松尾剛次のレビュー一覧
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本書では『太平記』の性格を、室町幕府による南朝方の鎮魂だとしています。
『太平記』における南朝方の登場人物の怨霊の描写は多いです。
南朝方の死者の無念を慰めるため、後醍醐天皇や楠木正成といったキャラクターが亡くなった後も、引き続きフォーカスするというわけです。
しかし、延暦寺出身で法勝寺の僧という中立的な立場の恵鎮が書き、足利幕府が検閲しているので、幕府方が悪とされているわけでもありません。
また、儒教的道義論と仏教的因果応報論とが併存する思想を基調とする以上、南朝方を正義としては辻褄が合わなくなります。
同じ軍記物である平家物語に比べると、視点の中立性が高いうえに争乱期間が長いためにや -
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立正安国論を日蓮が書いたことは勿論知っていたが大まかな内容については知らなかった。
地震や飢饉、疫病などの災害の由来は国家が念仏を採用してるからで、それを捨てて正しい教えに帰依することが災害をなくし、国家を安寧ならしめる道
このことが立正安国論では説かれている。
客と主人の問答形式で、構成されているのも立正安国論の私が驚かされた点だ。
少々行き過ぎた思想(他宗の寺、塔を破壊し、他宗の僧の首を刎ねろなど)また、自分が祈祷しないと国は滅びるなど、中々にぶっ飛んだ思考の持ち主であることは間違いないが、随所に信者への気配り、優しさの心を持ったある意味カリスマ的存在であったと拝察する。
何度、法 -
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10月に鎌倉市民になったので読みました。
本書は鎌倉を「都市」と見なし、12世紀末から16世紀までを描いた歴史書です。
著者は鎌倉は「鎌倉末期から南北朝期には幕府によって公認された9つの繁華街のみならず山内一帯には建長寺、円覚寺の門前町が、極楽寺一帯には極楽寺の門前町が形成されていたのであり、武士のみならず僧侶や商人・職人ら町衆も多数暮らす複合都市であった」と記述します。興味深いのは各地に小京都があるように、茨城の古河、長野の上田のような小鎌倉が作られたこと。「鎌倉は東国の地方都市のモデルであった。それゆえ都市鎌倉は中世都市を理解するカギとなると考えている」と議論を発展させます。
鎌倉の本とい -
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<目次>
第1章 仏教とは何だろう
第2章 なぜ仏教を受けいれたのか~飛鳥・奈良・平安時代
第3章 中世仏教の新しさとは何か~鎌倉時代
第4章 どのように広がり、定着したのか~室町・戦国時代
第5章 江戸時代の仏教は堕落していたのか
第6章 明治維新はどんな意味を持つのか~明治から平成へ
<内容>
日本仏教史を専門にしていた著者の、大学退官記念のような本。新書の形態に合わせたコンパクトなまとめになっている。研究が進んで、かつてのように鎌倉新仏教が素晴らしい、という観点ではなく、明恵や叡尊、忍性などの様子も書かれているし、教科書よりも理解できる記述である。日蓮宗の展開や一向宗が広が -
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日本に広く浸透し、熱心な信者は少なくなってきているとは言え、日本最大の宗教である仏教。
自分の家も仏教だし、お寺に出かけ御朱印もいただく。(神社もだけど)
でどれだけ仏教のことを知っているの?と聞かれるとお恥ずかしい限りだったので、この本を手に取った。
そもそも仏教とは何か、日本が仏教を取り入れた理由は何かから、歴史的な変遷をテンポ良く説明してくれる。
もともと仏教は鎮護国家のために祈祷する宗教で、その中には個の救いや葬式等もなかった。そして、それを始めたのは、鎌倉時代 官僧から出た遁世僧たちだった。
明治の廃仏毀釈で、仏教界は大きな危機に陥ったものの、改革運動などで甦ったようだが、若い人の -
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ネタバレ[ 内容 ]
足利尊氏や新田義貞、楠木正成ら名だたる武将が活躍する『太平記』。
しかしこの名高い戦記物がめざしたのは、英雄譚と言うよりも、南北朝動乱を生きた、名もなき人人への鎮魂と救済ではなかったか。
怨霊の跋扈する、不条理にも見える物語世界が内包する『太平記』の精神とは。
また、登場人物たちの体現する儒教的道義論や因果応報論が担ったものとは何なのか。
単なる戦記物の枠を超えた『太平記』の世界はの招待。
[ 目次 ]
第1章 後醍醐天皇の物語としての『太平記』(三部構成のあらまし 物語を貫く主人公とは ほか)
第2章 登場人物から読む『太平記』(楠木正成 新田義貞 ほか)
第3章 『太平記』 -
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014
春日権現記絵かすがごんげんけんきえ
14c初め
中世の興福寺の史料
紀伊寺主が稚児と寝てる
枕元には、刀がある
020
戒 sila
律 vinaya
027
破戒は懺悔しても許されない
028
ブッダが故郷に戻った時
ブッダの養母マハー・パジャパティが出家を望んだ
ブッダはなかなか認めなかった
037
世界基準に準拠した日本の授戒
中国人の鑑真が来日
068
武田信玄が男色してた手紙が発見される
藤原頼長1120-56
少なくとも7人以上と男色
貴族の間に男色の輪ができていた
076
中世の寺院
関白太誠大臣 一条兼良の息子
興福寺大乗院尋尊1430-1 -
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頼朝により幕府が開かれた鎌倉。幕府滅亡後の室町時代には鎌倉府が置かれたこと、幕府将軍義教・関東管領上杉氏と持氏との対立により鎌倉府が一旦滅亡したこと、再興後再び争いとなり、鎌倉公方がその本拠地を古河に移した(古河公方)ことで、扇谷上杉氏が押さえたが、その後伊豆から後北条氏が進出したこと、などは一応の知識としては知っていた。
本書では、源氏、北条氏、鎌倉公方、関東管領という支配者の変遷とともに中世都市鎌倉の歴史を辿っていく。特に、時代時代に建立された寺院について、その発願者や時代による変遷について多くの知識を得ることができた。
本書を手にしながら、ぜひ鎌倉散策を楽しみたいものだ。