あらすじ
「あの人たち」の権利を守り、「私たち」と「あの人たち」の死を同じように扱うことが、私たちの挑戦だった――(本文より)
いまも昔も、世界中のあらゆる国々で、「身元不明の遺体」が発見されてるが、その多くの身元を特定されない。身元不明者が移民・難民である場合、その遺体を「放っておけ」と言う人々がいる。それはなぜか?
イタリア(ヨーロッパ諸国)には、領海内で遭難した外国人の身元特定にかかわる法律が存在しなかったが、法医学者である著者は仲間たちと協力し、ヨーロッパではじめて移民遭難者向けデータバンクの創設に取り組む。
近しい人の身元がわからず、藁にもすがる思いでときには親族のDNA(髪の毛や爪、唾液など)を携え、著者のもとへ訪れる人々たちの怒り、慟哭、悲痛。そして「ここに来てよかった」という言葉。数字としてまとめられる身元不明の遺体、「顔のない遭難者たち」の背後にも、それぞれの名前と物語がある。遺された人が死と向き合うため尽力し続ける人々の法医学ノンフィクション。
「死者の身元を特定したいという願いは太古から続く欲求である。あの人はもう生きていないのだと納得し、その上で死者を埋葬したり、あるいはせめて、最期に丁寧に身なりを整えてやったりするためには、遺体そのものに触れる行為が必要不可欠となる」(第1章「二〇一三年十月 死者に名前を与えること」)
「では、なぜ、死んだのが「あの外国人(移民)たち」である場合は、抵抗なく受け入れてしまうのか? なぜ、このような事態を放置したまま、なにも行動を起こさないのか?」(第2章「『あの人たち』の死を、『私たち』の死と同じように」)
「『移民の遺体にたいしては、ほかの遺体(この場合、要するに、欧米人の遺体)にたいしてささげられるのと同じ努力を注ぐ必要はない』。見知らぬ誰かが、自分たちにことわりもなく勝手にこんな決定を下しているという事実を、移民の遺族は従順に受け入れてきた。遺族の頭のなかで、こうした現実がどのように解釈されているのか、私はどうにか想像しようとした」(「第4章 最初の同定 『ここに来てよかった』」)
目次
第1章 二〇一三年十月 死者に名前を与えること
第2章 「あの人たち」の死を、「私たち」の死と同じように
第3章 ランペドゥーザの挑戦 見いだすには、まず求めよ
第4章 最初の同定 「ここに来てよかった」
第5章 「故郷の土を、肌身離さずもっているんです」
第6章 メリッリ 海辺の霊安室
第7章 バルコーネ 死者は生者よりも雄弁である
最8章 最終幕 あるいは、第一幕の終わり
訳者あとがき
文献案内
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Posted by ブクログ
地中海には沈んでそのままになってる遺体がたくさんあるそうです。仮に遺体が見つかっても、どこの誰かを調べられず埋葬され、家族は生きているか死んでいるかもわからずにただ待ち続ける、という状態を変えようと活動している法医学者さんのルポ。勉強になりました。
Posted by ブクログ
不法移民の船が地中海へ相次ぎ沈んでいると、度々ニュースで目にしていた。ぼんやりと、遺体は母国に送り届けられるんだろうなあ、などと考えていた。本書を読み、それがあまりに甘い見通しであることを痛感させられた。
遺体の氏名を同定し、然るべき遺族へと繋げること。言うは易しだ。実際にそれをなすには、生前データと死後(検死)データのマッチングが必要でる。国内の身元不明死体でも、それをしっかりこなすのは簡単では無い。増してや、移民ともなれば尚更だ。
生前データの収集を巡る困難について。例えばリビアでは、家族が移民船に乗ったことが当局にバレれば、残された家族はムショ送りなのだという。そんななかで、母国に「この死者の家族の情報をください」などと公的に助けを求められるはずもない。そのため本書では、コミュニティを介した「クチコミ」で生前データを収集している。それでも少なくない難民が、家族や友人の消息を尋ねて遠くミラノまで来るのだと言うのだから痛ましい。
死後データを巡る困難について。検死は労力も専門性も、時間的制約も大きい。何百人もの移民の遺体に、その労力を掛けるのか? 誰が法医へ賃金を支払うのか?
