あらすじ
漫才、そしてM‐1に青春を賭けた芸人たち。彼らは何とバカで、たまらなく惹かれる生き物なのだろう――
一夜にして富と人気を手にすることができるM‐1グランプリ。
いまや年末の風物詩であるお笑いのビッグイベントは、吉本興業内に作られた一人だけの新部署「漫才プロジェクト」の社員、そして稀代のプロデューサー島田紳助の「賞金をな、1千万にするんや」という途方もないアイディアによって誕生した。
このM‐1に、「ちゃっちゃっと優勝して、天下を獲ったるわい」と乗り込んだコンビがいた。のちに「ミスターM‐1」「M‐1の申し子」と呼ばれ、2002年から9年連続で決勝に進出した笑い飯である。大阪の地下芸人だった哲夫と西田は、純情と狂気が生み出す圧倒的熱量で「笑い」を追い求め、その狂熱は他の芸人にも影響を与えていく――。
芸人、スタッフ80人以上の証言から浮かび上がる、M‐1と漫才の深淵。
笑い飯、千鳥、フットボールアワー、ブラックマヨネーズ、チュートリアル、キングコング、NON STYLE、スリムクラブ……。
漫才師たちの、「笑い」の発明と革新の20年を活写する圧巻のノンフィクション、誕生!
プロローグ
笑い飯
笑い飯と千鳥
「島田紳助 様」
ますだおかだ、ハリガネロック
再び、笑い飯
フットボールアワー
再び、笑い飯と千鳥
ABC
ブラックマヨネーズ
チュートリアル、変ホ長調
キングコング
NON STYLE
パンクブーブー
スリムクラブ
三たび、笑い飯
エピローグ
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
「目的合理性」と「価値合理性」
前者をウケるために何をどうすれば良いのかを考える思考や行動ととらえ、後者を笑いとは何なのかを追求する思考や行動ととらえるならば(あくまでもわたし個人の定義として)、笑い飯は後者に軸足を置いたコンビなのだと感じました。
どちらが良いとか悪いとかではなく。
ただ、漫才やお笑いに限らず「価値合理性」に重きを置いて思考・行動していくと、熱量が高まっていくのと同時に純度も高まり、一方で原理主義者のような排他的な雰囲気も醸成していく場合もあります。
哲夫もなんかそんな雰囲気を纏っていた時期もあったようで、その様子も感じられて、なんだか文学的な匂いがしました。
なんだか又吉直樹の小説「火花」を思い出します。
M-1は始まった当初から見ていますが、その歴史を、番組の制作秘話や、参加していたお笑い芸人の邂逅、M-1自体の価値の変容やらいろいろと実感できて、とてもおもしろかったです。
Posted by ブクログ
最近ハマっているお笑いの歴史を知りたくて借りた一冊。テレビでよく見る芸人さんの、知らなかった生々しい裏の顔に驚いたり引いたり。人を笑わせる事の奥深さに少しだけ触れられた気がしました。
Posted by ブクログ
感想はとても長いです。
ってな事で、中村計の『笑い神 M-1、その純情と狂気』
ぶちクソおもろい。
M-1好きな人なら唸って読めるね
2023年読破
Posted by ブクログ
笑い飯を中心にM1を見る。漫才師の仕事に取り組む姿は、自分の仕事に取り組む姿と比べて桁違いにすごい。だから面白いのだろう。自分が自分の仕事で生きていくにはどうする、というのをこれから考えていく。
Posted by ブクログ
20年以上前から戻ってくるので自分の小中学生の頃から笑い飯というかM-1と歩んできたのかと勝手にアツくなりました。思ってたことに近くて、でももっと内部に起きてたこととか、二人のこと、周りの芸人さんのこともよく取材されておりとてもおもしろく読めた。
Posted by ブクログ
父親の影響もあり小さい頃からお笑いが好きで中学生の時から始まったM-1も追っていたし、DVDを買ったり上京してからは予選や敗者復活戦も行ったりしていた。
私自身熱を持って追いかけたM-1の舞台裏や各芸人の気持ちまた時間が経ってからの思いを読めてアナザーストーリーの映像ともまた違った視点もありとても面白かったし、感慨深かった。
漫才とは何か、芸人とは何かをM-1という、通常のライブやTVとは一味も二味も違った1つのショーレースを通して見続けられるのは改めて今後も追い続けたいと思います。
Posted by ブクログ
雑誌Numberなどで多数寄稿されている著者による
M-1グランプリに臨む芸人への取材。
「笑い」に対する解説は賛否両論あるかもしれないが
大笑いしてしまう裏側の人間模様は複雑かつ凄惨。
作中に出てくるケンドーコバヤシの
「中村さんのやっている行為が、一番寒いと思いますよ」
にハッとさせられる。
そのあたりも包み隠さず書いてあり、
非常に面白い。
