本書はこの遺跡巡りレポを載せるために使わせて貰ったのだが、勿論関連はある。というか、本書は吉備古墳巡りには通常手に入れることの出来る中では、必携で最高の本であることを付け加えておく。
快晴の日曜日、366回「古代吉備国を語る会」に実に10数年ぶりに参加した。私は90年代中頃から2000年代初めにかけて、ほぼ毎月のようにこの会に参加して、遺跡の見方、古墳の見方を学んだ。きちんと回れば、私たちの周りには、こんなにも遺跡があり、よく知られていない遺跡でも、よく知られていない遺跡こそ、面白いことがたくさん秘められているのだ、ということを、この会で具体的に学んだのである。「語る会」とあるけれども、部屋に籠もることは一切無い。常に1日かけて古代吉備を歩き通すのである。
今日のメニューはこうだ。
とき11月16日(日)10時集合、15:45解散
集合地 JR吉備(桃太郎)線吉備津駅
テーマ「吉備中山の遺跡群」
コース吉備津駅→吉備津神社→高麗寺跡藤原成親供養塔→石舟古墳→中山茶臼山古墳(伝吉備津彦陵)一岡山県古代吉備文化財センター(t)→矢藤治山墳丘墓→尾上車山古墳→尾上八幡宮遺跡→神力寺跡→一宮駅(行程10km)
1週間前に雨で順延になったことをフェイスブックで知った。石舟とか矢藤治山とか尾上車山とか、ずっと行きたくて場所が不明の古墳や墳丘墓が対象になっていて、とても楽しみにしていた。
案内役はᎠ氏、語る会会長である。30年以上経ってもまだお元気だというのが嬉しい。以前、案内役には良く教育委員会の考古学従事者が務めていた。専門的なことには質問しても質問しても答えてはくれるのは良いんだけど、大抵は本人の自説は述べない人ばかりだった。Ꭰ氏だけは違う。当時から日本第四位の造山古墳の大王墓説(※)を唱えていて、大和政権により捏造された歴史に批判的だった。彼の言説に頷くこと多いが、彼の専門は古墳時代文献史学であり、私の専門(※)は弥生時代後期考古学である。彼は色々力説するのだけど、私はいつも話半分に聴いている。
※「仁徳天皇は吉備の大王だった」という説である。大王墓説の1番大きい根拠は、造山古墳の築造時では、日本一の大きさだったことにある。大和政権が造山時に吉備に移っていたのだとしたら、日本書紀は色々嘘をついていることになり、とっても面白い。その後吉備王国は(何らかの形で)大和政権により制圧された。5世紀初めのことである。
※誤解無いように言うと、この場合の私は、専門=興味ある方向という意味。
さて吉備の中山は、全国で唯一、一宮神社たる吉備津神社と吉備津彦神社の2つを擁する小山である。D氏の主張は話半分に聞いているので、説得力以って説明できませんが、要はこうです(間違っていたらごめんなさい)。
本来の吉備の中山にあった神社は、格式の低い、カヤ氏が治める神社しかなかった。かつて大和政権は、吉備と大和とで作った。No.2が追い落とされる歴史の常として、その後吉備が冷遇され、神社も格式低いものしか建てられなかったためである。その証拠に、このカヤ地域からは決して大臣は出なかった。ここではなく周辺から大臣が出た。吉備上つ道(現在の真備地域)の吉備真備が最高であり、吉備下つ道(現在の和気地域)の和気清麻呂がそれに続く。しかし、平安時代852年、突然吉備津神社は四品に上がり、さらに一品、一宮に昇格する。これは、平安時代の怨念恐怖が彼ら貴族を襲ったためだ。菅原道真然り。吉備への冷遇も、彼らには負い目があったと見なくてはならない。こうやって、吉備中山の2つの神社は異例の昇格をした。
因みに、吉備中山は、私が弥生時代の最重要遺跡だとしている楯築遺跡からすれば日の出ずる山となり、お盆を伏せたような山で、ちょうど纏向遺跡の三輪山のような存在だ。一宮もニ社あるし、黒住教の本部もあるし、様々な遺跡もあるし、昔から一級の「聖なる山」神南備(かむなび)山である。
高麗寺跡藤原成親供養塔は、平安時代鹿ケ谷の密謀で失脚した藤原成親の流配地跡である。正に奥まった山の中で、基壇のみはしっかりした四畳半ほどの建物跡だった。案外狭いし、こんなん、殆ど牢獄。しかも藤原成親は、喜界島の俊成とは違い、どうやら殺されたらしい。
そこからかなり山の中を歩いて石舟塚古墳(6c-7c)にたどり着いた。立派な横穴式石室があり、石棺の蓋部分は一宮駅構内に置かれている。中に入れる巨石円墳である。
中山茶臼山古墳。思い出せば、始めてまともに見た。伝吉備津彦陵として宮内庁管轄。しかも、平成22年墳丘調査の結果、箸墓古墳の縮小版の可能性。後円部と前方部との高低差は少なく横から見てよくわかった。しかも、特殊器台型埴輪が出土したため、4c初めに比定できる。
昼食食べて、岡山県古代吉備文化財センターを少し観て、山行する。
矢藤治山墳丘墓。昔は古墳だったが、90-92年調査で、墳丘墓になる。宮山型特殊器台出土。3c中頃の前方後円墳型墳丘墓であり、箸墓古墳の直前の墳丘墓としてとても重要だ(つまり、箸墓古墳出現直前の前方後円墳である)。とても小さい。しかし、床面から舶載方格規◯鏡1面・勾玉1点・ガラス小玉50点、鉄斧、網の副葬品と木棺残欠及び朱が出土している(←しまった!これら副葬品の意味を聴くのを忘れてた)。突出部先はバチ状に開き、墳丘には葺石が見られ、特殊器台他に特殊壺、器台、甕等の弥生式土器の供献用具が出土した。D氏は、竪穴式石棺は、「吉備の個性であり、部屋の中で霊の引き継ぎをするための装置である。二人分の人間が(死体と次の王)入ることで、そういう儀式をやったのだ。これに似たことを、天皇の最近の継承儀式でもやったとあり、十分可能性がある」と述べた。勿論、D氏の自説だと断っている。十分に傾聴に値する。これを聞いただけでも今日来たかいがあった。
王権の引き継ぎ儀式は、楯築遺跡で頂点に達し、他は兎も角、吉備ではその後100年間は続いていたのである。
尾上車山古墳(4c後半)。臨海性大型前方後円墳である。茶臼山の後継と見られる。昔は、この下に大海が広がっていた。実は、過去2回この場所を探して見つからなかった。今回わかって嬉しい。そして、高低差が半端ない。後円部頂上から前方部を見れば、ほとんど小山から下を眺めるが如し。尤も、これこそが当時の前方後円墳の特徴なのだ。矢藤治から100年で、こんなにも前方後円墳は形が変わるのか!とビックリした。
その後、出所不明の古墳底部が境内にある尾上八幡宮遺跡、神力寺跡を見て、「かなり運動になった」古代を語る会が終わった。
大したことないので、旅の精算はしないが参加費、交通費、駐車場、昼食弁当含めて2555円しかかかってない(←結局言うんかい!)。
山道多く、なかなかハードな行程で、歩数は23032歩だった。