あらすじ
およそ二五〇〇年前,古代ギリシアに生まれた民主政.順ぐりに支配し,支配されるという人類史にかつてない政体は,いかにして考え出され,実施されたのか.公共性を,一人ひとりが平等にあずかり,分かちあうことを基本にして古代の民主政を積み重ねた人びとの歴史的経験は,いまを生きる私たちの世界とつながっている.
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■ この本を読んで知った古代民主政の実像
⚫︎古代ギリシアの直接民主政のイメージは、アルギヌサイ裁判をはじめ、トゥキュディデスやクセノポンが書く衆愚政治の描写や、プラトンやアリストテレスによる民主政批判に基づく未熟な国制というものであった。この本を読み、それがペロポネソス戦争による市民の異常な心理状態を背景とした限られた時期に起こった現象を切り取って形作られたイメージであり、現実のアテナイ民主政は、市民の誇りとしてその理念がよく制度化され、クレイステネスの改革から始まりマケドニア軍による廃止まで間だけでも185年間、上記のような混乱があったものの、ほとんどの期間は安定して存続し、成熟していったものであったことを知った。また、プラトンの民主制批判は、このペロポネソス戦争敗北後の混乱期に民主政で露呈した民主政の孕む危険性(危機において意思決定者である市民団が、扇動されやすい等の性質)への危機感からきたものであったことを理解した。
■ 民主政を支えた制度・条件
【制度】
⚫︎民会(エクレシア):民主政の最高意思決定機関として、市民権のある者全てに出席・発言・投票の権利が平等に分配され、1人1票の多数決で国家の意思決定に参加できる事で、市民が政治に直接関わっているという自覚と矜持を涵養
⚫︎500人評議会:行政の中枢機関であり、500人が任期1年で交代し、ほぼ全ての市民が一度は評議員に就任し、政府当局の実務を経験する事により、「順ぐりに支配し、支配される」という直接民主政の本質を実現して、市民が政治に直接関わっているという自覚と矜持を涵養
⚫︎日当支払制:民会等の政治参加に日当を支払い、休業して政治参加する下層市民への経済的補償を行うことで、民主政維持のため、市民の無関心や経済的理由による不参加を防止
⚫︎ 公職者の不正を摘発・訴追・処罰する制度:公職者の不正を厳格に監視し、不正があれば摘発・訴追・処罰する制度を整備、公職者がデモス(市民団)に責任を負うシステムにより、民主政変動の原因となる公職者の権利の濫用を防止
⚫︎制文法主義の確立:法の規定が民会の判断に優越する原則を確立、民会が多数の横暴により恣意的な決定をしないよう法により制約し、民主政の安定化を図る。
⚫︎無頭性の原則:評議会その他の実務組織や役人同僚団に長や代表者を常設しない事で、僭主発生の原因となり得る特定の個人への権力の集中を防止
⚫︎情報の公開:碑文建立、公文書館において体系的に整理・保管された公文書の全市民への閲覧許可等の情報公開により、民主主義の成立条件である市民が政策の選択とその結果を知ることのできる環境を構築
【条件】
⚫︎民主政の成立条件
① 部族制:各地に古くから形成されていた集落を区(デモス)とし、区・トリュッテュス・部族の3層構造の10部族に再編成し、貴族支配の基盤であった旧来の4部族制を廃止することで、民主政の成立に障害となる貴族の支配構造を解体
②海軍国家化:ギリシア随一の海軍力の整備により、漕ぎ手としてペルシア戦争に参加し、勝利に貢献した下層市民の政治的発言権が増す事により、民主政発展の原動力に。
③アレオパゴス評議会の無力化:保守的な貴族派の牙城である「アレオパゴス評議会」からの政治的実権の剥奪により、民主政成立の障害となる貴族の国政への影響力を無力化
⚫︎民主政の維持条件