M-1は漫才の中の一つの競技である、
という結論に漫才愛を感じます。
Posted by ブクログ
サンパチマイクを前に前に喋る、ただそれだけのことに人生賭けるのって確かに馬鹿だけど最強に格好良いな。
自分の思うおもろいは何か、悩んで狂って…
笑い飯と千鳥の若い頃のエピソードとか常人は笑いのためにそんなこと出来ないだろってことまでやってのける姿が描かれてて正直読んでて怖かったし、同業者ですら彼らの世界に迂闊に足を踏み入れられなかったのかと更に驚いた。
漫才日本一の称号に恋焦がれて飛んで火に入る夏の虫の如く喋りひとつで戦っては散っていく姿、痺れるなぁ、そして厳しいなぁ、
笑い飯の2人の唯一の濃いコミュニケーションが漫才しかないっていう不器用さも自分の思うおもろいしか信じない頑固さも全部魅力的。
情熱的に描きすぎてる気もしなくは無いけど。
熱すぎる内容だし、旧M-1や笑い飯に携わった人達の膨大な人間ドラマのことを考えると感想なんてまとまらない。
とりあえず2023のM-1予選が始まる前に読めてよかった。
Posted by ブクログ
スゲーノンフィクション、「嫌われた監督」に並ぶとんでもない力作であり傑作。
色々書こうとしてみたけど、書くたびにどうしようもなくなり、レビューがまとまらない。とにかく読んで損なし。
主人公は漫才師の「笑い飯」、舞台は「M-1グランプリ」
笑い飯を巡って「M-1グランプリ」は、そして漫才はどう変化を遂げていくのか。
お笑いを題材にしてるけど、ド直球のスポコンノンフィクションである。普段テレビで見ている漫才師たちが、「M-1」優勝をかけてしのぎを削るさまは、まるで夏の甲子園!
…あかん、これ以上は思いが湧きすぎてやっぱりまとまらない。
こんなスゲー作品が、クソ週刊文春で連載されていたとは、「嫌われた監督」もそうだったよな勿体ない。掃き溜めにツルである。
Posted by ブクログ
普段特別ネタ番組を見たり、劇場で漫才を見たりはしないのだが、毎年のお笑い賞レースだけはどうも必ず追ってしまう。その中でも一際輝かしい大会がM-1だと思うが、この本はM-1にそのような価値が生まれるまでの過程、「笑い飯」のヒストリーを中心とした芸人たちの仕事への向き合い方や苦悩、この2つが克明に描かれている。ケンコバが言うように「ピエロの楽屋覗いて何が可笑しいんじゃ」というのも分かるが、やはりお笑いという文化の変遷や笑わせる仕事における苦悩を裏側から覗くというのは、極上のノンフィクション作品になり得ると感じた。
Posted by ブクログ
本作は今では年末恒例の巨大イベントになったM-1にかける芸人たちを追いかけたノンフィクションが本作だ。お笑い番号は滅多に見ないという人でも、M-1はとりあえずみるという人多いんじゃないだろうか。ちなみに自分は休止前は見ていたが、復活後は一度も見てない・・というカテゴリーの人間である。
本作はM-1の中でもその休止前までを主に取り上げている。主役に位置するのは、M-1の申し子と言ってもいい笑い飯。ダブルボケで強烈な光を放った彼らが突然M-1の舞台に出てから前期最終年に優勝するまでをいわば縦軸に、各年の優勝コンビを横軸にして、M-1に挑む芸人たちの狂気を描いている。
自分はたまたまM-1の決勝にでた芸人に知り合いがおり、彼らの単独ライブを見に行ったことがあるのだが、お笑いもあのレベルまでいくとスポーツに近いというのがよくわかるイベントだった。M-1はその中でも短距離走と言われるほどの爆発力が求められる領域だ。
そこで優勝するためには「クラスでちょっと面白い」ぐらいのレベルではなく、1年間M-1で優勝するためにあらゆる努力をしなければならないことが、本書を読むと痛いほど伝わってくる。
Posted by ブクログ
日本がボイコットとしたモスクワ五輪が開催された1980年の新春早々、突如として漫才ブームが沸き起こる。朝起きたら漫才ブームだったそんな感じだった。
というのもフジテレビで毎日曜日21時の『花王名人劇場』の枠で漫才を放映してみれば高視聴率。エンタメ路線に舵を切ろうとしてたフジテレビにとっては新たなコンテンツ候補。早速ゴールデンタイムに『THE MANZAI』と銘打ち、放映すればまたもや高視聴率。
出演したのはB&B・ツービート・紳助竜介・ザぼんち・のりおよしお・サブローシロー…。以来しばらくはどのチャンネルも漫才、漫才。中でもアイドル的人気をほこったのがザぼんち。僕的には何が面白いの…と思ってたけど。そのブームも、漫才師のネタ切れと露出の多さから飽きられ、ザぼんちが武道館Live⁈をやる頃にはすっかり下火となり、82年にフェイドアウト。
