あらすじ
科学の歴史は思考実験そのものだ。偉大な先人たちはどのように問題設定し、どのように解決したのかを知り、科学的思考力を養おう!
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Posted by ブクログ
意思決定の科学
さまざまな統計手法で計算して、効用を比較
というのが使いこなせると便利そう。(たぶん「迷い」が無くなる)
■9章 意思決定と思考実験
○意思決定の理論
平均値でみる → ラプラス基準
(確率は無差別に扱う
・期待効用(効用に確率の重み付け)→期待効用最大化原理
・いろんな統計手法の説明
ワルド基準、ハーヴィッツ基準、サヴェッジ基準(機会損失最小化)
・各基準での効用を比較
→ラプラス基準なら列a,ワルド基準ならbという具合、
● 統計的な意思決定方法
統計的意思決定理論
ラプラス基準の精度をより上げたもの
起こる可能性が高いので真剣に検討すべきこと
起こる可能性が低いのであまり重視すべきではないことを分けて考える
情報収集によりそれぞれの状態の生起確率の見積りを修正し、より精度を上げた確率を用いて、期待効用最大原理によって決める
確率の修正はベイズの定理を用いて行う。
=ベイズ更新
ラプラス基準で最初に確率を見積もるときは、意思決定者の漠然とした感覚による主観的なものでかまわない。
Posted by ブクログ
自然科学で「法則」とか「仮説」といわれるものは、どのようにして確立されるのでしょうか。いくつかの有名な方法があります。
(1)演繹法
法則の確立は、数学であれば「定理」の証明ということになります。定理とは、「公理」という基本的な、それ自身は証明されない大前提とされる命題から、論理的な推論によって真であることが「証明」されたものです。この推論は、われわれの世界において妥当な論理的規則にしたがっていれば、真なる仮定の下では必ず真になります。このような推論形式は「演繹法」と呼ばれます。
前提が真なら必ず真になるというのは、演繹法の大きな特徴です。しかし、それは反面、ある公理を決めたとたんに、その公理から証明されることはすべて決まってしまうということでもあります。ということは、神の目から見れば、何も新しい情報は得られないことになります。ここに演繹法の問題点があるといえます。
とはいえ、演繹法では何も新しいことがわからないのかといえば、そうではないと思います。原理的に解が存在することがわかっているだけでは、実際には何の役にも立ちません。演繹法によって解や定理がわかっているからこそ、それを利用して具体的な実験ができるのであり、自然の予測や制御ができるのです。それらは神ならぬ人間にとっては、新しい知識と言うべきでしょう。
演繹法では、公理を変えれば、証明できる命題も変わってきます。たとえば2次元の幾何学では、平行線公理をどうするかによって、ユークリッド幾何学、リーマン幾何学、ロバチェフスキー幾何学に分かれます。ユークリッド幾何学の第5公理「直線上にない一点を通ってただ一つの交わらない直線が必ず引ける」を、そのような直線は引けないとすると、リーマン幾何学が得られます。そのような直線はいくらでも引けるとすると、ロバチェフスキー幾何学が得られます。公理はどんなものでもかまわないわけではなくて、いわば、われわれに豊饒な世界を見せてくれるような公理系が選ばれるのです。実際には、物理学や確率論などに役立つかどうかということになるでしょう。
(2)帰納法
数学という純粋な理論からなる科学ではなく、物理学や社会科学などの経験科学の世界では、法則や原理は実際の世界の観察から得られる情報によって証明されます。それは「帰納法」と呼ばれます。帰納法は、有限の個々の観察事実を列挙して、そこから法則を導き出すやり方です。
たとえば、Aという条件の下でBという事象が生起する(A⇒B)ということをN回確認したとき、すなわち、
A1⇒B、A2⇒B…AN⇒B
であること(Aiはi回目の観察という意味です)を根拠に、すべてのAに対して
A⇒B
を結論することなのです。つまり、
有限個についての観察事実➡無限仔についての普遍法則
という推論を行うのです。あるいは、
過去にくり返し起こった➡そのことが未来にも起こる
ということでもあります。
