【感想・ネタバレ】漢字と日本人のレビュー

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漢字がどのように取り入れられ、その後どのような役割を果たし変化したのかが説明されている。
日本語や英語との関係も話されており非常に面白い。

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2019年03月09日

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ネタバレ

前半では、文字の裏付けに依存している日本語という言語的特性が他の言語と比べていかに特殊であるのかという点を、その特性が形成されていった経緯と共に解説しており、後半では、国語改革の不適切性という切り口から、明治以降の日本に蔓延った極端な西洋化志向の問題点を説いている。

我々日本人が無意識のうちに非常に高度な言語処理を行っている点を意識させられ非常に驚かされた。「日本語にとって漢字は、相性は悪いもののもはやそれなしには生きられないものであり、漢字を捨て去ることなどできない」との筆者の主張も非常に説得力があった。語りかけるような文体のおかげで内容もよく理解でき、非常に面白い本であった。

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2018年02月04日

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日本語と漢語と英語の比較から入って、国語国字問題など。読売新聞の題字が横書きの理由。語り口が軽妙で読みやすく面白かった。

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2015年09月08日

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日本語が漢字を導入することでどのような影響を受けたか教えてくれる。日本人が音声を文字に直して言葉を理解するという特殊性が理解できた。他言語の習得が苦手になる原因とも思った。

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2014年11月30日

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 高島俊男さんの文章は,ほんとうに読みやすい。戦前生れの元漢文教師だが,難解な漢字を振り回す自称「知識人」には一貫して批判的で,日本語(和語)はなるたけかなで書くべし,という思想の持ち主。
 高島氏の著作は数多く読んだが,これはその中でも始めて読んだ本。独自の文字をもつ前に漢字に出会ってしまったために,日本語がいかに畸形の言語になったか,というのを論じている。中国語を書き表すための文字で,全く異なる日本語を表記しなくてはならなくなったのだから,あちこちに無理が生じている。日本人が漢字と出会ってしまったのは日本語にとって不幸なことであった。出会いさえしなければ,日本語を書き表すのに適した文字が生れてきたはずであるが,それは妨げられてしまった。
 ただ出会ってしまった以上,この腐れ縁は切れるものではない,うまくやっていくほかない,という諦観の境地に達している(ちょっと大げさ)。

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2011年10月31日

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ネタバレ

漢字の取り扱いについて、中国と日本における歴史的な事情を記述している。
韓国で漢字を排斥した理由がよくわからない。
日本でも漢字を減らそうとした経緯、
中国で漢字を減らそうとして経緯が書かれている。
それが成功したとは言えない。
混合文化の利点にも光りがあたるとよかったかもしれない。
ps.
JIS(日本工業規格)に対する誤解が少しあるのが気がかりだ。
該当するJISはX分類というコンピュータで文字をどう扱うかを決めています。
すべての漢字をコンピュータで表現しようという今昔文字鏡の活動を支援している人も、経済産業省の工業規格関係の人にもいます。また、今昔文字鏡を作った方も、JISの委員会にはいっていただいました。
JISを作っている人の中には、驕った人もいるかもしれません。
また、JISは、コンピュータがあれば、インタネットで無償で見られるようになっています。ぜひ、改訂の際には、追記いただけると幸いです。

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2011年09月22日

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漢字と日本語・日本人についてさまざまな角度から論じている。漢字について勉強しようという人にとっての必読書。

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2011年08月29日

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日本が中国から漢字をもらったのは不幸なことであった、という見方が新鮮でした。漢字と日本人についての歴史や見解がわかりやすく読みやすい文章で綴られています。
日本語は文字(漢字)のうらづけなしには成り立たないとありますが、日本と同じように漢語を用い、しかし現在は漢字を用いていない韓国や東南アジアの国々はどうなのだろう、とか、興味が尽きません。
漢字とかなの使い分けなど、日本語の文章の書き方などについても考えさせられました。