DNA鑑定が必ずしも万能ではない、というのも面白い視点だった。DNA鑑定以外の鮮やかな鑑定方法については、ぜひ本書を実際に見ていただきたい。
本書を通じて、法医学者達の高い職業倫理に強い感動を受けた。この大きな問題に、熱意を持って(決して恵まれない資金状況のなか)取り組んだイタリアの法医学者達に心から敬意を表する。
本書の取り組みが、発展的に実を結ぶことを切に願う。地中海移民は現在進行中の大きな問題である。この問題は本書に登場するような法医学者達の「熱意ある働き」だけで解決できようもない。いずれもっと国際的視野で持って解決を図るべきだろう。
自らの死後も尊厳を持って扱われ、家族や友人に悼んでもらえるであろうという希望があってこそ、ひとは自分の命を、他人の命を大事にできる。死者の尊厳を守る。「死者に名前を与える」ことは、ひとが人として生きていく上での第一歩、見過ごしてはならない権利なのだと思う。
Posted by ブクログ
数ではなく名を。憐れみではなく尊厳を。
「遠く」の死者の無関心さ、無意識での無関心について考えた。数字だけで終わる、処理されてしまう大多数の個人の歴史・家族。想像がつかない過酷な世界から安心して暮らせる世界へと死を覚悟して出航して亡くなっていった人々が、死してなお軽んじられる。
自分の大事な人、家族、友人がもしかしたら亡くなったのかもしれない。おそらく亡くなったのだろう。けれど確証がない。事実がない。証拠がない。事実を得るための力も自分にはない。書いているだけでも底のない真っ暗な沼の中に入ってしまいそうな絶望。
今現在(2023年11月)に起こっているイスラエル・パレスチナ問題にも通づる。ニュースで「この爆撃で約〜人が亡くなりました」。
数字はなんて楽で残酷なんだろう。1の中の歴史を無にしてしまうのだから。私もその事をわかっていても「犠牲者が多いなぁ」と思ってしまう。
人権について真に理解出来ていない。同じ人間だと、仲間だと思っていないから安易に数字で表せるのだろうか。数字は悪では勿論ない。が、命の安易なカウントのニュースに心が痛む。この活動(失踪者の同定)が世界各地で当たり前のように起こせるようになっていきますように。全ての命が重んじられる世界へなっていきますように。
Posted by ブクログ
アフリカの国々から、地中海を渡りヨーロッパに迫害を逃れる人々がいる。
その粗末で小さな避難船に、許容を遥かに超える人々が乗船しているため、一度転覆でもしようものなら、被害は甚大だ。
『顔のない遭難者たら』の著者であるクリスティーナ・カッターネオは、地中海に沈んだ移民の遺体に「名前」を与え、「曖昧な喪失」に苦しむ人びとを助けるために奔走しているイタリアの法医学者。
法医学者は「名もなき死者」の身元を、指紋鑑定、遺伝学、歯科医学の3つを主たる手段として探っていく。
また著者が勤務する「ラバノフ」には、人類学者や考古学者も籍を置き、それを遺体の同定に役立てている。
本書では、犠牲者が多かった2013年10月と2015年4月の2つの遭難事故に焦点が当てられているが、悲劇はそれだけではないことを理解しておく必要がある。
国際移住機構の報告によれば、2000年から2016年までに、少なくとも22,400人が地中海で没しているとのことだ。地中海は、移民・難民にとっての「集団墓地」と言われながらも、未だに決死の航海は跡をたたない。
欧州移住に成功した人々が、残された家族をアフリカから呼ぶケースがある。そして突然難破したと知らせを受ける。しかし、その目で遺体を見たわけではない。その手で遺体に触れたわけではない。
我々がその当事者であったなら、自分にとってほかの誰よりも大切な人がもうこの世にはいないという事実を、本当に受け入れられるだろうか。海に沈んだ遺体が回収され、損傷が激しいのであれば科学的な同定(身元特定)が行われ、それがほんとうに愛する家族の亡骸なのだと判明するまで、心から納得することはできないのではないだろうか。
「確かさが得られないこと」の苦しみを、今日の心理学は「曖昧な喪光」と呼び、鬱やアルコール依存を招きかねない危うい心理状態として注意を促しており、現在の欧州には、この「曖味な喪失」に悩まされる移民が、数万、数十万の規模で存在しているとのことだ。
人間が死しても、それに敬意を払い、遺された遺族への配慮も怠らない。素晴らしいと言う言葉では言い表せない。
またその一方で、ロシアによるウクライナの侵略と虐殺、イスラエルのパレスチナ人への過度とも言える報復、ミャンマー軍事政権の民主運動家殺害など、世界の中では命の重さが、こうも違うのかと思わせることが続いている。
深く考えさせられた。
ちなみに、移民・難民の収容所があるランペドゥーザという小さな島の島民には、移民・難民の悲惨な現実が見えていないらしい。
敢えて見えないようにしているようだ。
しかし、この島の人たちを非難することは、出来ないのかもしれない。
それも複雑で深い問題だ。