あらすじ
「打楽器を持たない民族はいない」。古来、人は自身の体やモノを叩いて感情を伝え、動物の鳴き声や雨風などの自然音を真似、再現してきました。楽器発祥から2万年。信仰の祭礼、政治儀式、軍事の士気高揚・・・・・・あらゆる場面に浸透していった「音」と「音楽」。気候風土や時代背景に合わせ、世界各地の「音」は、どのように姿を変えてきたのか。西洋音楽と民族音楽、その対比が示す真意は? 「音」で考える、ユニークかつ雄大な文化人類学!(解説・森重行敏)
本書の原本は『世界楽器入門 好きな音 嫌いな音』(1989年1月 朝日選書)を改題したものです。
はじめに
第一章 ミンゾク楽器・
第二章 楽器の起源
1 生活周辺から生まれた楽器
2 食器から楽器へ
3 道具から楽器へ
4 自然界の音の再現から楽器へ
5 生存に必要な音を出す道具から楽器へ
6 呪術・信仰の道具から楽器へ
7 学問・研究の道具から楽器へ
8 音像から楽器へ
第三章 楽器分類を通して見た諸民族の楽器観
1 中国
2 インド
3 ギリシャ
4 ローマ
5 ヨーロッパ
第四章 楽器の音
1 打つ、擦る、吹く、弾く
2 楽器の成り立ち
3 音の出し方
第五章 楽器の分布と歴史
第六章 風土と音
1 風土と楽器
2 音の響き
第七章 音・数・楽器
第八章 メディアとしての楽器
1 経営メディアとしての楽器
2 視覚メディアとしての楽器
3 思想メディアとしての楽器
第九章 手作りについて
第十章 好きな音嫌いな音
第十一章 東方の楽器・西方の楽器
石笛/横笛/笙/篳篥/尺八/和琴/箏/琵琶/三味線/胡弓/鼓
/先史時代の楽器/オーボエとバスーン/クラリネット/トラムペ
ットとトロムボーン/ホルン/テューバ/リコーダーとフリュート
/バグパイプ/オルガン/キタラとライア/ハープ/ヴァイオリン
/リュートとギター/ツィターとハープシコード/クラヴィコード
とラングライク/ダルシマーとピアノ/カリヨン/ティンパニとシ
ムバル/アフリカの楽器/インドの楽器/インドシナ半島の楽器/
インドネシア・オセアニアの楽器/雑音の効果/種々の撥/弦
楽器に関する参考文献
あとがきにかえてーー楽器研究の方法論――
解説「人類共通の財産ーー音楽とは何か?ーー」森重行敏(洗足学園音楽大学現代邦楽研究所所長)
楽器索引
人名索引
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
・郡司すみ「世界の音 楽器の歴史と文化」(講談社学術文庫)もザックスとホルンボステルの分類による1冊かと思つて読み始めた。しかし、どうも違ふ。楽器分類がないわけではないのだが、主要楽器のみが最後の方にあるといふ程度で、筆者の本書に於ける関心の中心はこちらにはなささうである。「はじめに」が筆者の関心の在処を端的に示してゐると思ふ。「音楽の演奏に用いられるものが楽器である」(11頁)、ならば「音楽とは何であろうか?」(同前)しかし、「音楽といわれるものについて、すべての人々を納得させることのできる説明はまだないように思える。従って、音楽を演奏するための楽器とはどのようなものであるかをあき らかにすることもまた不可能であると言わなければならない。」(同前)どうやらこの人に所謂楽器分類は不要であるらしい。それでもこの最後に、「あらゆる音の中のある一つが意識されて、“音”となるように、地球上のどのような物でも、ひとたび“音”を出すために使われると、たちまち“音を出すもの”に変身してしまう(中略)そのようなものを楽器と呼んでよいのではないかと思う。」(同前)と書いてゐる。つまり音を出せれば楽器になるのである。
・第一章は「ミンゾク楽器」である。民俗か民族か、これだけでは分からないが、それは「文字で書かれていてもその用法は曖昧なことが多」(14頁)く、これは音楽でもさうだといふのである。「『音楽』というといわゆるヨーロッパの芸術音楽を意味し、その他の音楽で馴染みのないものは、大抵ミンゾク音楽と呼ばれてゐる。」(同前)CD販売などでのジャンル分けは細かいが、一般にはこの通りであらう。「音楽」の授業は、基本的に西洋の所謂クラッシック系の音楽を中心に行ふ。楽器はリコーダーとか鍵盤ハーモニカ とかである。琴や三味線を習ふことはなく、また聞くこともめつたにない。我が国の音楽は、「およそ十七世紀以降に西ヨーロッパで 確立された体系的な形をとった音楽、言い換えれば音が定量化・標準化された後の、いわゆる近代五線譜による音楽に限られてゐる。」(15頁)五線譜といふのは便利である。だからそれが教育に採用されたのは分かる。共通の地盤や視点が必要だし、それを提供してくれるのはヨーロッパの音楽にしかなかつた。例へば日本にも楽譜はある。西洋の影響を受けた三味線の文化譜などは確かに分かり易いのだが、問題はそれを使ふ人によつて基音が違ふことである。人は皆それぞれだから基音が違つて当然とは西洋では考へなかつた。基準があるからよく分かるとも言へる。皆同じ高さの音を出せる。そのおかげでオーケストラも混声合唱もできる。だから、西洋の楽器は「“ヨーロッパ音楽”のみが持つ和声の発達とともに完成された楽器」(17頁)であるのに対し、「日本の音楽は唄を主体とする旋律の音楽であ」(同前)るから、「一つの音の表情の豊かさ、微妙さが生命であつて、楽器の音にも当然それが要求され」 (同前)る。ミンゾク音楽を扱ふのだからかういふ考えは当然と言へるかもしれないが、現実には、音楽学は西洋音楽の範疇内で行は れてゐる。その意味でこれは珍しい。大体、私は楽器学といつてもクルト・ザックスぐらゐしか知らない。そんな人間からすれば本書は驚異の書であるとも言へる。それだからこそこれは引用しておきたい。「“ヨーロッパ音楽”に倣って、諸民族の音楽を定量化・標準化して普遍化を持たせようとする試みは、それがどのような形をとったとしても、これらの音楽の本質を損なう危険をはらんでいることに心しなければならないと思う。」(18頁)私自身の自戒でもある。