あらすじ
国と国、言葉と言葉の〈間〉を旅する作家がたどりついた、世界の臨界点。記憶と言葉が響きあう越境文学の達成。
アメリカを捨て日本に移り住んだ作家は、故国に残した母の死を抱えて中国の最果て、チベット高原へと赴く。
一千年の祈りの地でたどる、死と再生の旅。
30年前から日本に暮らすアメリカ国籍の「かれ」は、故国の母の死を受けいれられぬまま、漢民族の友人とともにチベット高原を旅する。「世界の屋上」と呼ばれるその土地は、一千年来、ひたすら生と死に思いをめぐらせてきた人々の文化が息づく場所だった。異質な言葉との出会いを通して、死と再生の旅を描く読売文学賞作家の最新連作小説。
・収録作「西の蔵の声」評より――
「喪失の痛みからの回復をこうやって異質な言葉との出会いを通して描くことができるというのは、ほんとにすごい。リービさんの名人芸」松浦理英子氏(群像2019年3月号創作合評)
「エクソフォニーをさまよい続ける作者の、母の死との対峙と開眼の瞬間が描かれている小説であり、非常に感銘を受けた」鴻巣友季子氏(同上)
「言語だけを携えて、作者は世界に立ち向かっていく。この作品は一人の人間の中に沸き起こる複数の言語と文化、過去と現在の共振として読まれるべきように思う」
――磯﨑憲一郎氏(朝日新聞2019年1月30日文芸時評)
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
母の死、母の不在に胸を痛めながら、友人の車ブルーバードでチベットの寺や高原を走る、筆者と思しき「かれ」の話。マニ車やタルチョ、オムマニペメフムの真言など、去年行ったネパールで出会ったチベット仏教の風景が重なった。五体投地しながら這うように進む修行者も朱色の法衣の僧侶も、きっとネパールと似たような風景なんだろう。チベットの聖地ラーサは、神ラーの土地という意味なのか。
チベットの風景には墓がない。生者が死者をおぶって山の上で鳥葬にする。その山道を、あの世とこの世を結ぶ天路と見た筆者だけれど、彼のチベットの旅全てが母の追想であり追悼であり、母の不在を前に私はどうすればいいのか、という問いかけの旅でもある。寺で出会った活仏(リンポーチェ)にそれを片言のチベット語と漢語で問いかけるシーンはクライマックスだと思う。活仏はそんなかれを哀れむように見て、翌日の祈禱で母の名を呼ぶよう手配してくれる、それはすごく労りに満ちていて慈愛だなと思うけど、かれはそれでも問いへの答えを得たとは思っていなくて、「私はどうすればいいのか」を問い続ける。その問いには仏も答えることができない、のか、答えないことが答えなのか。活仏は仏が人間に生まれ変わった姿だというが、前世の活仏の老人の姿と生まれ変わった活仏である子供の姿とが連なっている写真は、生と死が連綿と繋がっているようで、輪廻転生を思わされた。オムマニペメフムは一番簡単な真言で、蓮華の中に入った宝石、らしい。生の始まり。原始的。