① 政治参加を名誉とする価値観:政治への参加を名誉とし、民主制を自らのアイデンティティとするアテナイ市民の価値観
②アテナイの帝国主義的支配機構:ギリシア随一の海軍力に基づき、デロス同盟の盟主として莫大な同盟資金を集め、その富で海軍を維持するとともに、民主政の維持に必要な公共事業や日当支払制等の財源を確保
③市民の多数派が自営農民:大多数の市民が土地を持つ自営農民であったため、経済的に民主政のために考え、行動できない状態ではなかった。
④区(デモス)における地方政治:市民が自らの区(デモス)における地方政治を経験することにより、田舎の市民であっても、中央での民会や評議員といった公職へのスムーズな政治参加が可能な環境を維持
⑤ 小規模共同体:最盛期でも5〜6万人とポリスとしては巨大だが、現在の国家規模(数千万〜数億)に比して小規模であるが故に可能であった直接民主政の実現・維持
⑥軍事参加:市民は政治共同体の構成員であると同時に、重装歩兵や海軍の漕ぎ手として国家防衛を担い、政治的権利と軍事的義務が結び付いていた事が市民の真剣な政治参加を促進
⚫︎民主政を支える基盤
市民以外の存在に支えられた民主政:市民が政治参加を可能にするため、奴隷、女性、居留外国人(メトイコイ)等が社会や家庭でのさまざまな労働により、民主政を支えていた。
■ プラトン/アリストテレスとの接続
【プラトン】
⚫︎プラトンにとって30人政権への失望の経験は、統治者には知識や能力だけではなく、魂の秩序が必要であるとの認識を強める契機になったと思われる。また、愚かな暴徒ではなく、アテナイの普通の市民達が、法に基づく手続きを経てソクラテスを処刑した事は、集団としてのデモス(市民団)も判断を誤り得るという問題認識を強くしたと思われる。これらの経験は、プラトンが「人間はなぜ判断を誤るのか」、「何が正しい判断を可能にするのか」について考える重要な背景になったのではないかと考える。そして、プラトンは『国家』において「正義とは何か」を探究し、その過程で「善とは何か」についての考察に至る。そして、その帰結として、魂の秩序を保ち、かつ、善そのもの(善のイデア)を認識する哲人による統治という構想を展開していったと考えられる。
【アリストテレス】
⚫︎アリストテレスにとって、アテナイの民主政は、「順ぐりに支配し、支配される」公職の就任制度や、制文法主義の確立、多数派としての中間層の政治参加等、自身の考えと合致する部分も多く、プラトンほど批判すべき対象ではなかったと考えられる。ただし、正義の徳や思慮を持たない支配者や市民達が部分利益を追求する危険性についての問題認識は、ある程度プラトンと共通していたと思われる。
プラトンは、支配者や市民達が、魂の秩序の乱れや善の認識の欠如により、判断を誤ってしまうという問題認識を背景に、「どうすれば正しい判断が可能か」という判断の成立条件を焦点として探究し、最終的に哲人統治の構想に至った。
一方、アリストテレスは、アテナイ民主政の経験を踏まえ、より普遍的な国家論として、「より善い国家共同体を構築・維持するための条件は何か」を焦点として探究する方向に向かった。
アリストテレスは探究の中で、国家が何故腐敗し国制の変動に至るのか、どうすれば防げるのかについて比較・分析し、国制を担う人々の配分的正義の誤りが、共通善の追求を阻害し、部分利益を追求する事により、腐敗や国制の変動に繋がると考えた。そのため、国家がその目的である「善く生きること」を実現するため、共通善の追求、徳の涵養、混合政体、中間層の重視等、現状の国制をより善くする各種条件を探究した。
■ 現代民主主義との主要な相違点
【統治方式(直接民主政/代議制)】
アテナイ民主政では、直接民主政として市民自らが民会において国家の意思決定を担うのに対し、現代民主主義では、代議制として市民は代表者を選挙で選び、市民に代わり、代表者によって国家の意思決定が行われる。
