横手慎二のレビュー一覧
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日露戦争
日本が帝国主義に傾倒する1つのきっかけとして、良く認知されている日本国史上有名な戦争の1つ。
秋山好古の騎兵隊。
秋山真之の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
東郷平八郎のバルチック艦隊の撃破。
乃木希典による203高地の攻略。
戦争としては多くの戦役があり、有名な人物、言葉が飛び交うが、日露戦争の裏側、ロシア側の動き、日本の外交、諸外国の動きは、恥ずかしながら、知識が乏しかった。
ウィッテの失脚から始まる日露戦争開戦の動きや、軍部が外交に全く関与出来なかったなど、知らなかった事や、後の大戦とは大きく違う部分を知った。
この時代になると、世界史、日本史ともに学習しないと全然ダメだなって感じた。
さぁ、がんばろうか。 -
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ネタバレ日露戦争に至った時代背景、開戦、そして終戦までの流れをまとめた本。七章だが、戦術的な点は五章、六章と少な目。それよりも時代背景やこの戦争がどういった位置づけだったのかなどが纏められている。少し残念なのはこの戦争が終わった後、両国がどうなったのかについての記載まとめが最後少ない点だろうか。バランスとしては非常によくまとまっていたというのが正直な感想
●メモ
・植民地戦争
いわゆる白人が非白人の国を植民地化する戦争。アメリカ兵は母国の家族にフィリピン人の「知的文化的後進制」を繰り返し言及したほど。
・イギリスとの同盟
基本的に日本はアジアの小国であり侵略対象だが、ヨーロッパの微妙なパワーバランスによってイギリスと同盟が組めた。だが、この同盟条件は極めて限定的で、第三国が参加してきた場合のみ支援する、というものだった。
・シベリア鉄道
1891年から建設開始。これによりロシアが遠距離への出兵が容易になる点を日本は早期から懸念していた。戦争を早々に開始した、一つの要因ともいえる
・朝鮮半島の重要性
この本を読むと朝鮮戦略が単なる領土拡大ではないことが良く分かる。ここを拠点としなければロシアとの戦争に勝つことはできなかっただろう。国を守るために、他国を侵略するという矛盾。
・交渉決裂
日本は交渉と考えたが、ロシアは日本からの要請として考えたのではないか。これはロシアが圧倒的国力を保持しているため、日本は妥協するしかないと考えていた思いこみだった。だが、ここで妥協しては侵略されるのみしかないと考えていた日本は、交渉を続けながらも平行して戦争の準備を進める
・開戦
印象的なのは日本の奇襲だ。交渉断絶の通知をしたとはいえ、卑怯ではないかというロシアの意見は実に最もだが、当時の国際法では違法ではなかったそうだ。この発想がペルシャ湾に繋がるのか、とも考えてみたり。。
・終戦
豪胆な子供が挑んだ巨人への戦いは、巨人のダメージのほうが大きく、それが結果的にロシア国内での不満増加など国内の混乱も呼んでいく。最終的に制海権を奪えなかったロシアは日本を降伏させる手段を失い、アメリカのルーズベルト大統領の斡旋により講和。だが圧倒雨滴国力のロシアは「講和条件次第では戦争継続」という姿勢。
日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金の獲得ができなかった。そのため、条約締結直後には、戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって日比谷焼打事件などの暴動が起こった。 -
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スターリンという人物ほど評価の分かれる人はいない。しかも、ソビエト連邦を率いた独裁者だけあって経歴の謎の部分が多い。
本書はスターリン関係の研究や書物を幅広く取り上げ、スターリンの経歴や評価について紹介されている。
読んでて、スターリンの人生の中でのポイントと思われるのは、まずはグルジアに生まれた育ったこと。いわゆる「ソソ」の時代。そしてカフカース地域で生きたことで民族問題に取り分け関心があったこと(これが現在のロシア民族問題につながっていく)。幼少期の家庭環境や神学校時代に馴染めなかったことなど様々な事象がある。
次に神学校から退校処分後の「コーバ」の時代。社会革命に共鳴し、地下活動を開始。1903年にはロシア社会民主労働党ポリシェヴィキに属し、潜伏活動。捕まればシベリア流刑という死と隣り合わせの時期である。この時期にスターリンの疑り深い人格が形成されていく。