有限の事実から無限の法則を導こうという帰納法は、いわば「離れ業」であり、必ずしも正しい結論を導くとはかぎりません。太陽は毎朝、東から昇っているという過去の観察事実から、明日も太陽は東から昇るであろうと主張するのは、(天変地異でも起こらないかぎり)問題ないでしょう。しかし、ヒヨコは毎朝、人間に餌をもらえている、という観察事実から、明日の朝もヒヨコは人間がやってくれば必ず餌をもらえるかといえば、期待薄です。なぜなら、人間はヒヨコを食べるために育てていて、十分に育った時点で食べてしまうつもりかもしれないからです。この場合、同じ「Aという条件」で観察しているかどうかも疑問があります。なぜならヒヨコは、自分では気づいていなくても、日々少しずつ、食用に適した鶏に変化しているからです。人間から見れば、じつは毎日、状態は変化していたわけです。これでは帰納法は成立しません。
このように帰納法は、世界をどれだけ正確に認識するかによって大きく左右され、必ずしも正しい知識を私たちに与えてくれるとはかぎりません。そこが帰納法の問題です。
でも、そのかわりに帰納法は、世界についての新しい知識を私たちに与えてくれます。ある出来事が繰り返し起こっているのは、実際には、一時的に環境がなんらかの状態にあるためだけなのかもしれません。私たちが気づかないわずかな変化があれば、同じようなことはもう起こらないかもしれないのです。
そのようなことを考えていくと、帰納法で法則や原理を証明するのは、いろいろと難しいことがわかるでしょう。帰納法が成り立つことは帰納法でしか証明できない、などとも言われます。
なお英語では演繹法を「ディダクション」、帰納法を「インダクション」といいます。「ダクション」には「導く」といった意味があり、「ディ」は「引き出す」、「イン」は「引き入れる」という意味を持つ接頭語です。ディダクション(演繹法)は、上位にある普遍的な概念から、下位の個別具体的な事象を「導き出す」推論であり、反対にインダクション(帰納法)は、下位にある個別具体的な事例を、上位の普遍的な概念へ「導き入れる」推論という違いがあるのです。
■「理想の方法」と言われた仮説演繹法
科学の代表的な推論として、演繹法と帰納法を紹介しましたが、演繹法には「新しいことを導きにくい」、帰納法には「つねに誤りの可能性をはらんでいる」という問題もありました。
そこで19世紀に、科学哲学者緒ウィリアム・ヒューエル(1794~1866)らによって新しい推論法が定式化されました。それは演繹法の推論と、帰納法の推論とを組み合わせたもので、「仮説演繹法」といいます。そうすることで、演繹法の「新しいことを導きにくい」という問題と、帰納法の「つねに誤りの可能性をはらんでいる」という問題を、ともに解消しているのです。仮説演繹法では次のように、まず仮説(法則の候補)を立ててから推論します。
(0)観察事実にもとづき、仮説を立てる(帰納法)
(1)その仮説から生起する現象を予測する(演繹法)
(2)その予測が観察事実と一致するか比べる
①一致➡仮説は十分に考察の対象となりうる
②不一致➡仮説が反証(否定)される➡仮説を修正するか、別の仮説を立てる
(0)は仮説演繹法の前段階です。個別の観察事例にもとづき、帰納法によって検証すべき仮説を立てます。さきほど述べたようにこれは「離れ業」ですから、やり方を合理的に分析することが難しいステップです。
(1)の、その仮説を最もよく検証できる予測を立てるところは演繹法です。そして(2)では、その演繹が検証されるわけです。(0)は「発見の論理」、(1)と(2)は「検証の論理」ともいわれています。
「正しさ」と「新しさ」を兼ね備えた仮説演繹法は、提案された当時、「理想の科学推論法」ともいわれました。
<中略>
■仮説の立て方を示すアブダクション
しかし、仮説演繹法にも問題があります。それは、肝心の仮説をどのように立てるかについては教えてくれないということです。そこで19世紀の論理学者チャールズ・サンダース・パース(1839~1914)が、新たな推論法を提唱します。英語では「アブダクション」、日本語では「仮説形成推論」と呼ばれるもので、文字通り、仮説をつくるための推論法です。
簡単にいえば、
個別事例:B
一般法則:AならばB
から、
個別事例Bの原因はAである
と推論するもので、これは一見、「AならばB」から「BならばA」を結論しているように見えます。このアブダクションが、演繹法(ディダクション)、帰納法(インダクション)に次ぐ「第3の推論法」ともいわれているのです(さきほどは、演繹法と帰納法を組み合わせた推論法として仮説演繹法を紹介しましたので、少し混乱されるかもしれませんが、仮説演繹法の進め方の(0)(1)(2)でいえば、(0)の、検証すべき仮説を発見する段階を受け持っているのがアブダクションです)。
それぞれの推論方法の形式をわかりやすくするために、それぞれを単純化した「三段論法」にしてみます。まず、演繹法の三段論法です。
アリストテレスは人間である
人間は死ぬ
