あらすじ
“最後の文士”として昭和という時代を見つめ続けた著者の戦時中の記録。昭和二十年の元日から大晦日までを収録。
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Posted by ブクログ
山田風太郎の戦中日記を読んだときは、その旺盛な食い意地に笑ってしまった。
何しろ若かったから、食べることだけが楽しみだというその文章に、実に説得力があったのだ。
けれどこの日記を書いたとき、高見順は39歳。
それなりの大人なのである。
鎌倉に住みながら、仕事のためにしょっちゅう東京に出てきては、戦時下の東京を記録する。
灯火管制の下、配給品以外(つまり闇)の酒を飲むために店を探し、伝手を手繰る。
かと思えば、芝居小屋や映画館に並ぶ人々の様子が描かれる。
死ぬか生きるかの瀬戸際でも、人は楽しみを求めるのだなあということがわかる。
文学報国会に属し、従軍記者として記事を書いたこともある高見順は、しかし決して戦争を賛美してはいない。
日本の主張をどうして他国は理解してくれようとしないのか?
日本はもっとやれるはずじゃなかったのか?
マスコミの煽りのひどさに国民はとっくに冷め切っているのだから、マスコミももっと正直な記事を書かねばならないのではないか。
作家というよりは、一般の国民としての感想であろう。
そもそもなぜ文学報国会なるものに参加しているのかというと、参加しないと『執筆禁止』とされてしまうかもしれないから。
書くことの自由はそこにはない。
だから活動が嫌で嫌で、毎回しぶしぶ会合に出ていくのである。
作家としての自分に対するプライドが高く、例えば鎌倉在住の作家たちで貸本屋を設立した時、「番頭役」を受け持つのだけど、作家から番頭に成り下がったと愚痴る。
奉仕作業の役に立てない非力な自分を自覚しつつ、決して自分はルンペンではない作家なのだと言い募る。
東京が空襲で焼け野原になり、本土決戦が行われるとしたら鎌倉も危ないのではないかと心配する。
しかしお金がないから疎開ができない。
金持ちはいつもいい目を見て、庶民はいつも何もできないと愚痴る。
身体は一人の国民としてそこにあるのに、意識はいつも一段上にいてイライラしているような、そんな文章。(中二病?)
沖縄に出兵して亡くなった友人を偲ぶけれど、住んでいた場所が戦場になった沖縄の人について思いをいたすことはない。
本土決戦に心配をするだけだ。
敗戦にあたって、日本人が中国で現地の人たちにしたことを考えると、どれだけひどいことを進駐軍にされるかと怯えていたが、ふたを開けたら、日本政府が自国民から奪った数々の自由と権利を進駐軍が日本人に返してくれたことに感謝をしてる。
”南樺太、千島がソ連に取られる。それはいい。それは仕方ない”
本州に住む人の、これは本音なんだろうなあと思う。
樺太の、真岡郵便局の電話交換手の少女たちが、迫りくるソ連兵に怯えながらも職務を遂行し、最後まで任務を遂行した後自決した、なんて事実は現代どころか当時も全然ニュースになってはいなかったんだという衝撃。
自分たちが行ってしまったことの大きな過ちを、被害を書きながら、反省の弁はほとんどない。
あまりに正直に書かれた日記であるがゆえに、読んでいて非常にイライラした。
Posted by ブクログ
-2007.09.07記
昭和20年の1月1日から終戦の詔勅を経て12月31日までの、中村真一郎に「書き魔」とまで言わしめた文人の戦時下の日々を執拗なまでに書き続けた日記。
おもしろかった。敗戦間近の極限に追いつめられた日本とその国民の様子がきわめて克明に記述されている点、また敗戦後のマッカーサー進駐軍占領下の人々の様子においても然り、具体的な事実の積み重ねに文人としての自らの煩悶と焦慮が重ね合わされ、興味尽きないものがある。
高見順は戦中転向派の一人である。
明治40-1907年生れ、父は当時の福井県知事阪本釤之助だが、非嫡出子いわゆる私生児である。
1歳で母と上京、実父とは一度も会わないまま東京麻生において育ったという。
東大英文科の卒業だが、在学時より「左翼芸術」などに投稿、プロレタリア文学の一翼を担う作家として活動をしていたが、昭和7-1932年、治安維持法違反の嫌疑で検挙され投獄され、獄中「転向」を表明し、半年後に釈放されている。
一旦、転向表明をしてしまった者に対し、軍部は呵責のない徴用を課する。
昭和17-1942年のほぼ1年間、ビルマに陸軍報道班員として滞在、さらには昭和19-1944年6月からの半年、同じく報道班員として中国へ赴いている。
ビルマの徴用を終え帰国してまもなく、東京の大森から鎌倉の大船へと居を移した。鎌倉には大正の頃から多くの文人たちが住まいした。芥川龍之介、有島生馬、里見弴、大佛次郎など。昭和に入ると、久米正雄をはじめ、小林秀雄、林房雄、川端康成、中山義秀などが続々と住みついていたから、遅ればせながら鎌倉文士たちへの仲間入りという格好である。
この鎌倉文士たちが集って貸本屋開設の運びとなる。
多くの蔵書が空襲で無為に帰しても意味がないし、原稿執筆の収入も逼迫してきた事情もあっての企図であった。
高見は番頭格として準備から運営にと東奔西走、5月1日無事「鎌倉文庫」は開店した。
この日100名余りの人々が保証金と借料を添え、思い思いの書を借り出していく盛況ぶりであったという。
この鎌倉文庫は終戦後まもなく出版へと事業を拡張させ法人化され、文芸雑誌「人間」や「婦人文庫」「文藝往来」などを創刊していく。
8月6日、広島に原爆投下。
新聞やラジオはこの事実をまったく伝えない。だが人の口に戸は立てられぬ。翌7日、高見は文学報告会の所用で東京へ出向いたが、その帰りの新橋駅で偶々義兄に会い、原子爆弾による被災情報を得る。「広島の全人口の三分の一がやられた」と。
それから15日の終戦詔勅まで、人々は決して公には原爆のことなど言挙げしない。貝のように閉ざしたまま黙して語らず。
すでに人々の諦観は行きつくところまでいってしまっているのだろう。無表情の絶望がつづく。