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2011年06月16日

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■ちゃんとした漢字を使えるようになりたいと思った。むずかしい漢字でも。
なりたちや意味を正しくきちんと使えるようにしたいと思える。漢字にすることにとらわれなくてもいい和語ってのも、目からうろこ。
■漢字を制限して、まずしい日本語になって数十年。
国語力についての議論が大いに流行っている。まずしい日本語だけで育った世代とその子どもたちばかりになちゃったから?
根本からの解決が必要?ことば文字、音声・表記、ちゃんと考えて「国語」をしてほしいね。そしたら、国語が一番楽しくなったりするかも。
■覚えている漢字の数を競っても仕方ないでしょう。今となったら。

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2010年08月09日

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友達の本棚にあったのを見て、私も読んだのを思い出し便乗登録。

日本語に当たり前のように存在している漢字。音読みと訓読み。
それらがどのように日本に入り、日本語の一部に姿を変えていったのか、漢字と日本語の歴史をたどりながら、たくさんのことを学べる1冊。

奥が深いけど、本書はとっても読みやすい。

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2010年02月02日

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おもしろかった〜日本語ってかなり変なところのある言語なんだーと妙に納得。確かに、同音異義語が非常に多い。それでもなんとかやっていけてるのは漢字のおかげですね。

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2011年09月09日

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漢字が日本に取り入れられた歴史がおもしろい。

漢字の音は、3~6世紀の中国南北朝の時代につきあいのあった漢人の南朝から呉音が朝鮮や対馬を経由して入ってきた。平安時代の初めに、遣唐使が学んだ長安の漢語が正音として取り入れられた(漢音)。鎌倉・室町時代には、主に僧侶によって南宋、元、明の頃の漢語が伝えられた(唐音)。

呉音は、如来や供養、精進などの仏教関係、外科、小児科などの医学関係に残っている。呉音以前の音も、相(さが)、馬、梅、銭、竹などに残っている。

漢語がngで終わる音を日本語で表現するために、奈良・平安時代には「ウ」「イ」とし、鎌倉・室町時代には「ン」とした。鈴(レイ、リン)、燈(トウ、ドン)、請(セイ、シン)など。奈良より前は、相(さが)のように後に母音を付けた。

漢語がt,kで終わる一、律、結、日、節、力、直などの音には、「イ」「ウ」を付けた。pで終わる急、蝶などは、最初は「ウ」をつけて「プ」と発音したが、日本語がパ→ファ→ハと変化したことに伴って、「フ」→「ウ」→「ウー」が付くようになった。また、雑、立、執、合、甲、納などのように、日本でpがtに変化したものがある。なお、現代の漢語では、語尾のp,t,kはすべて脱落している。

仮名は本の行間に書き込みをすることから生まれた。カタカナは、漢字の部分をとって略すことで、ひらがなは漢字全体の姿を略すことで作られた。

明治以降、西洋の用語を訳すために、音を無視して文字の持つ意味だけを利用した和製漢語がつくられたために、耳で聞いただけでは意味が確定しない同音異義語が大量に生まれた。一方、日本の文字を音標化して漢字を全廃しようとする動きが生まれ、その過程として戦後の昭和21年に使用する漢字を制限する枠組みとして当用漢字が制定された。

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2024年02月05日

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本来日本語を表記するのに漢字はまったくあっていないというのが高島先生のご意見で、本書もそれが前提で書かれている。日本語と漢語(シナ語)は言語として共通点がほとんどなく、もし日本列島が無文字の時代に漢字とアルファベットが周辺国で使われていたら、日本では間違いなくアルファベットが入ってきたはずなのである

さらには、日本語を表記するのに漢字を採用したことで日本語が日本語として成熟する事ができなかったとする。無文字時代の日本語では抽象的な概念を表現するコトバはほとんど無かった。本来はコトバが熟成していく中で、日本語で抽象的概念をあらわすコトバが出来てきたはずが、漢字で表現することを先に覚えてしまい、日本語での語彙がでてくる事がなかったのである。かくして、漢字なしで日本語を表現できるすべがなくなったのである。日常的なできことの表現なら日本語だけで可能だが、抽象的な概念を使っての議論は漢字抜きでは成立しなくなったのである。

