明治初期、日本の将来を憂い、日本のために私立大学を創立しようとした福沢諭吉、大隈重信そして新島襄。この3人は「独立不羈(倜儻不羈)」の先覚者であり、かつそのような人材を育成し国家の独立を守ろうとした。その理念を、慶応義塾は「独立自尊」、早稲田は「学問の独立」、同志社は「自由・自治・自立」と表現する。
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○「独立自尊」:個人の独立があってこそ国家の独立がある。その個人の独立の中身は、自由と平等。また、個人の確立には経済的自立と科学的に実証する姿勢が重要。経済と実証科学を重視する。
○「学問の独立」:権力や時勢に左右されることなく学問を教授し、学ぶ者は精神の独立した人格を身につける。こうして、国民一人ひとりが精神的に独立して初めて、国家の独立があるという。
○「自由・自治・自立」:知徳並行教育が必要である。知育は真理の探究を旨とするリベラルアーツ教育、徳育はキリスト教主義(聖書)に基づく「良心」教育による。こうして個人の自由・自治・自立があってこそ、社会の改良(隆盛)が可能になる。
これら校祖に共通するもう一つの点は、アメリカの影響が大きいことである。このため、「明治14年の政変」において、米英をモデルとした憲法案がドイツプロシア憲法案に敗北したことは、大隈重信らの下野といった単なる政争にとどまらず、私立大学の創設に大きな障壁となった。これはドイツをモデルとした「教育令」の改正、大学は官立しか認めない「帝国大学令」、「大日本帝国憲法」「教育勅語」の制定による全体主義化、私学の学生は徴兵猶予を認めない「徴兵令」改正、そして官僚支配へと繋がったからである。キリスト教主義の同志社はさらに大きな困難を抱えたことは言うまでもない。法令に基づく私立大学の出現は、大正後期の1920年まで待たなければならなかった。
この3人の交流でいうと、福沢と新島の間だけが没交渉であった。その背景には、両者の教育観の違いもあるが、近代国家の国体に皇統の連続性にナショナリティの根幹を求める福沢は、キリスト教に対する強い危機感を持っていたことも大きい。これに関連して徳富蘇峰は、『国民之友』の社説「福沢諭吉君と新島襄君」の中で、福沢を「物質的知識の教育」の指導者で、一派編智主義の代表とする。一方新島を「精神的道徳」の普及に取り組む指導者として位置づけた。
徳富の福沢に対する批判は概して痛烈であるが、この態度について家永三郎は、「有力な思想家よりとるべきものを多く学び、然る後これを痛烈に批判して新たなる旗幟をひるがえすのが、古来より多くの独創的思想家の採った常套手段」であるとしたうえで、「主観的には新島襄の門下を以って自認した徳富は、客観的にはむしろ福沢の門下生であったと云わねばならぬ」(『日本近代思想史研究』)と断じている。
中曽根康弘元首相は、最も尊敬する人物として「新島襄」を挙げるが、その新島の高弟である徳富蘇峰を師として慕い、戦後通い詰めたという。その時蘇峰は、「これからの時代は流動するから、大局さえ失わないなら、大いに妥協しなさい」と助言したという。これは、今の時代にこそ大切な言葉であるし、福沢諭吉、大隈重信の生涯を振り返ってみても、大いに当てはまる言葉のように思う。