あらすじ
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〈です・ます〉体で書き上げた論文が却下された著者が抱いた疑問。「なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?」
〈である〉と〈です・ます〉、二つの文末辞の違いを掘り下げていった末にたどり着いたのは、全く異なった二つの世界像=哲学原理だった。
国語学、日本語学の成果をふまえ、日本語で哲学することの可能性を追求した画期的な論考。〈である〉と〈です・ます〉それぞれが表す哲学原理とは? 愛、正義、ケアの概念は〈である〉で語るべきか、それとも〈です・ます〉で語るべきか? 世界には〈です・ます〉でしか描けないものがある。スケールの大きな思考実験にして、唯一無二の哲学入門。
「本書は(自分でも驚くのだが)日本語の「です・ます」と「である」について、ただそれだけを論じた本である。だが、その結果として(これも驚いたことに)、全く異なった二つの世界像に到達する。この二つの世界像がそれぞれどのようなものか、それらにどんな意味があるか、それを今ここで示すのは難しい。その意味、というより、それらに何らかの意味があることを明らかにするためだけに、これだけの分量が必要だったと言うしかない。もしその内実に関心があるという奇特な方がいらっしゃったら、後は本文を読んで貰うしかない。」(「まえがき」より)
【目次】
まえがき
■第1部 問題編
第1章 なぜこんな問題を考えるか
第2章 なぜ論文を〈です・ます〉で書いてはならないのか
第3章 〈です・ます〉肯定論
■第2部 日本語学・国語学編
第4章 「女子ども向き」説
[ノート1]〈です・ます〉とケア
第5章 「話し言葉」説
第6章 「敬語」説
[ノート2]人称詞と敬語
第7章 モダリティ
[ノート3]言語と主観性
第8章 待遇表現論
第9章 文体論
■第3部 日本語からの哲学編
第10章 〈です・ます体〉から〈である体〉へ
[ノート4]〈だ体〉の問題
第11章 〈である体〉の人称的構造
第12章 〈です・ます体〉の人称的構造
[ノート5]文体、ジャンル、混用
第13章 文体から原理へ、学問経由
[ノート6]〈である原理〉と正義
第14章 〈です・ます世界〉と〈である世界〉
第15章 世界内の構成要素
■第4部 異論と展開編
第16章 文体と原理
第17章 二分法を超えて
第18章 我と汝、我とそれ
第19章 生成
第20章 制度と間
[ノート7]愛とケア
結びに代えて
あとがき
付録1 日本語と哲学、従来の研究
付録2 「ですゲーム」、あるいは哲学者たちの文体
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
「です・ます体」で執筆した論文の掲載を拒否された著者が、日本語における「である体」と「です・ます体」のちがいについて哲学的な考察を展開している本です。
論文では客観的な書きかたである「である体」を用いることが望ましく、敬意をふくむ「です・ます体」はふさわしくないという、ひろくいきわたっている理解を、著者は批判的に検討し、その誤りを指摘します。そのうえで、「です・ます体」は、たとえ明示されていなくても、二人称との関係のなかで成立する書きかたであり、これに対して「である体」が二人称との関係を消し去るような語りかただということが指摘されます。さらに著者は、こうした書きかたにもとづく認証的世界の構造がもたらす哲学的な考察へと踏み込み、とくにブーバーの論じた「我と汝」にかんする問題にあらたな視点から光をあてています。また、正義の倫理学とケアの倫理学の差異に通じる問題へと、考察を進めていく可能性にも言及されています。
著者はカント哲学の概念を用いて、文体による世界の把握のしかたのちがいは「統制的原理」として機能すると主張していますが、こうした観点から個人的に興味深く思われるのは、森有正の思想との比較です。森は、日本語による世界把握では二人称との関係を離れることがむずかしいことを批判的な立場から指摘し、「経験」の構成的原理としてその問題を論じているように思われるからです。
なお、わたくし自身はここでは「です・ます体」を採用しているのですが、そのきっかけになったのは、アダルト作品のレヴューを書くときに「である体」だと「サマ」にならないと気づいたことでした。なかには「である体」で独特のねちっこさを表現するすぐれた書き手もいるのですが、「です・ます体」を採用することでマニアックな「キモさ」を容易に演出することができるのは大きなメリットで、以来作品レヴューなどでは一貫して「です・ます体」を用いています。