「みる」という日本語にあてられる漢字、見・観・視・看・診・覧・海松・水松、ATOKで変換してもこれぐらいがでてくる。高島先生に言わせるとこんな使い分けは無意味で「みる」と書くべしとのこと。この場合では観るをつかうとか、視るが正しいというような蘊蓄を垂れるのはナンセンスというのである。日本人は「みる」ときいたときに文脈から無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべながら意味を理解しているというのであう。言語学では言語の実態は音声であり、文字はその影にすぎないとするが、日本語では文字が言語の実態になっており、漢字に結びつけて理解しないと意味が確定しない状態になっているとする。
「みる」は「みる」を書いて、一々漢字をあれはめる必要はないというのが先生の主張である。例えば英語で「take」はつかわれる文脈でいろんな意味を持つが、英語で「take」を書くときに意味に応じたかき分けがあるわけでは無く「take」はtakeとしか書かれない。

最後の数章は日本での漢字廃止運動について書かれている。先生も、和語を書く際には、一部のものはのぞいて仮名で書くのがよく、和語を漢字で書くのはよろしくないとする。しかしながら『「山」「水」「人」「家」のごとく、字もやさしく、またその意によってあてているものは、ながく習慣にもなっていることだからやむを得ない。特に「手」「目」「戸」「田」「根」「木」など一音のものはかながきするとまぎれやすいのでしかたがない。』とし、音読熟語についても漢字を使わざるをえず、この場合は「ほ乳類」「は虫類」といった書き換えはせず「哺乳類」「爬虫類」と書くべしとする。常用漢字はあくまでも漢字使用の目安で一般の社会生活で使われる日本語が対象だが、新聞社等マスコミがこれ幸いと使う漢字を制限しているという。一々活字を拾ってきて製版していた時代に使う漢字を制限するのは出版業界としてメリットがあったろうが、電子製版の時代にそのような手間かからなくなったのにである。

で、感想。高島先生の御説ごもっとも、であります。が、漢字が日本語をさらにゆたかにしてきたという事はありそうに思う。もともとの経緯はともかくとして漢文が日本文化にはたした役割とか見・観・視・看・診・覧といった使い分けが表記としての日本語をより豊にしているということもありそうである。いま「漢文の素養」加藤徹著をよんでいるが、漢字の果たした役割について高島先生とは違う観点からの考え方を知ることができそうである。

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2021年07月03日

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言語と文字に着目し、日本語について述べられた本。著者は、日本語が世界でおそらくただ一つの極めて特殊な言語と言う。言語とは本来、音声であり、文字はその影に過ぎないのであって、世界には文字なき言語も存在する。しかし日本語には明治以後の和製漢語の増加により同音違語が多数存在するようになり、日本人の話は、音声を手がかりに頭の中にある文字を素早く参照するプロセスを繰り返しながら進行する。それは、日本語は音韻組織が簡単であるため、漢字の異なる音が日本語では同じ音になり、したがって一つの音が指し示す文字が多いからである。「キシャのキシャ、キシャでキシャ」はどういう意味か、ということである。日本は文字として漢字を輸入したが、当時、選択肢としてアルファベットがあれば、間違いなくアルファベットを採用したとの意見も興味深かった。

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2018年11月26日

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ネタバレ

十一月の三日は、祝日でちょうど日曜日です。

本書にある、日本語がいかに具合の良くない状態にあるかを示す一例だそうだ。
よく考えてみると、まぁ確かに。

明治維新以降の国字の扱いがまずかった。とする点はぼくもそう思う。が、彼の「漢字をアテたのは重荷」という主張は違うと思う。

日本語母語話者には重荷になってない。
非日本語話者が日本語を学ぶときに障壁になる?なりますよそりゃ。

漢語を取り入れたことで、"本来迎えるはずだった独自の言語体系変化"は無いものになった。

これも違うと思う。非母語の語彙を母語に混ぜて使う、変化できることばなんだ。
取り入れて独自に発展させるのが特色なんだ。漢文化的思想になった、大いに結構じゃないか。