当時の漫才って、島田洋七・ビートたけし・島田紳助らのボケが圧倒的に目立ち、ひたすら喋りまくりツッコミはあくまでも添え物然としてたたずむ、熱量あふれる高速漫才スタイル。
ツービートの漫才は『毒ガス漫才』と呼ばれ、社会風刺を放送禁止・差別用語キワキワでぶった斬る、今なら放送出来ないネタのオンパレード。それに比べるとウエストランドの毒舌漫才なんて可愛いもの。
一方、各々の相方 島田洋八・ビートきよし・松本竜介のツッコミ三銃士は『うなずきトリオ』を結成。竜介の『んなアホな!』・洋八の『なんでやねん!』・きよしの『よしなさい!』というお決まりの引き出しなきツッコミを逆手に取ったトリオは悪ノリし、レコードデビューまでしてしまい、なんと大瀧詠一が作詞作曲。それもこれも、漫才ブームは東京が主導したからスケール感もデカかった。
たけしや紳助ばかりが目立ち、ボケとツッコミが互いに機能しあう、所謂しゃべくり漫才に照らせば異端も異端。速射砲のごとく次々と繰り出す毒っけのあるボケそのものがニューウエーブで、漫才の形式を借りた『揶揄』と『風刺』の効いた漫談に近かった。それとたけしの場合は、明大工学部中退というインテリな経歴も一役買ってた。
それらをつぶさに見てた者として、M-1に見る漫才のレベルの高さはもちろんのこと、あれは漫才ではないと物議を醸す新型漫才が出現するぐらい発展を遂げている。
その先鞭を付けたのがダウンタウン。本書でもダウンタウンに影響を受けNSCに入学、M-1決勝での松ちゃんの評価に一喜一憂するエピソードが何度も登場する。
私見ながら、ダウンタウンと村上春樹の出現は、それ以降の漫才及び文学地図を大きく塗り替えたと思っている。ゆえに影響を受けた亜流を多産した。マイクの前でボソボソうだうだ喋る漫才、比喩を多用したすました文体には大いに鼻じらんだけど、こと漫才ではツッコミのバリエーションを生んだ。
浜ちゃんは漫才について多く語らないけど、ボケが作った笑いを『ツッコミが増幅』させる、その定型を作った第一人者である。
くりぃむしちゅー上田&フットボールアワー後藤の
例えツッコミ、さまぁ~ず三村の感情むき出しツッコミ、おぎやはぎ矢作のなだめツッコミ、千鳥ノブの嘆きツッコミ、ミルクボーイ内海の解説ツッコミ…といった具合に。
そんな日々刻々と進化する漫才を仕立て上げたのが『M-1グランプリ』。芸歴15年までの漫才師がその年の漫才の頂点を目指す、毎年数千組の芸人が挑むお笑い界最大のビッグコンテスト。覇者ととなれば一夜にして富と人気を約束されるシンデレラストーリーが待ち構える。
M-1の4分間はさながら格闘技に挑むアスリートのごとく…、本書は結成10年目にして頂点に立った笑い飯を軸にその戦譜を克明に刻む。
M-1草莽期の覇者 中川家、打倒吉本に燃えたおかだますだ、松本人志の低評価に懊悩したフットボールアワー、異能コンビ笑い飯に背を向け自分たちの目指す笑いで覇者となったノンスタイル、笑いを追い求めるあまり精神疾患になったブラックマヨネーズ吉田、決勝本番直前に相方に深い感謝を述べたスリムクラブ内間…。
本書は、漫才師が一夜にして寵児となるようにM-1自体が化け物イベントになっていく軌跡が綴られ、表紙をなぜ笑い飯が飾ったのかが理解できうる評伝でもある。
笑い飯のダブルツッコミボケという斬新な漫才スタイルのみならず、NSC出身でない傍流を歩みつつも、ふたりの根幹に根差す『ひとが面白いと思うより自分たちが面白いと思うもの』という迎合しないウケを狙わない断固とした姿勢を崇拝する芸人も多く、ふたりの醸す狂気と熱情を炙り出していく。
著者の取材も次第に漫才師たちの熱量が伝導したのか、取材を良しとしない芸人への食らいつく執念にも似た果敢さ、それを活写していく筆力にはただただ圧倒され、読後感はクタクタ。超力作。
Posted by ブクログ
2001年から2010年まで開催された第一期M-1グランプリを笑い飯を中心に据える史観で振り返った一冊。予選や決勝を外から観戦しての分析・批評ではなく、実際に歴代チャンピオンはじめ漫才師たちにインタビューしているため当事者の声を通した(青春の思い出補正も含めて)大河ドラマのような物語性が凄まじい。ゼロ年代の大阪お笑い史の側面もあり、中でも笑い飯の歪な関係性は読んでいて背筋が凍るほど。個人的にはケンドーコバヤシやタイムマシーン3号といった必ずしもM-1とイメージが直結するわけではない芸人にも取材している網羅性には唸らされた。ちなみにナイツが歴史からすっぽり抜け落ちている件については著者が塙の著書の聞き手・構成を担当していることに留意。
Posted by ブクログ
2000年代のM-1草創期の話がメインなんですが、この時ヒリヒリした会場の雰囲気を覚えている世代からすると、堪らない気持ちになる裏話がこれでもかと詰まってます!