【参政権】
アテナイ民主政では、参政権は市民である成人男子のみに付与されており、女性、奴隷、在留外国人には付与されていなかった。
現代民主主義では、国籍があり、一定年齢を満たしていれば、性別と身分によらず参政権が付与される。
【政治参加の意味】
⚫︎現代民主主義における政治参加は、個人が持つ権利の行使と考えられている。
⚫︎アテナイ市民にとって国政は「あずかる(メテケイン)」ものであり、政治参加は、共同体の活動に参与する事そのものであった。市民にとって、政治参加により市民の責任を果たす事は他者からの尊敬を勝ち得る名誉なことであったと考えられる。また、市民は公職参加だけでなく、軍事的義務(重装歩兵、船の漕ぎ手等)を持っていたため、国政を自らの問題として捉えやすい構造にあったと思われる。
【国家規模】
アテナイの人口は、参政権を持つ成年市民男子の人口が最盛期で5〜6万人、全人口(女性、子供、メトイコイ、奴隷)は25〜40万人と言われており、当時のポリスの中では群を抜いて巨大であったが、数千万〜数億規模の現代国家と比べると非常に小規模であり、参政権保有者が数万人規模であったことが、民会への参加や公職への抽選による就任制度の運用等、直接民主政の制度運用を可能にした要因の一つであったと思われる。
【民主政を支える社会的基盤】
⚫︎アテナイ民主政は、直接政治に携わる成年市民男子だけで成り立っていたわけではない。女性、奴隷、在留外国人(メトイコイ)といった参政権を持たない人々がそれぞれの役割を果たすことで、アテナイ民主政は成立し、維持されていた。
⚫︎女性:女性は、アテナイ民主政の前提となるポリスの構成単位である「家(オイコス)」の管理を担い、家長である成年男子の政治参加を可能にする役割を担うとともに、次世代の市民(政治の担い手)を産み・育て、その再生産を担うことで、アテナイ民主政の存続を支える重要な役割を果たしていた。
⚫︎奴隷:家(オイコス)において家事や労働を担うとともに、農業や鉱山労働、工房での作業など、アテナイの経済と生活に不可欠な重労働を担っていた。政治参加に時間がかかる直接民主政において、政治参加の時間確保は、民主政の成立条件であった。奴隷は、成年男子市民がポリスにおいて自由に討議し、政治参加する時間を創出する役割を担った。
⚫︎在留外国人(メトイコイ):商業や手工業の中核的担い手としてアテナイの経済と富の維持•発展に不可欠の存在であり、アテナイ民主政の経済的基盤を担っていた。
■ この本によって「民主政」について何を考え直させられたか
⚫︎想像以上に制度化された政治体制
民会や評議会等の抽選・任期制や公職者の不正追求のための諸制度、成文法主義の確立や情報の公開等、直接民主政を成立させ維持するための工夫が存在する高度に制度化された政治体制であった事を知り、アテナイ民主政の認識を改めた。
⚫︎アテナイ民主政を支える市民の政治参加
アテナイ民主政には、市民の積極的な政治参加が必須であった。アテナイ市民は国政について我が事と捉えて真剣に参加するとともに、市民としての責任であり名誉であると考えていた。この背景には、市民権の境界設定や市民の兵役義務、教育や共同体意識等が要因として存在することを知った。民主政は制度だけでなく市民意識によって支えられていることを理解した。
⚫︎国家共同体を維持するための知恵
特に印象に残ったのは、三十人政権崩壊後の大赦令である。アテナイ市民は三十人政権での虐殺被害等に対する報復や支援者達の排除を優先するのではなく、共同体の再建(共存)と統合を選択した。この選択は、感情的な復讐心にも、「正義」を徹底的に追求する姿勢にも流されないものであり、共同体を維持するための現実的な政治的判断であったように思われる。