この時期に出会ったレーニンの影響も計り知れない。レーニンの「赤テロル」など強硬な手法は後のスターリンにも引き継がれていく。
ロシア革命後の政争、カーメネフ、ジノヴィエフとの争い。トロツキーとの争い。この時期になるとスターリンのしたたかさが滲み出てくる。
1928年より、スターリンの否定的評価の土台となる数度の「5ヵ年計画」が実行される。当時はイギリスとの関係も悪化しており(後に対ドイツで協調に転換)、目下の課題は工業力であり軍事力であった。
工業力を高めるためには資本を工業分野に投入する必要がある。そのためスターリンは農民の中でも富裕と見なした者から膨大な税を課し、その他農民からも搾取した。この施策により、死者数は数百万とも数千万人とも言われている膨大な人数であり定かではない。
さらに1930年代以降は粛清の嵐である。三人法廷(トロイカ)を設け、ジノヴィエフやカーメネフ、トゥハチェフスキーらが処刑されていく。さらにキーロフやトロツキーの暗殺などもある。
そして第二次世界大戦では例えば1939年フィンランド戦争、1941年から始まったドイツのソ連侵攻の際の攻防戦では、大人数の軍隊の突撃戦を繰り返して膨大な死者を出している。これは1939年ノモンハン事件の際にソ連軍死者数は日本軍死者数の約10倍という数からも無謀な作戦であるということが分かるだろう。
ただし、結果的にスターリンは第二次世界大戦の勝者となり、戦後すぐもアメリカとの協調関係は維持する必要性も理解していたらしい。この点は政治家スターリンの凄さと言えよう。
そういう意味では戦後の医師団事件やメグレル事件などのでっちあげ事件はスターリンの晩年ということもあり、耄碌した末に起こしたのかもしれない。
上記に書き連ねたようにスターリンの歴史を紐解くと人間スターリンが垣間見えると同時に、スターリンの功罪も少し見えてくる。この功罪を今後どう評価していくかが課題となるのだろう。 -
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スターリンを再検証する一冊。特にソ連後のロシアでの評価が興味深い。国内と外国とでこれだけ評価が分かれる人物ってすごい。
歴史で語られる、つまり著者が言うところの一般のスターリンに対する評価以上のものは持っていなかった。
なぜスターリンが集団農場化を進めたのか、大虐殺はどんな文脈のうえにあったのかがよく分かる。非道としか言いようがない。でもどんな革命もテロ無しには存在しない。フランス革命も相当なものだったわけだけど、歴史は敗者が語るものではないからね。
第二次世界大戦の最大の勝者はスターリンなんだと思う。人道的側面に目を瞑れば、やっぱり凄い人物だったとしか言いようがない。 -
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スターリンが「非道の独裁者」であったことは確かだが、むしろ彼はレーニンの赤色テロに学んでいる。1990年代以降の解禁文書で明らかになったレーニンによる戦慄すべき指示が、そのことを示している。
さらに言えば、当時のロシアの経済状態や、干渉戦争・侵略戦争にさらされるという強い留保が必要だとはいえ、国家権力を奪取して「プロレタリア独裁」を通じて社会主義革命をおこし、革命プロセスを遂行するということは、こうした暴力によらざるをえないのではないか、ということになってしまうのではないか。
とすると、国家権力の奪取によって社会主義革命を成し遂げるということそれ自体に、「スターリン」がすでに内在していたのではないか。逆に言えば、「スターリン」を出現させないような社会主義革命がもし可能だとすれば、それはどのような道によるのか。そうした問いが立てられるのではないか。
旧左翼が言うように、「別の道」は本当にありえたのだろうか。 -
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ネタバレスターリンとか独裁者はイメージがつけやすいから、みんな知ったような気になっている。とりあえず悪党。でもロシアでは偉大な人でもある。こういう人物こそきちんと知っておかなければいけない。
大事なのは、なぜ悪いのか。なぜ悪いことをしなければならなかったのか。冷静に知識を得ること。
この本は広く浅くスターリンを知る本である。そしてスターリン寄りのところもある。各歴史的事件についてウィキペディアを見ながら読むといい。
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p14 父の暴力、母の愛