これ読んでると過去のM-1を改めて観たくなって、02年と03年だけ観ましたが、近年のM-1と比較すると、やはり完全に別物です。
談志師匠が全く笑わず終始微動だにせず審査してるし、今と違って松ちゃんも1〜2組だけフフッと笑うだけで仏頂面。他審査員みんな、つまらないコンビにはつまらないと言い切って、点数も70点以下とか平気で出してた時代。観客も点数低いと普通に「ええ、、、」って声を洩らして引いてるし、、、笑 そんな賞レース今ないです
幼心に審査員怖すぎだろと思ってましたが、この本を読むと、どうやら出演するコンビ同士でも裏でピリピリしていたようで、ああ、全てにおいて今と違うんだなと感慨深くなります。
個人的に印象的だった箇所は、昔ソフトバンクが携帯キャリアのPRでやっていたS-1グランプリの話です。
まず、そういえばそんなのあったな!と懐かしいのから始まって、なぜ面白くなかったのかの理由やすぐに話題をきかなくなってしまった当時の流れなどが、M-1との比較する形で芸人や関係者視点で語られています。本当に丁寧な取材で明らかにされていて、とても納得しました。
思いがけず、ものすごく人生の教訓とも言うべき学びがなり、ここが個人的にこの本のハイライトです。
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今年でちょうど20回目と、年末のお茶の間に欠かせない番組の一つになったM-1。
そのM-1の成り立ち、そして特に第1回大会から10年間の優勝者やファイナリストたちの背景、また、今に至っても毎年なぜここまでM-1は盛り上がってるのか?を知りたい方には珠玉の1冊かと思います。
様々な芸人の生き様、特に「笑い飯」への作者の思いが伝わります。これまでの2人の経緯や、仲が良くないという関係性(そういえば、2人だけで喋ってる姿TVであまりみたことないかも)、漫才への思い。
先日令和ロマンが2連覇しましたが、9年連続ファイナリストという、こちらも参加組数が1万組超と毎年加速度的に増えてきて、倍率も高い今、そうそう破られることのない記録。
そこまでのことを打ち立てながら、意外と千鳥や他の優勝芸人ほど、笑い飯が全国区のTV番組で見かけない背景も、少しわかるエピソードがありました。
M-1の2010年大会までをもう1度観たいと思いました。今の20代くらいからなら、リアルタイムで観れた回もあったでしょうし、本の内容も「あー、あの時のか」ととっつける部分はあるかと。
麒麟の川島さんに突っ込んで聞くようなエピソードとか、取材も綿密にされていて、読み応えある本でした。
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M−1の本であり、笑い飯の本。
ファンにはバイブルだろう。
Netflixで幾つか笑い飯の漫才を観たが
流石に際立っていた。
しかしそれ以外の芸人たちも、
文字通り命がけで臨んでいたことが
本人たちのコメントと共に
痛いほど伝わってきた。
そんな芸人たちと真摯に向き合った、
秀逸なノンフィクションだと思う。
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一般の仕事人店舗やオフィス仕事道具がないと基本的に仕事にならんけど
芸人は喋りとかヴィジュアル等で
それこそ身一つでどの場所でも赤の他人から娯楽として支持されて稼ぐ稀有な仕事だからこの本にでてくる芸人の世界が恐ろしく厳しく狂気じみてるのは当たり前なんだとよく分かる、 良い本。
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芸人は努力など見せず、あるものは粋を気取り、あるものは馬鹿を演じて決して下世話な世間には沈まないものという価値観は遠い昔。年末になるとどうしても、気になるあの番組がなぜあんなにも人を惹きつけるのか、なぜ熱狂するのか。人生はもちろん、命を削る者達の凌ぎ合いこそが笑いを作るのか。非道徳ではいられない、コンプラ社会の芸人達が作り上げた非日常の2分半のドキュメント。
Posted by ブクログ