だからアリストテレスは死ぬ
この推論は、
①原因(個別の条件):アリストテレスは人間である
②法則: 人間は死ぬ
③結果(個別の事実):アリストテレスは死ぬ
という三者が登場して、
①原因+②法則➡③結果
という組み合わせで推論する三段論法です。演繹法が導くこの結論は当然、妥当なものです。
三者の組み合わせ方は、ほかにもあります。そのうちの一つが帰納法です。
ソクラテスは死ぬ
アリストテレスは死ぬ
ナポレオンは死ぬ
……
という複数の結果と、
ソクラテスは人間である
アリストテレスは人間である
ナポレオンは人間である
……
という複数の原因から、
人間は死ぬ
という法則を導く推論です。すなわち、
複数の(③結果+①原因)➡②法則
という形の推論です。繰り返しますが、この帰納法の結論には例外がつきまといます。
そして三者の組み合わせには、もう一つのパターンがあります。
演繹法が、①原因+②法則➡③結果
帰納法が、③結果+①原因➡②法則
でしたから、残るもう一つは、
②法則+③結果➡①原因
となります。これが第3の推論法、アブダクション(仮説形成推論)です。
アリストテレスの例でいえば、
②人間は死ぬ(法則)
③アリストテレスは死ぬ(結果)
から、
①アリストテレスは人間である(原因)
という結論を導いているわけです。演繹法の推論が、原因(アリストテレスは人間である)から結果(アリストテレスは死ぬ)を導いているのとは逆方向になっています。いわば、結果(事実)から原因(条件)を推論しているのです。このようにして仮説を立てるのがアブアクションです。
しかしアブダクションで立てられた仮説は、必ずしも真ではありません。別の原因からでも同じ結論になる場合があるからです。たとえばアリストテレスが人間ではなく、そう名付けられた猫だったとしても、死ぬことには変わりありません。
<中略>
■アブダクションは「確率的」な推論である
こうしてみるとアブダクションは、単なる当てずっぽうかヤマ勘で仮説を提出しているだけの方法ともいえそうで、どうしてこれが第3の推論法と呼ばれるのか、疑問に思われるかもしれません。しかし、実際に私たちが推論を進めるときのことを考えてみると、アブダクションは俄然、違った色合いを見せてくるのです。
私たちが知っている科学法則の多くは、「AならばB」というかたちをとっています。これは「すべてのAなるものは必ずBという性質をもつ」ということです。言い換えると「あるものがAという性質をもつならば、それはBという性質を必ずもつ」となります。このような命題を、「全称命題」といいます。こうした法則は、ある何かにAという性質をもたせて、そのときにBという性質があるかどうかを確かめれば確認することができます。
しかし、私たちの身の回りに起こる現象は、そこまで厳密なものでしょうか。それよりもむしろ、「AならばBの可能性が高いが、AでなくてもBである可能性はある」といったものもたくさんあるのではないでしょうか。こうした日常生活にありがちな命題は、成立する可能性が高いかどうか、つまり確率が高いかどうかが問題となる「確率命題」としてとらえられます。ある事象が何度も観察されると、ほかのまだ知られていない同じ条件の対象にも、同じ現象が起こることが高い確率で期待できるというわけです。
この確率は、新しく証拠となる事象が発見されるたびに更新されます。証拠の発見によって確率が変化することは、確率論の「ベイズの定理」によって証明されるので「ベイズ更新」といいます。ベイズの定理とは、イギリスの牧師にして数学者のトーマス・ベイズ(1701~1761)が最初に提唱したとされる、結果(データ)から原因(仮説)の妥当性を推し量ることに関わる定理です。そして、原因である可能性の高い命題を確率的に選び出す推論を「ベイズ推論」といいます。ベイズ推論はやはり確率命題ですから間違う可能性もあるわけですが、近年ではビッグデータ、AI、機械学習などによって膨大な結果が分析されることで精度が上がり、巨大システムの故障箇所推定や画像推定などにも用いられるようになった推論形式です。そして、これはまさに、結果(事実)から原因(仮説)を確率的に推論するアブダクションにほかなりません。つまり、アブダクションとベイズ推論は、基本的には同じものなのです。
結果Bを知ったときに、その原因がA1、A2、A3、…、ANのどれである確率が高いか、それぞれの仮説の確立をどう見積もるかは、研究者の直感、もしくは主観的な信念のようなものの度合いによります。確率が十分に大きいと見なされれば、その仮説は検討に値することになります。
