悪魔とは何か。正義とは何かという創作物語の対局にあるが、刷り込まれた感情と直結するイメージの中で、悲しみや悔しさ、憎しみに繋がるもの。「殺しの行為」を悪魔と呼ぶか、ヒーローと呼ぶか、結局は「文脈や物語」次第だ。かわいい子熊を殺したと言えば悪魔っぽいが、人食い熊を殺したと言えばヒーローだ。同様に、ヒトラーを処刑できたのならヒーロー扱いだっただろう。その点で、この世界は文脈を頼りにした集団催眠の状態にある。メディアからの情報を教育されたOSによって選別し、その認識を頼りに日々手探りしている。
ダークトライアドは人間に備わる〝悪魔的性質“で、ナルシストやマキャベリアン、サイコパシーがそれに当たるのだと本書はいう。しかし、人間に悪魔が定義できるだろうか。
恐らく、人間には正義も悪魔も定義できはしない。昨日殺した可愛い牛の親子を美味しく頂いて、テレビを見て戦争による被害者に同情した後で、スマホでお笑い動画を見る。それっぽい正義に浸って自らを正当化した後で、あの政党は本当に徴兵制を主張しないか、調べ始める。外国人が日本を食い物にするのは許せない。どう食い物にされたのか、肌感覚での実感がないままに、全てが嘘くさい正義感だ。
美しい自分。ダークトライアドが高い人は、レイプを正当化するという。だが、正当化とは、自分自身を許す事でしかなく、そこに客観的正当性はない。つまり、本来正義とは客観的評価、悪魔もまた他者による評価を要するのである。対して正当化とは、自分勝手な文脈という事だ。共有できぬ文脈こそ、物語における悲劇に他ならない。
評価軸の共有を否定しては、社会秩序は形成されない。他者との比較にこそ、関係性の原点がある。そして、比較には評価が必要である。評価ゆえの良し悪し、正義と悪魔。評価基準としての他者の視点。悪魔は、相手の価値観を飲み込み、いつでも正義に化ける怖さがある。
― 化ける怖さ。
ある日、目を覚ますと、日本は正義から悪魔に変わっている。道徳的に生きてきたはずの日常が、侵略を防ぐために憎しみ合い、奪い合う世界へ。相手の価値観に飲み込まれ、弱者から、悪魔へ仕立て上げられる。
ダークトライアドに最も近い存在があるとすれば、相手を飲み込もうとする派閥や国家ではあるまいか。民主主義の危険性が見え隠れする。