ひととおり読んだんだけど、自分のなかにまだ偏見があることが自覚できる。頭の一方では、男性が性暴力に遭うことがありそれが心身に傷を残すことも理解できるんだけど、もう一方で、とはいえ女性が性暴力に遭うのに比べれば……と思ってしまう。
読みながら思ったのは、男の性って自由奔放でいられるようでいてないがしろにされているなということ。それは性暴力に遭ったときにないがしろにされるというだけでなく、たとえば第二次性徴期を迎えるときの準備教育であったり巷の態度であったり、異性とかと性交渉するにあたっての準備教育に関してもそうだろう。十分な知識が与えられなかったり、大切にされたり守られていることが伝わっていないと、それにまつわることに関しては自分のことも他人のことも大切にできない。
男性が性暴力に遭ったときにありがちなのが、「男なのに性暴力に遭ってしまった」とかその際に勃起や射精したことで被害を被害と認識できない、認識しようとしないところにある。自分のなかで何とか理屈をつけて(合理化)消化・昇華しようとしたりもするが、それはなかなか簡単なことではない。自分に起きた衝撃的な出来事を定義づけることができないから苦しいのだといったように書中では述べられているが、腑に落ちる感じがした。
嫌な出来事だったとしても因果がわかったり自分の被害が認識できれば次へ進める。でもそれができなければ苦しいまま。そこに男性の性被害の場合は、男なのに性暴力に遭うとうことがあり得ないがために邪魔をしてしまう。男性が弱音や被害を表出できるようであるべき。たとえば、日本では「男は泣くな」みたいなことを言われがちだけど、韓国の男性なんかよく泣く姿を見せるよね。ことほどさように文化が違えば異なるくらいのものなんだから、男たちも自分たちで自分たちに枷をはずすような動きをしないとね。