Bという驚くべき現象を観察したとき、それを説明する手がかりが何もないとしても、もしAという仮説が成り立っていればBが成り立ちそうです、Bという現象の不思議さが大幅に低減されるならば、Aは本当に成り立っているのかもしれません。
これがアブダクションの考え方です。仮説の候補を立てるとき、このような考え方は検討されてよいものでしょう。さきほどのホームズの『緋色の研究』のように、推論のどの段階にも誤りである可能性はつきまとっています。まさに確率の綱渡りです。しかし、まちがっているかもしれないけれど、とにかく仮説を立てれば、仮説演繹法によってそれを検証し、反証されればまた新たな仮説を立てていけばよいのです。何もやらないよりははるかにましでしょう。
ポパーは「反証主義」を唱えたことで知られています。人間には、ある法則があると、それを弁護して確証する事例を探したがる傾向があり(第2章で述べた確証バイアス)、法則を確証する事例はどんどん増えていくが、いくらそうした確証事例を集めても、例外が存在する可能性はゼロにはならない。それに対して、法則にあてはまらない反証事例は、ひとつでもあればその法則を否定することができる。確証はきりがなく、反証は一発ですむ。したがって確証しかない命題は科学的とはいえず、本当に科学的な法則は反証可能性をもつものではなくてはならない。これがポパーの反証主義です。彼が弁護的用法の思考実験に厳しいのも、このような考え方からでしょう。
検証のプロセスである仮説演繹法を行う前提となる、原理や法則を「発見」するプロセスは、経験・観察にもとづく直感や、アブダクション類推によると第1章で述べました。そのような直感的な発見を、もう少し論理的に整理された形で確かめるのが発見的用法です。
別々のものとして認識されている事柄に、直感的に共通性を感じとったとき、それを本質的な同一性にまで高めるためのものといえます。突拍子もないかもしれない思いつきが降りてきたら、それを理論化するために、うまくいくかどうか思考実験でためしにやってみるのです。
前の章で述べた、アインシュタインの「重力場の中で自由落下するエレベーター」「無重力空間で加速されるエレベーター」の思考実験は、この典型例でしょう。ただし、この「発見タイプ」はほかのタイプの思考実験の前段階であり、やや趣きが異なりますので、本書ではこれ以上は紹介しないことにします。
われわれがなじんでいる論理は「ブール論理」というアリストテレス以来の古典的な論理で、排中律、分配律、矛盾律など、「合理的」な人間なら誰でも同意するであろうことが含まれています。しかし論理とは、ある論理だけが正しいというわけではなく、いろいろとありえてよいものです。実際にインドの哲学、仏教の世界観、ライプニッツの力学……などがあり、量子力学の論理もその一つなのです。それは「直相補モジュラー論理」とも呼ばれます。
簡単にいえば、西欧近代科学の世界観は、物事を線形に、時間の流れに沿って順次あらわれる因果の連鎖としてとらえる「ロゴス」の感性で成り立っています。頭の中で言葉によって行われる思考も、そうなっています。ところが量子力学の論理は、なにかネットワーク的で、部分に全体が含まれているような、時間順序によらない同時的な世界観でできているのです。ブール論理に慣れた人間からするとまったく違う次元の世界であり、理解に困難を感じて当然です。
ここで、なぜ量子力学では実際に実験ができないミクロの対象のふるまいを相手にするので、思考実験で考えざるをえなかった、ということがあるでしょう(ただし20世紀の終わり頃からは、実際の実験で確認できることも多くなってきてはいます)。
しかし、そうした消極的な理由ではなく、もっと大切な観点があります。
思考実験とは何より、論理による演繹の連鎖によって行う営みです。相手がなにものであれ、そのことに変わりはありません。ならば、これまで用いてきた古典力学的な思考の枠組みで、どこまで新しい謎の世界観に迫ることができるのか、そんな企みをはらみながら、思考実験のアリーナで量子力学と対峙し、形勢によっては登場する役者を取り替えたり、ルールを変更したり、極限状態を設定したりと戦い方を自由自在に変化させて、はたしてこの新力学が何であるか、あたりをつけてきたのです。
21世紀直前まで生きたポパーは、量子力学に関する思考実験は弁護的用法が多いといい、しかもそれらのほとんどに疵があると指摘したわけですが、しかし、このように量子力学が成立した20世紀初頭に物理学者たちが直面した状況を考えてみると、その思考実験をどのような文脈で見るべきか、提出者はどのような目的だったのだ、それをどのような立場の誰が見たのかは、本当にさまざまなことが考えられるように思うのです。