ロンドン在住の女性ライターの阿倍菜穂子さんが、コリンウッド・イングラム(愛称チェリー)の人生を追い、孫達や関係者にインタビューして、桜を愛し、広めたイングラムシの功績を詳述しています。
イングラム氏は1902年、1906年、1926年と3回に渡って日本を訪れ、三度目のときは積極的に当時の日本に見られた多様な桜の穂木(接ぎ木にするための枝)を収集し、イギリスの自邸の広大な庭園に植栽し、さらにそれらの桜の苗木や枝を惜しみなく希望する人たちに分け与えて、イギリスでの桜ブームを支えた人であるそうだ。
本書で詳しく語られるのは江戸時代には実に多種多様な桜が人工栽培によって作られていたという事実である。日本には野生種の桜は10種類しかないが、栽培品種は400種にも及ぶそうだ。後者は里桜と呼ばれて、各地で愛されていた。江戸時代だけで250種を超す里桜が生まれたそうだ。これらの多様な桜により、開花時期もずれるし、花の大きさや、色も実に多彩であったそうだが、明治に入って以降、育ちが早く、花が一斉にさく染井吉野が日本全国で植えられ、里桜が駆逐されてしまったとか。
本書にはイングラム氏の桜収集の経緯のみならず、実は日本とイギリスの間に残る第二次大戦時の暗い側面も触れられている。イングラム氏の三男のアレスター氏の妻ダフニーは1940年に香港の軍事病院に赴任していたが、1941年末に日本軍が香港を占領した際、日本軍が収容されていた傷病兵を銃殺したり、看護婦を強姦したり、輪姦したり、その後、銃殺するなどの残虐行為に晒された。さらに三年間の収容所での生活は過酷を極めた生活であったことが述べられている。シンガポールでも同様の残虐行為があったそうだ。
1971年に昭和天皇がイギリスを訪問したときには、元捕虜達を中心に激しい抗議活動があったが、それには十分納得させられる日本軍による残酷な英人捕虜の扱いがあったのである。
本書ではまた第二次大戦中に「潔く散る」ことが奨励され、桜の花が舞い散る様を賞賛するプロパガンダが広められ、余計に一斉に咲いて、一斉に散る染井吉野の桜が称揚されることになったことにも注意を向けている。
本書はこのように単にイングラム氏の幅広い桜栽培の経緯を述べるに留まらず、日本における桜の歴史、第二次大戦中の日本軍によるイギリス人に対する野蛮の行為の歴史などにも触れ、江戸時代に多様な桜が鑑賞されたと同じように、多様なテーマに触れて我々を啓蒙してくれる希有な書となっている。
これからの日本は染井吉野が寿命を迎えたら、昔に栽培された里桜を導入すべきであると、強く感じさせられた。