている限りは認知症とは言わない。
・反省した態度を見せるのは禁物 謝るときは強気で謝る
・それは違うと否定ばかりすると、いじめられたという感情しか残らない
・家族が苛立つと、その気を感じて本人を追い詰める
・慰め、結びつき、共にいる事、携わる事、自分であること がニーズ
・認知障害を伝える為に、この特殊な旅から戻ってきた人は誰もいない
・大丈夫では有りませんと宣言して立ち向かう事も必要
・認知症患者は権威に弱い 医師、看護婦等 〇〇が言っていたというと納得
・便失禁が必ず出て来る プライドを傷つけない事が大切 リハビリパンツを履かせる。
・一緒に驚くと笑いがこみあげてくる
一緒に面倒を見た奥さんは、達観していて素晴らしい。
大変な思いをするのだという事が実感出来た。
準備が大切だという事も。。。
Posted by ブクログ
真面目な哲学の部分は難しくて読み飛ばした。父と息子のやりとりが面白すぎて自然と笑っていた。認知症の家族を介護するのは想像するだけでも疲れるが、少しの余裕とユーモアがあると救いになるのかな。
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哲学のくだりは、理解が及ばなかったが、認知症のお父様との会話は、本当に哲学的だと思った。
90歳を過ぎた身内が身近にいるが、その会話も時になるほどと思うことがしばしばあり、歳を重ねることは、哲学者になるということか、と思いながら読んだ。
それにしても奥様は二枚三枚も上手だ。息子である著者もお父様の最期までよく頑張られた。
認知症にならない最大の予防とは長生きしないこと、とは良く言ったもの。高齢化社会において、認知症とより良く付き合っていく方法を知り、本人も家族や関わる人も幸せに過ごせるようでありたい。
Posted by ブクログ
認知症に対する著者独自の視点が面白かった。
ように思う。ただ、その切り口が哲学なので少し難解ではあった。
あとがきから読めばもう少しすんなりと頭に入ってきたように思う。
また、お父さんが病気だとわかった時の著者の「考えてみれば、体が動くから認知症が問題だったわけで、動けなくなれば問題でなくなる。体が動くからこその「問題行動」であって、動かなければ問題も消えるのだ。自立した生活ができるのかと不安を覚えるから認知症なのであって、病院生活ならみなさんのお世話になる患者である。いつまで続くのかと悲観したから認知症だったわけで、週単位の余命だと宣告されれば毎日が愛おしい」(p249)という気付きには大いに納得した。
父親の介護をした著者の436日を独特の視点で描き、分析しているけれど、それらの根本には愛情がある。
難しい話が出てくるけれども、最後には暖かい気持ちになる。何事もそうだけれど、悲観的に考えるのではなく様々な視点から物事を見る大切さも学んだ。
著者の謂わんとしていることをしっかりと理解したとは言えないが、素敵な本だと思う。
機会があったら再読したい。
Posted by ブクログ
認知症の父親が亡くなるまでの1年半の生活を記録したノンフィクション。認知症について、父親の言動や行動を哲学的な観点で考察する。意思疎通が難しい父親とどのように付き合うか、認知症の知識、現在の対処方法、言葉の定義や意味、哲学的な考察など、著者が苦心する様子と親子のユーモラスな会話などが読んでいてとても面白いし勉強になった。
自分も月に1度、妹が世話している認知症の伯母の介助に行っていたが、会うたびに徐々に会話が成立しなくなり、うわの空の状態が増えて、最後は自分の身の回りの事がわからなくなって施設に入った。伯母は半年後に97歳で亡くなった 。母の姉達は、90代に入っていずれも認知症を発症し、80代の母も不安に思っている。自分も今後、認知症への備えが必要と感じており、この本は認知症の親の対応に大変参考になると思う。
Posted by ブクログ