M-1グランプリを巡る膨大な証言によって浮かび上がるのはまさしく芸人とスタッフたちの「純情と狂気」。と同時に、それらをこの一冊にまとめ上げた中村さんの労力とその熱量に想いを馳せ、気が遠くなるのでした。是非他のノンフィクションも読んでみたい。
Posted by ブクログ
「笑い飯」は、「もやしもん」の登場人物の1人の見た目の設定として使われた、という事しか知らなかった程の無知な自分。漫才という、論理的な正解など無い世界で、自分を・誰かを相方として「笑い」と「玄人評価」のトップを勝ち取る企画、M-1。その成り立ちや、同様の他の企画との違い、関わる芸人のタイプや考え方・物語は確かに面白かった。同時に、企業の狙い・費用対効果、東西の文化的な違いと共通点、ブレークスルーを作り出す人・出方、それぞれの視点でも興味深かった。書籍の執筆においてインタビューが前提になり、何をどう売りたいのか?が回答を誘導する面も当然有り。う~ん… 面白いと言えば面白かったし、読み疲れたとも感じた。
Posted by ブクログ
読み終えて思ったのは、副題の「その純情と狂気」が本当にしっくりくるなと、
M1を舞台にして各コンビの思いやストーリーが散りばめられていて、胸が熱くなりました。
スリムクラブの話にぐっと来たのは予想外でしたが最高でした!
Posted by ブクログ
M-1に関する本は2、3冊読んだことあるけどこの本が一番深掘りしてたな
主に笑い飯とか大阪目線のM-1だったけど
やっぱM-1は最初の10年がダントツ面白かったなぁ
今も面白いけど、あの頃には絶対敵わない
Posted by ブクログ
M-1を取り巻くさまざまな漫才師について書かれたドキュメンタリー。笑い飯がなぜすごいのか、どうすごいのか。いろいろなコンビがどのような気持ちでM-1に立ち向かってその結果どうなったのか。漫才の見方、お笑いの楽しみ方が変わる作品
Posted by ブクログ
2015復活前の”M-1”の演者達のヒリヒリする空気感、演者以外の者たちの交錯する思惑などが当事者達の言葉からあぶり出されていて、生々しかったです。
とにかく当時のM-1をもう一度見返したくなる、それだけ読んでいて熱くなる一冊!
笑い飯と千鳥の関係やbaseよしもとでの人間関係が中心に描かれているけれど、個人的にはスリムクラブのエピソードが面白くて好きです。
Posted by ブクログ
【笑い飯】
漫才のネタは、言葉に力を持たせるためにも実体験に即していた方がいい。そのため哲夫は設定を考えるとき、いつも自分の内面を探った。
「割と早い段階で総ざらいをやってみたんです。そんで、小学一年生の時の記憶から出てきたんが『鳥人』やったんです」
哲夫は奈良県桜井市で生まれ育った。桜井市は日本最古級の神社・大神神社や、日本最古の街道・山の辺の道があることで知られ、邪馬台国があったとされる有力地でもある。哲夫の実家は昔ながらの古い家で、哲夫は高校に入るまで「米は家で作るもの、風呂は薪で焚くもの」だと思い続けていたという。
小学校一年生のとき、哲夫が学校から帰ると、まな板の上に大きな包丁が出ていたことがあった。その日の晩飯のおかずは唐揚げだった。ぷりぷりとしていて、実においしかった。哲夫がその感想を伝えると、祖父の口から事実が明かされた。その唐揚げは、飼っていたニワトリを捌いたものだったのだ。そこで初めて包丁とニワトリがつながった。
「じいちゃんが『おばあちゃん、腰悪くて面倒みれんから、殺したんや』と。そのときの思い出が強烈で。あんとき、ニワトリのお化けが出てくるんちゃうかなと思ったんです」
【千鳥】
「最初の一ヶ月くらいは、三人がふざけているのを外から見ていただけ。でも、電車に乗ってるときだったかな、哲夫さんに『どなたさんですか?』と聞かれて。夕方五時ごろだったと思うんすけど、そっから夜中まで、ずっと同じボケを繰り返されたんですよ」
ノブは最初、必死でおもしろいことを言おうとしていた。声音や抑揚も変えてみた。だが、やればやるほど空回りし、どう返しても哲夫は何も聞こえなかったかのように表情一つ変えない。大悟の家へ行ってからも状況は変わらなかった。
深夜三時ごろだった。何十回目かの「どなたさんですか?」にノブがついにブチ切れた。目を剥いて、吠えた。
「ノブじゃ!」
すると哲夫が腹を抱えて笑った。西田も、大悟も、笑い転げていた。
「それでええねん。それがツッコミや」