また、アテナイの市民は全員が民主政を賛美していたわけではなく、貴族や知識人には民主政を嫌悪・批判する者達も多数存在した。これらの人々も、民会での演説や裁判という民主政のルールに則っている限り、民主政批判の発言も許容された。アテナイ民主政は、価値観や政治的立場の異なる人々が一つの共同体として共存するための知恵にも支えられていたのではないかと思う。
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目次
はじめに
第1章 民主政の誕生
第2章 市民参加のメカニズム
第3章 試練と再生
第4章 民主政を生きる
第5章 成熟の時代
第6章 去りゆく民主政
おわりに
あとがき
図版出典一覧
関連年表
主要参考文献
概要
橋場先生による、古代ギリシアの民主政治についての通時的概説書。最新の研究に基づき、民主政治が生れたアテナイの歴史の歩みと、アテナイを通じてペロポネソス半島のアルゴスやシチリア島のシラクサなどのポリスに伝播した民主政治の様子を描いている。
本書のモチーフは、著者が明言するように、ソクラテス裁判などを理由にアテナイの民主政治を「衆愚政治」と呼ぶ、プラトン以来のヨーロッパの知的伝統や、奴隷制を理由にアテナイの民主政治を批判する近現代の左翼思想の反批判にあるが、その試みは半分しか成功していないように感じた。
というのも、古代ギリシアの民主政治への批判は、19世紀半ばまで欧米でも一般的だった奴隷制のみならず、女性の権利の制限についてもなされており、しかも古代ギリシアの民主政ポリスの女性の権利制限は、市民権という概念に基づいて行われていたからである。奇妙なことに、本書ではこの事実については触れられていない。そのため、以下に引用するような、古代シュメールの都市国家では、古代ギリシアの都市国家よりも女性の社会的地位が高かった(例えば法廷に出る権利があった)ことなどについて、残念ながら著者の考えは示されていない。
“ 姦通についても、ウルナンム法典第七条に「もし人の妻がほかの人に従い、ともに寝たならば、女は殺される。その人は自由である」とあるように、女性のみが罰され、家を担う男性は罰されない。
古代ギリシアのポリスでは、市民の権利が明確になったことに反比例して、女性は社会的権利を狭められた。女性は家長に服するという点で奴隷と同じく家内的存在であり、私的な家庭内で主人として振る舞いえても、市民社会に生きる者ではなかったとされる。
前三千年紀メソポタミアの社会において、ギリシアと同様に女性の社会的地位が低かったかといえば、一概にそうとはいいきれない。ウル第三王朝時代の文書に、女性が財産を保有し、その保全のために出廷し争った記録がある。一つの裁判文書を示す。
寡婦となった女性が所有する家宅と奴隷について、息子が、それらは父の遺産に含まれるので、父の相続人である私に所有権があるとして、法定に訴えた。裁判のプロセスは概略次のようであった。訴えられた寡婦の家宅は、寡婦からいえば夫、息子からいえば父が関与することなく、彼女が自らの銀で購入しており、家宅購入証書も存在した。そのことを彼女は法定で証言した。奴隷については夫から贈与されたものであり、証拠となる証書も存在した。奴隷贈与を証言する証人も出廷した。提訴した息子は、彼女に有利な証言をした証人の言葉を認めた。逆に、息子の提訴理由について、息子側の証人たちは確認の証言をしなかった。それによって、彼女の家宅と奴隷の所有権は確定した。
この裁判は、寡婦となった女性が自らの資金でおこなった、家屋を購入するという経済活動を認めている。夫から贈与された財産の内容に関して、この女性は夫から奴隷を贈与されていた。ウル第三王朝時代〈←214頁215頁→〉の文書によれば、夫から妻に、家畜や奴隷、それに貴金属を贈与する例がほかにも知られており、娘に土地を分与する例もある。