スターリン(ソソ)は幼少期に酒飲みの父に母子ともに暴力を振るわれたと言われる。それ故に優しくしてくれた母への愛と英雄思想が生まれたという研究もある。しかし、当時のロシアでそういう家庭は珍しいものではなかっただろうから、それが決定的とは言えないから注意されたい。
p27 スターリンの性格
スターリンの性格を幼少期から検討しているものは、独裁者としての彼のイメージに合致する資料を用意してきているように思える。詩才などをみても、幼いころからそんなに暴力的だとは判断できないと思われ。
むしろ、学業も優秀で、詩の才能もあり、家族を愛する手紙など、多彩な才能の持ち主であったことだけはわかる。
p33 クリミア戦争
クリミア戦争で英仏に敗北したロシアはヨーロッパでの後進性が露呈した。アレクサンドル2世は近代化政策をとり、農奴解放などを実施した。当時の知的エリートはクリミア戦争での敗北をきっかけにヨーロッパの先進的思想に強い興味を抱き始めた。社会主義や無政府主義など新しい社会にあこがれ、それを獲得するには革命が必要であるという考えに至った。クリミア戦争が大事な契機である。
p56 スターリンの若かりし頃
スターリンの若き日々は革命の実行部隊だった。社会主義の勉強は浅かったようで、漠然とした革命的ロマンティシズムに没頭する男だった。若いころから功名心や支配欲に囚われた腹黒い人間というよりは、もっと単純な人間だったようである。
p59 スターリンと十月革命
ボリシェビキが権力を集めた1917年十月革命。この時スターリンはボリシェビキの古参の党員として頭角を現し始めた。それまでは理論よりも実行力を重視する革命家だったが、1903年シベリア流刑から徐々に経験に基づく革命思想を持ち始めたようである。
p90 スターリンの論文(民族自決について)
スターリンは民族自決についての論文を書いており、ロシアに多数散在する少数民族の自決権を社会主義は擁護すると述べている。この主張がロシア共産党のその後の少数民族からの指示につながった。
p92 スターリンとレーニンの考えの違い
レーニンはヨーロッパの先進的社会主義をロシアでも実現させることを考えていた。理論重視だった。
スターリンは理論よりも現実の社会主義革命の達成を優先していた。革命が達成すればスムーズに社会主義への移行が始まると単純に考えていたようである。この点、小難しい理論派よりも活動的なスターリンの方が民衆にとって身近で理解しやすい存在であったようである。
p144 組織腐敗のしくみ
ロシア共産党の人事制度に「ノーメンクラトゥーラ制」というものがあった。建前上階級の存在しないソ連では政治の要職に就くものを名簿(nomenclatura)に登録し、そこから順次割り当てるという制度にした。その結果、その名簿に載って要職に就くのは共産党に忠誠を尽くす者のみになり、共産党の一党独裁は完成した。これは1923年から始められ、早い時期から共産党の支配が可能な仕組みができていたのである。
「スターリン詣で」という役職斡旋のご機嫌伺いもあった。
p187 スターリンの権力欲
1932年の段階で、第二次大戦を乗り切るにはロシアに急進的工業化が必要であるとスターリンは政策を強行した。都市化の進行と輸出のため厳しい穀物調達を実行し、ウクライナなどでは飢餓も発生した。この政策に対抗し、党を除名されたり逮捕された者が多数出た。
この時のスターリンの権力欲は、彼自身が折れたら政策が水の泡になり結局ロシアの破滅しか待っていないという強い義務感にも支えられていたのだろう。それほど権力に縛られていたのである。
p203 粛清の責任
1936~38年の間に政治犯として134万人がとらえられ、68万人もの人が処刑された。当時の政治犯は党への抵抗者だけでなく、政策事業の失敗者も破壊工作者として責任を負わされたり、スパイ嫌疑をかけられた当上層部の妻や愛人、聖職者など党の方針に従がえない者、スパイ嫌疑のあるドイツや日本に近い異民族の人々など幅広かった。これはスターリンによる手が下されただけでなく、地方官の責任転嫁の犠牲や政治闘争の謀略などもあり、厳しい規則の負の側面の暴走という側面もある。スターリンの持つ政治目標を達成するための強すぎる意思が、いつのまにか正義の感覚をマヒさせた。それ故に「大粛清」は起きてしまったといえる。粛清の原因はスターリンの人格だけで片づけられるものではない。
p226 スターリン背水の陣
1942年のドイツ戦線で敗北を重ね、スターリングラードや南カフカスが危機的状況になったスターリンは、軍に厳しい指令を発した。戦時に戦地撤退など弱気を見せた士官を集めた部隊を被懲罰部隊として激戦地の前線に配置し、さらに士気の上がらない師団の背後に特別阻止部隊を置き、逃げ出すものは打ち殺すという恐怖指令を出した。大戦力をつぎ込んで戦果をあげられないソ連軍に背水の陣をしかせた。