哲夫はそう言って、なおも笑っていた。
ノブが漫才師になった瞬間だった。
「テクニックや小手先で言ってるときはひとつも笑ってくれなかった二人が、やっと笑ってくれたんです。いてこまされて、いてこまされて、怒ると笑いが起きる。笑いの教科書に一ページ目を教えてもらったような気がしましたね」
【かもめんたる】
漫才日本一を決めるイベントがM-1なら、コント日本一を決めるイベントは『キングオブコント』(TBS制作)である。そのキングオブコントの第六回大会王者のかもめんたるの岩崎う大が、漫才が不得手だと感じていた理由を、こう語っていたことがある。
「漫才って、素の自分でしゃべらなければならないという固定観念があったんです。その感覚がわからなかった。コントで自己紹介するなんてこと、まずないですよね。でも、漫才は『かもめんたるです』って自己紹介している以上、しゃべっているのは『岩崎う大』のはずなんですよ。でも、実際は違うじゃないですか。漫才も芝居は芝居ですから。何度やっても初めて聞いたかのように驚いたり、怒ったりしなければいけない。それを自然にやろうと思えば思うほど、空回りするというか、白々しくなっちゃう自分がいて」
岩崎う大は東京で生まれ育ちながら、高校時代はオーストラリアで過ごし、帰国後、早稲田大学政経学部を卒業したという、芸人としては異色の経歴の持ち主である。
彼の感覚は、漫才とは程遠い時代に育ったものにしかわからないかもしれない。一九七〇年代生まれで、関東育ちの私にはよくわかる。
小さい頃、ある漫才コンビが前にやっていたのと同じネタを、さも初めてやるかのような調子でしゃべっているのを見たときのショックたるやなかった。あれは演技だったのか、と。私も漫才とは「素」の状態で、その場で思いついたことをただ話しているものだとばかり思っていた。つまり、毎回、違う話をしているのだと思っていたのだ。
だから、岩崎う大の迷いがなんとなくだが理解できる。強いて言えば、芝居と素の間にあるのが漫才なのだが、物事はいつだって「間」がいちばん難しい。どのあたりにポジションを定めるのか。そのセンスが問われる。
岩崎は二〇二一年、十二年ぶりにM-1にエントリーしたとき、その難題をこう消化したのだという。
「要するに、素の自分に近い人間を演じればいいんだ、と。舞台に上がるとき、まず、そのスイッチを入れて、あとは別人のままずっと話している感じです。そこがはっきりしたことで漫才も演じることの延長に置くことができた」
【笑い飯】
漫才の実力者たちのネタを聴いていて、いつも感嘆するのは、何十回、あるいは何百回とかけているネタでも、鮮度を維持しているところだ。本当に初めて聞いたようなリアクションを自然にできる。いつ見ても表情が、言葉が、生き生きとしているのだ。
それに対して、M-1で早々に消えていくコンビは、やはり台詞の向こうに「台本」が見える。台本通りにしゃべっているだけで、表情やセリフに生気がない。
哲夫も、やはり根っからの漫才師だった。
「漫才んときは、普通にしゃべってる感じでやっています。ただ、覚えてるもんをしゃべるという意味では、ある程度、演技なんですけど。ただ、僕は芝居ができないんですよ。ドラマに一回、出させてもうたことがあるんですけど、十回ぐらいNGを出した。『めっちゃ、わざとらしい』って言われて。漫才の中の芝居は自然にできるんですけどね」
【ソラシド】
笑い飯は、なぜ、あのようなネタをつくれるのか。当時、多くの芸人たちは不思議がり、同時に羨望した。
二〇〇一年に結成し、現在、山形県で活動するソラシドのボケ役、本坊元児も同じ疑問にぶつかった。
「僕が初めて見た笑い飯のネタは、ロープウェイだったんです」
ロープウェイのことで頭がいっぱいのおじさんが登場する突拍子もないネタだった。
「そんとき、僕ら、漫才やってて楽しくなかったんですよ。一言一句、間違えんように言わないかんみたいな。けど、笑い飯を見て、こんな楽しそうに漫才やってええんやって。しかも、ロープウェイって何やねんという。おっさんがロープウェイって言いいたいだけやん、って」
本坊はそれまでNSC時代に出会った、ある講師の助言を拠り所にしていた。
