推し文化にまさに押し流されるようになり作品がコンテンツになった昨今、今更セカイ系を再考し現代のコンテンツに対してもセカイ系を見出しその文脈で批評するのがこの本だ。
しかしこの本は何と言っても論理が追いにくい。
というのも、作りて/受け手、社会/個人のような二項対立が無効化されることにこそ著者がセカイ系であることを読み込んでいるので、自ずと文章も着地した感覚が無くフワフワし続ける。
それでも、とうかだからこそ、現代の評価経済社会ゲームの自己説明を求められる枠組みから一時的に逃れる回路としてのセカイ系の必要性を感じた。