認知症の父の言動を哲学の命題と照らし合わせて考察する著者。目から鱗のような発想だと思った。著者が言う哲学の命題の数々はよく理解できないが、認知症の方の言動を哲学的に説明しているのを読むと、認知症は、人間の本質に近づくことであるような気がした。
このお父さん、側から見るとなんとなく可愛らしくクスッと笑ってしまう。最後まで息子夫婦(著者の妻がまた見事) のそばで暮らせて幸せだったことだろう。
Posted by ブクログ
認知症の人が何を考えているのか想像しにくいところだが、日々のやりとりを哲学で意味づけしていくと、難しいながらになんとなく、そうなんだと理解できる場面もある。
病気として捉える必要はない。
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哲学と認知症をむずびつけるとはなんともユニーク。
哲学は私には難しいけれど、なるほどと思うところがいくつも。こんな視点で向き合うのも時には必要。優れた介護士さんはこんな境地なのかしらとも思う。
日経BPでもインタビュー記事がありましたが、併せて読むとさらに興味深い。
それにしても、何度も散歩に付き合い、会話する著者には脱帽。仕事から逃げるには好都合だったとは、私もそうなりそうで、深くうなずけました(笑)
Posted by ブクログ
父の脳内を知りたい、理解したい、でも困難。確かに、認知症を哲学としてとらえると腑に落ちる部分もあると思います。「はい泳げません」が面白かったので手に取りました。ノンフィクション作家の視点での筆致ながら、父の介護での切なさや葛藤が伝わります。
Posted by ブクログ
哲学に造詣が深く、自分の置かれた立場をきちんと客観視できる著者が書いた、認知症の自分の父親との暮らしを描いたノンフィクション。
客観的な描写、冷静なスケッチは、認知症の介護をするひと、認知症予備軍の私たちにとって、とても良い参考になる。
こうなると分かっていても、手の打ちようがないのが、独居老人なのかな。
Posted by ブクログ
朝日新聞の書評欄でとりあげていたので読んだ。
親の認知症が顕在化してきたというのも動機の一つではある。
高橋さんはひとりぐらしの認知症の親と暮らしているのだが、お父さんの認知や徘徊が相当ひどい。うちの親はまだここまではきていない。
著者である息子と会話はするもののトンチンカンな返答ばかりで、おかしな会話となってしまう。それを著者が読んできた哲学書や思想書と照合するとなんとなく腑に落ちるというような気づきがいろいろ出てくる。会話も支離滅裂なら、思想との結びつきもおもいつくままって感じで、ニーチェとかアリストテレスとかウィトゲンシュタインとかだされても、一過的で読んでいるほうとしてはあまり深くは共感できなかった。
そういうふうに考えてもいいんじゃないですか。といった感じでした。
そもそも哲学とか宗教は日常当たり前と思っていることを当たり前とせずに深いところからものをみて本質を捉えようとすうので、認知症に世界に当て嵌めてもなんとなく通ってしまうってことではないんでしょうか。
結局、認知症の人が幸せにいきるようにしからず、また危険や不潔はさけて生活できるようにするしかないのではないでしょうか。
Posted by ブクログ
認知症のお父さんとの実際のやりとりを観察し哲学的に解釈、分析することで作者自身介護が辛くイライラするものではなくなっていったんだろうなと想像できました。とても穏やかに論理的に書かれており感情面はほとんど触れられていない。亡くなったお母様や奥様がきっと素敵な方なのだろうと思った。
私の周りにもいつか認知症になる人がいたら、もしくは私自身が認知症になる日が訪れたら、こんな風にウィットに富んだ解釈で淡々と前向きに向き合えたら。
Posted by ブクログ
認知症の概念を破壊するくらい、新鮮な切り口。
なんだか、屁理屈を捏ねてるようでもある。
認知症の父親の行動や言葉、訳がわからないと思いつつ、よくよく、吟味してみると、これは哲学?宗教の言葉、哲学者の言葉、そうか!そうも見えるな、そうだったのか。一見正常と思われてるこの日常が、まるで逆転するかのようだ。