「ちょっと奇抜なネタをしたコンビがいて、その時、先生が『おまえら、コンビニのネタはつくったんか?』って。『デートのネタは?』『誕生日のネタは?』『修学旅行のネタは?』と。生徒が『つくってないです』って答えたら、『全部つくってから、そういう(奇抜な)のをやりなさい』と。確かにそうやな、って思った。でも、それら全部を塗りつぶしても笑い飯の漫才にはたどり着けない気がして」
笑い飯は別段、奇をてらっているようには見えなかった。本坊はこう結論づけた。
「本当にロープウェイが気になったんでしょうね。笑い飯のネタって、嘘がない。だから力があるんですよ」
【ブラックマヨネーズ】
一般的に、漫才は素をさらけ出す芸で、コントは役に入る芸だと言われる。約八千本ものコントネタを持つジャルジャルの福徳秀介は、二つのジャンルの違いをこう話していたことがある。
「コントは、スベっても役に逃げられるんですよ。キャラクターがスベっただけだと。でも漫才でスベると落ち込む。福徳秀介がスベったことになるので」
吉田はそのとき、自分達の存在が否定されるかもしれない恐怖と戦っていた。
ネタは「最初のデート」がテーマだった。神経質な吉田は、どうでもいいことにいちいち迷う。人がいい小杉はそれに付き合い、細かなアドバイスを送る。しかし、それでもなお重箱の隅をほじくるように不安を指摘する吉田に、今度は小杉の方が精神を乱し、ついには吉田以上におかしなことを言い始める。もはやツッコミもボケもいなかった。不器用で、滑稽で、ゆえに愛らし男が二人いるだけだった。
そこにはつくられた笑いではなく、人間がひたむきに生きることでしか生まれないユーモアがにじみ出ていた。
この一本こそ、のちに「究極の漫才」とまで言われた『ボウリング』と呼ばれるネタだった。
【ユウキロック】
ユウキロックは二人の漫才に打ちのめされた理由をこう語る。
「あれって、二人ともボケたないんですよ。考え方が違うから、そのズレで笑いが生まれてるだけ。漫才って、本来、それでいいんです。なのにボケはボケを言わなと思うから、わざとらしく間違ったりする。俺もそうだった。どこかに違和感を覚えながらも、簡単に笑いが取れるからついそっちに手を出してしまった」
【タイムマシーン3号】
「尖ったネタをできる人たちって、ウケを狙いにいけばできるのに、あえて、それをやってないんだと思っていたんです。でも、そういう人もいるけど、そうじゃない人たちもいて。そういう人に本気で『どうやったらあんなにウケるの?』みたいに言われて。あ、バカにされてるわけじゃないんだと。そこから、突き抜けた客ウケというのは、やっぱり自分たちの武器なんだなって思う得るようになりましたね」
【変ホ長調】
舞台へ立つことの楽しさを知った彼方は、次はM-1だと思い、軽い気持ちで小田に声をかける。R-1で自信を得た小田は二つ返事で応じた。変ホ長調の誕生である。
京都と東京という距離があったため、ネタは数えきれないほどメールをやりとりしながら練り上げた。ただし、実際にネタ合わせをしたのは一回戦の前日である。人前でやるのは、本番の舞台が初めてだった。最初の年、それだけで準決勝まで勝ち進んだ。
二人はゆっくり出てきて、ゆっくりしゃべる。漫才中は、ほとんど表情を変えず、セリフは棒読み、話す内容は日頃、本当に思っていることだけにした。
滑舌が悪い彼方の言うことがはっきり聞き取れるよう、普段よりゆっくりしゃべっていることと、殊更暗い雰囲気を醸し出していることを除けば、舞台上の二人は、普段、世間話をしている小田と彼方、そのままだ。彼方は言う。
「最初はもうちょっと漫才っぽくしゃべった方がいいのかなと思ったんですけど、録音して聞いたら、変に作るより、普通にしゃべった方がおもろいな、ってことになって」
ーー「何でやねん!」みたいなツッコミ、やりたくなりませんでしたか。
「おもしろくないでしょ」と彼方は一刀両断した。その感覚こそ、彼女たちの才能だった。
M-1予選中、毎年のようにアナウンサーコンビやアイドルグループが参戦しているのを見かける。彼らや彼女たちは場慣れしているし、しゃべりもうまい。だが、大抵の場合、胸に響かなかった。なぜなら「漫才師」を演じてしまうからだ。漫才だからと、普段、使ったこともないのに、つい「何でやねん」と言ってしまう。借り物の言葉では、人の心を揺さぶることはできない。