と、不勉強から思う部分がおおく、非常に刺激的だった。まさに碩学でした。文字学?というものが確立されてるか分かりませんが、書記に関して理解したいと思う足がかりとなりました。

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2018年09月13日

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漢字が日本に入ってきてから、この文字がいかに日本で変質いったかが分かりやすいです。
入ってきたものを日本風に改造して、それを爛熟させてしまってから、元のかたちに戻そうと悪あがきするのは、文字に限った事ではないと思いますが、いかにも日本的だと思います。

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2016年08月18日

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日本語の中に、中国から伝えられた漢字を取り入れた歴史的経緯と、そのために日本語が抱え込むことになった構造的問題を論じた本です。

軽妙洒脱な文章ですが、現代における日本語をめぐる種々の混乱を小気味よく批判しており、たいへん興味深く読みました。著者の結論は、「漢字は、日本語にとってやっかいな重荷である」が、とはいえ「日本語は、これなしではやってゆけないこともたしかである」ということで、イデオロギー的な漢字廃止論にはとうてい及びもつかない、日本語についての深い洞察に裏打ちされていて、説得力があります。

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2015年10月07日

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この人の本は、ちょいちょい毒舌が混ざるので面白いです(笑)

漢字と日本語の関係性について、細かい例を挙げながら論じてます。筆者の主張としては以下の通り。

・漢字を文字として採用したが、同時期にアルファベットが入って来ていれば、間違いなくアルファベットを採用したはず。なぜなら漢字は日本語の意味を記すには好いかもしれないが、日本語の音を表現するには不適当だからである。
・漢字が入ってきたことで、抽象的なものや概念的なものを表す日本語(和語)が発展する機会は失われた(「山」や「川」は和語だが、これを包括する「自然」は漢語の概念)
・江戸以前の和製漢語は、文字から意味は分からないが、音から意味を取ることができた(大切、面倒、野暮、無茶など)
・明治以後の和製漢語は、漢字から意味を取ることにだけ集中した結果、同音異義語が爆発的に増え、漢字を見なければ意味が分からなくなってしまった(静止、製紙、製糸、制止、など)
・文字の無い言語も多々あることを考えると、言語の本質は音声である。しかるに漢字を参照しない限り意味を確定できない日本語は、その意味で非常に特殊であり、顛倒した言語である
・戦後の当用漢字表の導入などといった漢字廃止の動き、および略記の採用により、本来は関連する意味を持っていた漢字との縁が切れてしまった(「假」は「仮」になり、「暇」「霞」との縁が切れた。「賈」は「売」になり、「買」「販」「購」などとの縁が切れた。「專」は「専」となった一方で、同じ形であった「傳」「轉」は「伝」「転」という形に、「團」は「団」という形になり縁が切れた)

特に後半の、略記を採用してしまったことで漢字同士の縁が切れた、というあたりは面白かったです。なぜ、同じような意味のグループなのに漢字が違うのか、と思うことがあったんですが、非常に分かりやすく理解できました。

時折、言語学者らしい過剰ともいえる例証があったりしますが、総じて日本語と漢字の関係性について知りたいと思うならば、非常に有益な本だと思います。

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2013年09月05日

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ネタバレ

漢字は中国語。日本語とは合わないために日本人の不幸がある、という主張は説得力があります。また日本語が漢字と出会ってから発展しなくなったため、漢字でなければ表せない単語が増えたとのこと。そして明治以降、同音異義語の単語が増えてしまった理由。今日はなぜ「けふ」なのか。いつから変わったのか。当用漢字1850字選定の意味。そして森有礼、志賀直哉のそれぞれ英仏語を国語にしようとの主張の背景など、「日本語と日本人」を考える上で最高の楽しい知的好奇心を満足させる本でした。