p227 スターリンの厳格さ
スターリンの最初の妻との息子が1941年にドイツ軍の捕虜になった。ドイツはそれを利用したがスターリンは息子を特別扱いすることなく、息子ヤコフは捕虜収容所で亡くなった。「ヤコフはどんな死でも母国の裏切りよりも望んでいる。」スターリンは母の死に目に会うことなく、自分の政務を優先している。それほど党首として厳格な意識で職務についていた。
p228 戦術と戦略の区別
スターリンはあくまで実務的な人間で、戦地での戦術と戦略の区別を持っており、きちんと戦術は指揮官に任せ、自分は政治的戦略に注力した。士官への信賞必罰の態度をきちんと持っていて、実に冷静であった。
p239 ドイツ分割への懸念
第二次大戦後のスターリンの懸念は米ソ対立になかった。そもそも資本主義の発展版が社会主義という理念だから、あんなに過激な冷戦になるとは予想しなかった。それよりも、ドイツや日本が復讐戦を始めることの方を危惧していた。ナポレオン戦争で分割されたドイツはその時から愛国主義者が力を持ち始めて、のちの普仏戦争での強さを見せた。その再現を防ぐため、ドイツの分割は繊細に扱うべきだと考え提案していた。冷静な指導者である。
p248 ギリシアへの内政干渉
スターリンは戦後に米ソで対立する気はなかった。それほどの余力が残っていなかった。しかし1946年のギリシア内戦でソ連がギリシアの共産政府を支援すると米英はトルーマン・ドクトリンを発してそれに対抗してきた。ソ連はその支援がギリシアへの内政干渉にまでなるとは考えていなかった。米英とむきに争うほどギリシア情勢はソ連にとって重要ではなかった。ソ連はギリシアへの支援を中止し、ギリシアは民主主義国として独立したが、スターリンは米英のソ連への姿勢を疑うようになった。
p250 マーシャルプラン
スターリンが米国と覇を争う意志を持ったのはこの政策が出されたから。マーシャルプランは、戦後のアメリカの経済調整策(モノ余りを輸出する)の側面と民主主義勢の拡張という対外政策の側面がある。
ソ連も戦後の疲弊はひどく、マーシャルプランの援助は受けたかったが、対抗者の施しを受けるのは共産主義の指導的立場として憚られた。スターリンはこれをもってアメリカがソ連の弱体化を狙っていると確信した。これに対抗してコミンフォルムを作った。
p267 朝鮮戦争
ソ連は朝鮮戦争に積極的に加担しなかった。米ソの軋轢を深めることをしたくなかった。支援部隊も中国軍に偽装し、表立たないようにした。
p277 スターリン欠乏症
ソ連国民はスターリンの死に涙した。ソ連を偉大な力で牽引してきた指導者の死は、人々をある種の不安に陥れた。
たしかに酷いこともあったが、スターリンがいなければソ連が自壊していたかもしれない。彼に頼っていたところも多分にあった。拠り所を失ったとき、人は自然と感情的になる。
スターリンにより人生が狂ったものもいる。しかし、その者も彼の死に涙した。自分の人生を解雇して泣いたのか、将来への光が見えて泣いたのか、いずれにせよスターリンの存在の大きさを物語る。
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スターリン寄りの本だった。しかし、それだけのものがあった。
スターリンはイヴァン雷帝かピョートル大帝か。毛沢東かポルポトか、それともナポレオンなのだろうか。
しかし、スターリンはやはり時代が生んだ巨大な指導者だったと思う。月並み。 -
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―第0次世界大戦は如何にして起きたか
日露戦争の歴史的意義や当時の国際政治の背景について述べた本。特に戦争に至る経緯についてはかなり詳細に筆を割いている。日本側はともかく、ロシア側はかなり重臣間の見解の不一致が深刻だったことがわかった。
さて、当書を通じて参考になったポイントを4点に絞って述べてみよう。
1.三国干渉
ロシアが三国干渉を行った背景としては、蔵相・ウィッテの影響が大きい。彼は皇帝専制下での国力増強を図り、シベリア鉄道建設を推進していたが、日清戦争での日本の予期せぬ勝利から、日本の膨脹を警戒し始めた。そこでドイツやフランスを巻き込んで日本を圧迫、遼東半島を清に返還させ、その見返りとして旅順・大連など関東州の租借権を獲得。東清鉄道や旅順軍港の建設といった政策に着手する。
一方で満洲ではロシア人の増加に反発した清人が破壊活動を始める。これに対してロシアは軍を奉天省に進出、駐留させたが、日本やイギリスの不安を増大させる結果となった。
2.日英同盟