女性が土地を含めた財産をもち、それを維持するために公的な場である裁判に出廷することも辞さなかった。女性の地位が社会的に認知されていたといえるが、ただし、それによって前三千年紀メソポタミアの女性の社会的地位が高かったといえるかどうかは、にわかに判断できない。メソポタミアの女性がある程度の社会的活動を許されていたのは、女性の権利が保護されたというよりも、ギリシアと異なって、厳密な身分規制がゆきわたっていない「市民権なき自由民」が中心となっている社会での、個別的な現象であるとみるのが妥当だろう。”
(前田徹『古代オリエント史講義――シュメールの王権のあり方と社会の形成』山川出版社、2020年10月30日1版1刷発行、214-215頁より引用)
また、後世のアテナイ民主政治批判は、決してソクラテスを死刑にした「衆愚政治」ということについてのみ言われている訳ではない。アテナイよりもスパルタの方が女性の地位が高かったことや、軍国スパルタよりもアテナイの方が好戦的なポリスだったことについても言われているのである。
“ 逆説的なことに、民主政を敷くアテナイよりも閉鎖的な軍事社会であったスパルタにおいて、女性たちは自由で自立していた。スパルタでは、少女たちは短い軍用キトンを着て運動場でスポーツをしたし――“太腿を丸出しにした女たち”と、ほかの町のギリシア人たちは眉をひそめて呼んだものだ――、特別〈←104頁105頁→〉な祝祭のときには全裸で踊った。既婚女性は公の場に自由に出入りできたし、男性と同様に財産を所有・贈与することができた。息子の出陣にさいして名誉ある“盾渡し”の儀式を厳粛に行ない、かの冷徹な教え――≪これを携えて、さもなければこの上に乗って(戻りなさい)≫つまり、戦いを放棄するぐらいなら、死んで祖国に戻りなさい、という意味。戦死した兵士の遺体や負傷兵は取っ手に槍を通して担架のようにした盾に乗せ、戦友たちが祖国に連れ帰る慣わしだった――を授けるのも彼女たちの役目だった。
スパルタにおいては、父系社会ではきわめて珍しいことに、女性たちの教養が大変高かった。そのことは、プルタルコスのおかげで一部が伝えられている『スパルタの女たちの箴言集』と題した作品から知ることができる。ここでは、スパルタ女性たちのおかれた環境を示唆する、ひじょうに興味深いエピソードを紹介しよう。イオニア地方のギリシア人たちの使節団がスパルタ王クレオメネスに援軍を要請するため、スパルタを訪れたときのことだ。王は四つん這いになり、娘のゴルゴを背に乗せて歩きまわっていた。それを見て驚いた使節たちに、王は言った。「異国の客人をお迎えするのにふさわしくはないことはわかっている。しかし、諸君も人の親ならわかってもらえると思う」このエピソードから、スパルタでは、幼いころに家族のもとを離れ兵舎暮らしを始める男の子よりも、女の子のほうがはるかに両親から愛され、かわいがられていたことが想像できる。オリュンピアの競技大会の四頭立て戦車競走に出た馬たちの所属する厩舎のいくつかは、女性がオーナーだったこともわかっている。アスコットの競馬場で英国の女王や貴婦人の所有する厩舎のサラブレッドが走っているように、当時も女性のオーナーたちの馬が活躍していたわけだ。”
(ヴァレリオ・マッシモ・マンフレディ/草皆伸子〔訳〕『アクロポリス――友に語るアテナイの歴史』白水社、2002年11月、104-105頁より引用)
“ 「ひとつ、わからんことがあるんだが。どういうわけで、古代ギリシアでは役割が逆転していたんだろう。アテナイ人のような民主主義者たちのほうが好戦的で、寡頭政治を行なっていたスパルタ人のような守旧派のほうがいつも平和への道を求めていた。どういうことなんだね?」