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2013年08月24日

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多くの人に読んでもらいたいと思いました。なんだか、いたたまれなくなる日本語×漢字の話。非常にわかりやすく解説してくださっているので、文体の好みは分かれるかもしれないけれど、若年層も読みやすいと思います。
文字を持たない日本語が他国の発明品である漢字をいかに取り入れ、どのように意識してきたか。文字を持ったがために、日本語がどのような影響を受けたか。そして、明治維新後や戦後、日本の言語がどう変わろうとした結果、いまわたしたちが使っている日本語があるのか。

「常用漢字の新字体」でものを書き、考える癖の染み付いた脳にはあまりにも悲しい日本語と漢字の話。「常用漢字」や「新字体」の正体をはじめて知って、わたしはとても悔しかったです。

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2013年05月31日

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少し前に、娘がユスラウメのジャムを作っりました。
ユスラウメって知らなかったので、wikipediaで調べてみました。「櫻」って漢字は、サクラではなく、「ユスラウメ」のことだったらしいです。
古から、言葉、漢字を介在して伝わってきている歴史を言葉、漢字を使わなくなることによって失うのは残念だなぁと思い始めました。

著者の高島氏も同じ思いではないかなと思います。ことば、日本語に対する愛情がとても感じられました。

話の中で興味深かったのは、漢字が入ってきたことによって、日本語の成長(抽象的な概念の生成)がなくなったということです。今までに考えたこともありませんが、どのような言葉を作ったのかなぁと考えると楽しいです。

文部大臣の森有礼氏の「英語採用論」は、ユニクロとか楽天の公用語にも関係しそうですが、明治時代からあったんですね。
個人的には、英語公用語って悪くないと思います。メシを食うために必要であれば、英語を公用語にし、文化としての日本語を残せば良いと思います。シンガポール、インドは微妙だが、同じことをしているアジアの国は多く存在します。これが嫌なら、独立独歩で生きていくことができる国を作らなければならないと思います。

昔も今も外国語に苦しんでいるんだなぁと改めて感じました。

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まだ、成長途中の日本語に抽象的な概念を持つ漢語が入ってきた。
 日本語が自らのなかに新しい言葉を生み出していく能力を失った。

「徳」

「義理」は、日本人が生み出した概念。

呉音、漢音
呉音は、漢音がくるまで数百年にわたって継続的に入ってきた
。呉音は音がやさしく耳に快い
漢語は音が堅く、ごつごつしている
「老若男女」
ロウリャクナンニョ
ロウジャクダンジョ

平安時代、呉音が排泄された
漢語に取って代われた。
学生:ガクショー -> ガクセイ
音声;オンジョー =< オンセー


p入音


テプ(tepu),テフ(tefu)、テウ(teu)、チョー(cho)


万葉集
かなはない!

日本語
・和語
 やまとことば
 本来の日本語
・字音語
 漢語+和製漢語
 日本語の約85%

・外来語
 マイカー
・「混種語」
 プロ野球

成敗(漢語)
 成功と失敗
成敗(和製漢語)
 地位のある武士が使用人を自分の手で殺すこと

文部大臣森有礼
英語採用論
ホイットニー
言語は、主の魂と直接に結びついているものだから安易に放棄してはならない

戦中の日本語議論
アジアに広めていくことができる「日本語」という観点。

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2012年05月21日

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赤んぼが一番出しやすい音は唇音(m音とp音とb音)だから、世界中どの人種の言語でもたいがいお母さんを呼ぶ言葉は唇音である。

だとか、めっちゃやたら大量にちりばめられたマメ知識に感心するし、

あれ(=平安女流文学)は女が情緒を牛のよだれのごとくメリもハリもなくだらだらと書きつらねたものだから、あの方式でがっちりした論理的な文章を書くのは無理なのである。