19世紀においてイギリスは孤立主義(いわゆる「栄光ある孤立」)を掲げていたが、日英同盟の締結はなぜ円滑に進んだか。それについては、日本とイギリスがロシアの南下を警戒するという見解で一致したため、というのが通説である。が、著者はこれに加えて2つの要因を挙げる。
1つ目は満蒙交換論を持説とする対露協調派の重鎮である伊藤博文が国外にあったのに対し、ロシアとの戦争は免れ得ないとする山縣有朋が条約を支持した点。
2つ目は内容の限定性。即ち、両国の一方がロシアと交戦したことで、第三国がロシア側について攻撃された場合のみ直接軍を派遣するという内容である。当時イギリスは露仏同盟を控えていたため、日本につくかロシアにつくかで揺れていたが、この限定的な内容のために、日本につくことを決めたという。さすが三枚舌外交でパレスチナ問題の火種を作った国なだけはある。
3.開戦
その後、日露両国は朝鮮半島や満洲の権益を巡って交渉を重ねるが、互いに譲らなかったため、日本には戦争のみが有効な打開策となっていた。開戦すると、日本は陸軍の黒木為楨大将らや海軍の東郷平八郎大将らが朝鮮半島と制海権の確保により先制、ロシアは鉄道の輸送能力の不足と総司令官アレクセーエフと満洲軍司令官クロパトキンの不和により混乱していた。
その後は旅順攻囲戦や奉天会戦などの消耗戦が続き、1905年9月、アメリカの仲介によりポーツマス講和条約を結ぶことになった。戦争の経過について、本書ではさらに詳細な内容に触れているが、ここでは省略。
4.日露戦争とは
ここでは本書の内容を概観している著者の見解を引用する。
以上に見てきたように、日露戦争はその規模においても、また用兵のレベルでも、利用された兵器のレベルからしても、さらには長期戦を支える前線と銃後の密接な関係からしても、この時期に頻繁に起こった植民地戦争とはまったく異なるものであった。ひとことでいえば、戦争は普仏戦争以来三〇年以上も存在しなかった大国と大国の戦争だったのである。ここには、塹壕戦と機関銃の組み合わせ、情報と宣伝の利用能力、制海権の確保に関わる陸軍と海軍の連携など、ヨーロッパ諸国が第一次大戦で学ぶ戦争技術のほとんどが、明瞭に、もしくは萌芽の形で現れていた。ロシアは、日本を基本的に植民地レベルの国家とみなしていたために、厳しい試練を味わったのである。(同書194頁)
この他、後世への影響としては、日本での日比谷焼打ち事件や藩閥政治批判による政党政治を志向する世論の形成、ロシアでの国会開設(地主の1票が労働者の45票に相当するなど、極めて不平等な選挙によるものだが)などが挙げられる。もちろん、第一次大戦の陣営が日露戦争の時点でほぼ決定的になったことも忘れてはならない。そういう意味で日露戦争は「第0次世界大戦」と呼ぶこともできる。
全体として。あまり一つの戦争に注目して本を読んだことはなかったので、骨は折れたが勉強にはなった。あと、賛否両論はあるけど司馬遼太郎『坂の上の雲』も読んでおきたいところ。 -
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ネタバレ[ 内容 ]
日露戦争は、日本とロシアにとってはそれぞれにきわめて影響の大きい戦争であったが、客観的になかなか評価が確定していない。
戦後一〇〇年にあたり、その地球規模での意味に言及する試みがなされているが、本書は、ロシア近現代史の視点も含めて、戦争の背景・経過・影響を通覧しようとするものである。
双方の認識に極端な差があったことが、戦争の帰趨にどのように影響を及ぼしたかを明瞭に伝える。
[ 目次 ]
序章 世紀転換期の世界
第1章 世紀転換期の日本とロシア
第2章 戦争の地理学
第3章 政事と軍事
第4章 戦争への道程
第5章 開戦
第6章 陸と海の絆
第7章 終局
終章 近い未来と遠い未来
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
全9章、200ページ。
戦史として本書を読むと失望するだろう。
本書は外交史としてよくまとまっている。
巻頭に朝鮮の地図がある。精読にあたって何度も眺めることだろう。
初めに日露戦争前の国際情勢について、簡単な説明が30ページほど。
次に地図、鉄道、朝鮮半島など地政学的に無視できない地理の解説があり、主題として日露の利権及び外交交渉を扱っている。
戦争については、5~7章でサッと流している。奉天、遼陽、日本海海戦あたりだけはやや詳しく描かれている、といったところ。
終章にて講和とその後の日露両国の行方について触れている。
初版は2005年。
巻末の参考文献にも比較的新しいものが多いので、まだ生き残っているものが多いのではないかと思う。