「理由はひとつしかないと思う。いかにも、きみの大好きなソフィストたちが言いそうなことなんだけどね。つまり、こういうことなんだ。人間は自分が得をすることをする。イデオロギーなど問題ではない。言い換えれば、アテナイ人たちにとって、戦争は戦艦の漕兵たちがもらう給料、造船所や武器製造工場や軍事物資供給業者が得る利益、奴隷商人が濡れ手に粟で手にする莫大な富、原住民たちを追い出して作った軍事拠点に駐屯する者たちがただでもらえる土地を意味していたんだ。ようするに、支払いをしてくれる“帝国”があるかぎり、戦争はじつに儲かるビジネスだったというわけさ。スパルタ人たちだって、心の優しい平和主義者だったとは考えられない。ただ、彼らにとって、戦争はやっかいなことでしかなかったんだ。“やっかいな”というよりは、“なんとしても避けたい”と言うべきかな」
「だけど、スパルタ人というのは子どものときから戦闘訓練ばっかりしていたんじゃなかったかね?」
「そこなんだよ。だからこそ、戦争の怖さを誰よりもよく知っていたのさ。でも、それより重大なのは人口問題だったんだ。軍籍をもつ市民階級は定員制だったし、土地を所有している者にしか共同食堂の給食費や武具などの維持管理費を賄うことができなかったからね。多くの子どものあいだで土地が分割贈与され、数世代で財産がすっかり散逸してしまうのを防ぐために、厳しい出産制限をしていたんだ。戦争は兵士階級の弱体化、ひいては町の衰亡を意味していた。スパルタ人にとって、人口問題は寝ても覚めても頭から離れない大問題だったんだ。……”
(ヴァレリオ・マッシモ・マンフレディ/草皆伸子〔訳〕『アクロポリス――友に語るアテナイの歴史』白水社、2002年11月、256頁より引用)
この件についても奇妙なことに著者の考えは示されていない。著者は、ルネサンス以来の西洋の知識階級の大衆蔑視を伴うエリート主義から始まる流れと(本書229-232頁)、奴隷制を理由にアテナイを批判するマルクス主義の流れ(本書233頁)を、思想界の「反民主主義の伝統」の潮流として挙げている。しかし、上記引用部で示したように、アテナイよりもスパルタや古代シュメールの方が女性の地位が高かったことについては、民主政治の主体となる「市民」についてのアテナイ人の理解が投影された結果であるし、現実政治において、アテナイは決してスパルタよりも平和的に振る舞った訳ではない。私は本書を読む前に、これらの点について著者がどのように回答しているのかが気になっていたため、私の読解力の不足かも知れないが、その答えを見出せなかったのは残念な読後感であった。
なお、最後に、リビアの革命指導者カダフィ大佐は、古代ギリシアの民主政治を20世紀に復活させようとして、「ジャマーヒリーヤ」体制という世界でも類を見ない革命体制をリビアに築き上げたが、この体制について著者がどのような意見を持っているのかも知りたかった。多くの観察者が見ているように、直接民主主義を打ち出しながら、肩書としては一介の大佐に過ぎない革命指導者のカダフィに強大な権力が集中するリビアの政治体制と、「一〇人の将軍の一員にすぎなかった」(本書166頁より引用)ペリクレスが多くの決断を下していた古代アテナイの政治体制はどれほど異なっていたのか。「古代アテナイ人がもし今日の議会政治を目にしたならば、それを民主政ではなく、極端な寡頭政と見なすであろう。彼らにとって統治の主体とは代議士ではなく、市民自身だったからである」(本書237頁より引用)との著者の思いには私も賛同している。上記で古代シュメールやスパルタがアテナイよりも優れていたと思われる点について書いたものの、私自身としてはアテナイ人の直接民主主義を今日に活かすべきだと考えるものとして、議会政治や政党を否定して直接民主主義を打ち出したカダフィ大佐の実験について、著者がどのように考えていたかは興味が尽きない。