などと、痛快にご意見を開陳してくれて、御大まだまだかくしゃくとお元気なんだなと安心する。と同時に、井上ひさしの「東京セブンローズ」を思い出してしまった。

日本語が世界に類のないけったいな成り立ちであり、その成り立ちに引きづられて日本語だけでは論理的文章を書きづらいことを、豊富な知識で裏打ちしながら誰はばかることない鋭い舌鋒で教えてもらえるありがたい一冊である。

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2012年01月05日

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[ 内容 ]
「カテーの問題」と言われたら、その「カテー」が家庭か假定かあるいは課程か、日本人は文脈から瞬時に判断する。
無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべながら…。
あたりまえのようでいて、これはじつは奇妙なことなのだ。
本来、言語の実体は音声である。
しかるに日本語では文字が言語の実体であり、漢字に結びつけないと意味が確定しない。では、なぜこのような顛倒が生じたのか?
漢字と日本語の歴史をたどりながら、その謎を解きあかす。

[ 目次 ]
第1章 漢字がやってきた(カテーの問題 世界でたったひとつの文字 漢語とはどういう言語か 不器用な日本人)
第2章 日本人は漢字をこう加工した(訓よみとかな 日本語の素姓 漢字崇拝という愚)
第3章 明治以後(新語の洪水 翻訳語―日本と中国 顛倒した言語―日本語 「歴史」と「進歩」)
第4章 国語改革四十年(漢字をやめようという運動 国語改革とは何だったのか 当用漢字の字体 新村出の痛憤)
終章 やっかいな重荷

[ POP ]


[ おすすめ度 ]

☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

[ 関連図書 ]


[ 参考となる書評 ]

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2011年04月13日

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日本人は漢字をずいぶん古くから使ってきたわけですが、その歴史をたどってみると、おもしろいことがけっこうあります。もとはただの外国語だった中国語とその文字である漢字。日本人は漢字をあの手この手でカスタマイズしていきます。訓読み、ひらがな・カタカナ、そして、和製漢語。あげく明治時代には、ヨーロッパの言葉を次々に漢字に翻訳してしまいます。そうしたエピソードがすっきりと整理されていて、読みやすい本です。

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2010年07月06日

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かなり分かりやすく書いてもらっているけど、読みにくい。私が、ノンフェクションを読み慣れてないのでしょうね。でも、高島俊男、うまいです。興味深い話。漢字との関わり、なんでこんな言葉が、日本人は使うようになり、また、日本人は使えるのか…っていうっても、まだまだ、日本語は難しいです。

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2011年07月31日

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家にあったので読んでみた。再読ではないと思うけど? おもしろかったです。

文字を持たなかった日本語に、日本語とは全く異なる中国語の文字を取り入れたから変なことになったといろいろ説明する本。
例えば、「カテーの問題」と言われたら、家庭か仮定か課程かを文脈で判断する。その際、無意識に漢字を思い浮かべる。言語の実体は音声であるはずなのに、文字に結びつけないと意味が確定しないという奇妙な言語であることなど。

最後は国語審議会への苦言を通して、筆者の立ち位置を述べている。

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2023年08月09日

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日本語は音声だけでは意味が通じない。一つの読みに対して文字が沢山あるからだ。つまり、文脈からどの文字を当てるのか私達は瞬時に判断している。
なんでそういうふうになったのかを書いた本。
ホントその通りだわーと首肯しながら読みました。

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2020年02月12日

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当たり前だが、日本語には、漢字はなかった。中国から文化が伝わり始めたころ、日本語の表記方法がなかったため、漢字が代用され、しばらくは漢字だけで日本語を表記した。カタカナ、ひらがなが発明された後も、知的水準の高い人々は、漢字のみで日本語を表記した(一部の例外として、本居宣長、紀貫之らがいる)。こういう状況により、いかに日本語が歪になったかを説明、解説するのが本書である。 本書の指摘する最も良い例は、「英語は、音(おん)が意味を表し、それを記述するのが文字である」、「日本語は、音のみでは意味がなく、文字が意味を表す」。つまり、日本語は漢字により、多くの概念を表してしまったため、一つの音が多くの意味を作り出してしまう。例えば、カテイ。家庭、課程、仮定、嘉禎、下底、過程。「それは、カテイの問題でしょ」なんていわれても、意味が全く分からない。 こういう議論の行く末は、決まって漢字廃止論であるが、本書は若干違う。漢字をなるべく使わないようにしましょうということ。上記の例を待つまでもなく、漢字なしでは成り立たないのが日本語であるため、なぜ、今更、なるべく使わないようにしなければならないのか、理解できないが、本の中身自体は興味深い。