若い頃からお笑いが大好きだった二人は、これまでその趣味に膨大なお金と時間をつぎ込んできた。そんな彼女たちだからこそ、そのことに勘付くことができた。
【NON STYLE】
M-1で石田は初めて泣いた。
二〇〇七年、四度目の準決勝敗退を喫したNON STYLEは、四度目の敗者復活戦を経験した。敗者復活戦を勝ち抜いたのは当時、まったく無名だったサンドウィッチマンだった。石田が回想する。
「東京の芸人たちが『サンドウィッチマンがんばってこい!』とか言って盛り上がってたんですよ。こいつら何してんねんって、無性に腹が立って。そんなことを思ってしまう自分が情けなくて涙が出てきた。でも、そこまで本気で悔しがれるということは、やっと決勝の舞台に立ってもおかしくないところまで来れたのかな、と思って」
【パンクブーブー】
ネタ作りを担当する佐藤は「変わったことをやった方がいいのかな」と迷いかけたこともある。だが、遭難する前に来た道を引き返した。そして、これまで歩いて来た道を突き進む覚悟を固めた。
「この世界の人の九十九%ぐらいは才能なんてないんです。僕もそう。笑い飯みたいに感覚でできるわけじゃない。じゃあ、どうするか。しっかりとした理論に基づいて作るしかない。クオリティをとことん上げるしかないんです。ただ、M-1では、特徴がないぶん、めっちゃウケるくらいじゃダメ。いちばんウケないと。突破口は結局、そこしかなかった。努力が秀才まで行っちゃえば、世間は天才って見てくれる。天才にだけはバレますけど、でも僕らが商売する相手は天才ではないんで」
【スリムクラブ】
「何でだよ!」
スリムクラブのツッコミを担う内間政成は、コントの最中、ややきれ気味にツッコんだ。すると、せっかくボケで起きた笑いがスッと引く。そんなことが何度か繰り返された。
そんな負のループに業を煮やしたボケ役の真栄田賢は、左側にいた内間の肩を左手で強くつかんだ。身長百八十三センチでいかにも屈強そうな真栄田の声は喉を潰したミュージシャンのように嗄れている。
「もういいッ! ツッコまなくていい! 何もしなくていいから」
内間も百八〇センチと長身だが、真栄田とは対照的にいかにも頼りなげで、ヒョロリとしている。
ただし、そこでコントが終わるわけではない。ツッコミを禁じられた内間は、意味不明な言葉を発し執拗に絡んでくるキャラクターを演じる真栄田に対して、オロオロするばかりだった。客席から冷笑が漏れる。
何もするなと言われても舞台に立っている以上、そうはいかない。用意してきた言葉はすべて「ツッコミ」に相当する。突然のツッコミ禁止令に、何も言葉が浮かんでこない。追い込まれた内間は、真栄田のボケに対して、反射的に返した。
「……そ、そうなんですか」
すると、客席がどっと沸いた。経験したことのないウケ方だった。強い否定ではなく、弱々しい肯定。そこに内間のリアルなおかしさが滲み出ていたからだ。内間は天啓を得た。
「これがお笑いの間なんだな、と」
真栄田が相方として内間に求めたことは、たった一つだった。
「内間は自分に自信がないもんだから、人真似ばっかりしてたんです。NON STYLEとか、キングコングとか。でも本当の内間じゃなから、全然ウケない。だから、居酒屋で俺と話しているとき、そんなに速く返すか、って。そんなに強い言い方するか、って。おれはお前と飲んでるとき楽しいよ。のんびりとした言い方で、突拍子もないことを言い出したり。それを舞台でも出してくれって言ってたんですけど、それがなかなかできなかったんですよ」
何もしなくていーー
それは真栄田の究極のメッセージだった。内間はこう解釈する。
「何もするな、イコール、普段のお前でいいんだから、ということだったんでしょうね」
新たな境地を見出したライブの後、真栄田は「このスタイルでいくぞ」と確信に満ちた表情で言った。内間は、「ほんとにいいの?」と思いつつも快諾した。
「いちばん楽だったので。前までは、相方がしゃべってきたら、必ず何かしゃべらんといけんと思ってたんですけど、それもやめました」
Posted by ブクログ
★3.5
笑い飯がこんな性格悪くて、不仲だと思わなかった。
そして、客をお客様だと思ってないところも、笑い飯で笑ったことあんまりない理由がわかった。
本としては、面白い。
M-1また見返してみようと思った。