【感想・ネタバレ】甦る昭和脇役名画館のレビュー

あらすじ

東映ヤクザ映画、日活ロマンポルノ、新東宝怪奇映画……、3000本以上のプログラム・ピクチャーから厳選36本! あの懐かしの個性派俳優たちが帰って来た!

◎プログラム・ピクチャーにおいては、主役は代われど、脇役陣は常に同じである。一例をあげると、悪親分役の脇役は、多少のバリエーションを伴いつつ、ほとんど同じ役を演じ続ける。その結果、劇中の様々なキャラクターが俳優その人のパーソナリティーに重なって、一種独特の人格が形成されることになる。
◎それはいってみれば、モンタージュ写真のようなもので、劇中のそれぞれのキャラクターとも、俳優の素顔とも異なる第三の人格である。
◎私は、脇役特有のこの第三人格の形成にとりわけ興味をもった。というのも、これこそは、映画の製作側と受容者側とのコラボレーションによって初めて生まれる、文字通りのインタラクティブ(相互干渉)芸術にほかならないからである。――<「開館の辞」より>

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Posted by ブクログ

ネタバレ

1970年を間にはさんだ十年間というのは、東大安田講堂、三島事件を経て浅間山荘事件に至る熱い政治の季節でもあった。そんな時代を背に当時大学院受験に失敗した鹿島茂は、坂口安吾のいう「落魄」の思いを胸に、場末の映画館に通い詰めていたという。特別政治闘争に肩入れしていなくても、しだいに閉塞感を増しつつあった時代状況の中で自分の居場所を探しあぐね、映画館の暗闇の中をアジールにしていた若者は少なくなかったのではないだろうか。

当時の映画館にはどんな映画がかかっていたのだろう。量産した映画を系列館にかけるというシステムをとっていた邦画五社は、桁外れの制作費や宣伝費をかける洋画に押され、その力を失いつつあった。時代劇を得意としていた東映は任侠映画から実録路線に至るやくざ映画で食いつなぎ、アクションで売った日活は、制作費を切りつめたロマン・ポルノ路線でしのいでいた。鹿島茂が見つづけた当時のプログラム・ピクチャーというのは、ひとくちで言えばやくざ映画やロマン・ポルノであった。

月間何本の割合で量産される映画では、主役級の役者は交代するが、脇を固める役者は何度でも同じ顔が使い回しされる。そのうちに俳優の持つキャラクターと半ば固定化された役柄から第三の人格が生まれる、鹿島のいう「残像現象」である。主役の首はすげ替えることができても、この役はあの役者でないとという脇役ができてくる。そうした個性的な脇役役者ばかりを十二人揃えて、各々一人につき代表作を三本立てでヴァーチャル上演してみせようというのが『昭和脇役名画館』。ちょっと覗いてみたくなるではないか。

上映順に紹介しよう。荒木一郎、ジェリー藤尾、岸田森、佐々木高丸、伊藤雄之助、天知茂、吉澤健、三原葉子、川地民夫、芹明香、渡瀬恒彦、成田三樹夫という顔ぶれである。あとがきに、渡瀬恒彦以外は今の映画ファンにはなじみがないだろうと書かれているが、かなり渋い人選であることはまちがいない。しかし、鹿島氏の年代に少し遅れるものの、ほぼ同時代を生きてきた筆者にはピンク映画出身の吉澤健以外は見たことがある役者ばかりだ。

好みからいえば、まず成田三樹夫。工藤堅太郎を相棒に従えたTVドラマ『土曜日の虎』は毎週欠かさずチェックしたものだ。次に荒木一郎か。歌も好きだが、独特のキャラクターは他の役者にない個性があった。脇役というには重すぎるのが伊藤雄之助。『椿三十郎』の家老役をはじめ、ちょっと出ただけで他の役者を喰ってしまう存在感の強さでは群を抜く。佐々木高丸は、右翼の黒幕役で顔を売ってはいるが、フランス文学の翻訳者としても有名で、『赤と黒』などのスタンダール作品をはじめ、左翼活動の資金にと『ファニー・ヒル』のような軟文学も訳しているのは愛嬌。インターナショナルの日本語歌詞を書いたのも氏であるのは知る人ぞ知る事実。バリバリの左翼系役者が右翼の大物を演じるというところが皮肉である。

鹿島先生は新東宝映画のファンであり、グラマー女優に弱いことを告白しているが、残念なことに三原葉子という女優、年をとり太ってきてからの売り出し中の女優にからむ年増女役の記憶しかない。芹明香はよく知っている。ロマン・ポルノが映画賞に続々登場するようになってから見はじめたので、多くは見ていないが独特の乾いたエロスを感じさせる投げやりな役作りが印象的な女優であった。

お気に入りの役者がぴたりとはまった役どころを演じているのを語るのはファンにとっては何より楽しいものだが、さすがは鹿島茂、ただただファン心理に酔ってばかりはいない。見るべきところはしっかり見ている。先輩の裕次郎と比べて印象の薄い川地民夫のイメージについて論じているところなどがまさにそれだ。

長身のわりに童顔の裕次郎には肉体を持て余しているイメージがある。それを戦後のアッパー・ミドルに属する青年の「俺は今ここにいる俺ではない」という肥大した自我と現実の自分との遊離感、つまり「持て余し感」だと鹿島は喝破する。それが川地民夫には感じられない。自己実現の可能性以上に肥大しないローアー・ミドルの自我の「余りなし感」を川地は表現しているという、この指摘にはうなった。

とかく主役の陰で日の当たることの少ない脇役達にライトをあてる視点といい、量産の挙げく廃棄され、今では見ることもかなわなくなったフィルムに捧げるオマージュとしても、まことに時宜にかなった企画である。本を読んだ後は、ぜひ、ビデオやDVDで映画を愉しんでもらいたい。今の日本映画にはない、熱い息吹きのようなものが感じられるにちがいない。

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2013年03月12日

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