あらすじ
津田塾大学の礎を築き、日本における女子英語教育の先駆者である津田梅子は、アメリカ留学中に生物学を専攻し、将来を嘱望された優秀な研究者であったことはあまり知られていない。帰国後なぜ生物学者への道を歩まなかったのか、歩めなかったのか。科学とジェンダーの視点から梅子とその時代を描き出す。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
読みどころはブリンマー・カレッジ時代の津田梅子。彼女のほかの伝記と大きく違うのはこの点だ。
1891年、25歳のトーマス・H・モーガンは、ブリンマーに生物学の准教授として赴任した(彼は、その後ショウジョウバエや染色体地図の研究で偉業をなしとげ、1933年ノーベル生理学医学賞を受賞する)。それまで生物学の基礎を学んでいた梅子は、彼の指導のもとで卒業研究をおこなった。ふたりの共同研究(カエルの卵の軸定位についての発生学的研究)は、イギリスの学術誌Quarterly Journal of Microscopical Scienceに掲載された。ちなみに、梅子はモーガンの2歳年上だった。
多くの人が思うのは、もし梅子がアメリカに残って、研究の道に進んでいたら、おそらくは……。でも、アメリカに留まっていたら、津田塾は影も形もないことになる。日本にとって、とても大きな損失になっていたはずだ。
Posted by ブクログ
津田塾の創設者としての津田梅子であるが、津田塾の学生はもとより、女子教育あるいはジェンダーとしての女子の理科教育として卒論を書こうとしている学生もその歴史として読んだ方がいいと思われる。
膨大な参考文献であるが、それをすべて読む必要はなく、女子の理科教育の歴史、という観点で、すぐに読める。