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2018年10月23日

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日本人が「漢字」という大陸の(というか外国の)文字をどのように受容していったかというその変遷、つまり日本人の漢字との千年以上に渡る"付き合い方"がよく分かる本。漢字をなんとかして日本語に適用させようとしたかと思えば今度は漢字を徹底的に排除し「かな」やローマ字にしようとする…どうも日本人は甚だ極端であるらしい。なるほど、日本人が漢字をいかに受容していったかという歴史を通して、日本人のメンタリティもよく分かる。

また、それぞれの民族の言葉がその民族の思考様式と密接に結びついている、という指摘はまさにその通りだと思う。ある言葉がなければ、当然にその概念も存在しないのである。例えばこの部分はなんかも非常に面白い。

◼️p165 江戸時代までの日本には「進歩」ということばはなかった。つまりそういう概念がなかった。江戸時代だって、いくらか知識のある人なら、すこしはむかしのことを知っていた。〜しかし、われらの時代は鎌倉時代より進歩している、とか、おなじ江戸時代でも、傾聴元和のころより文化文政のいまのほうが進歩している、などとは思わなかった。

日本人が漢字を受容して歴史を作ってきた以上、それを手放すのではなく、あくまで「かな」を主体としながら漢字を使うべきである…とまぁ筆者が主張する漢字の使い方を纏めるとこんな感じになるのだろうか。でも「なるべくかなを使う」というのも結構分かりづらい。仮名も「かな」と表記すべきだとのことだが、この「なるべくかな」という部分だってすべてひらがなであればどこで切れるかが甚だ分かりづらいではないか。漢字を多く使うことで、例えば助詞とそれ以外の単語も視覚的に識別しやすくなり読書スピードは上がると思うのだが。

あと内容は良いのだが、バカだの無教育だの随所に(主に前半に)散りばめられているのが読んでいて不快。親しみやすさの演出なのか、まぁ本当にバカと思ってるのかもしれないけれど、良い印象は受けないぞ。

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2014年03月13日

Posted by ブクログ

著者は中国語学・中国文学の研究者。
日本語における漢字の問題を論じた本。

先日、田中克彦『漢字が日本語を滅ぼす』を読んだが、それを思い出す内容だった。
まず、中国語と日本語は言語として異質であるのに、その文字を日本に導入することには無理があったとする。
さらに、日本語は中国語より音が単純で、中国語では発音し分けていた音の区別がなくなってしまい、同音異義語が溢れることとなったこと。
時間軸に沿って展開する言語のリニアな構造を、漢字を導入した日本語は崩してしまい、いびつな言語にならざるを得なかったとも言っていた。
これは、田中さんの本にも見られた議論。
この辺りまでは、両者の見解は結構重なるように思われる。

しかし、そこからどうすべきかについては、田中さんとは対照的な主張だった。
田中さんは日本語は漢字を使わなくても表記できる、表音文字による表記に切り替えるべきだとする。
これに対し、高島さんは、いかにいびつで、未成熟のまま現代に至ったとしても、ここまで漢字が日本語に食い込んでしまった今、漢字を廃することは出来ないと考える。
訓読みする語は、ひらがなで書き、字音語だけ漢字表記を続けよ、としていた。

さて、ここまでくると、漢字制限を撤廃すべきだという論者の意見を読んでみたいけれど・・・
誰がそういう論調で書いているだろう?

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2012年10月19日

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