興味深く拝読。後半に関してはしかるべき時に読む機会が訪れるのだろうということで。
想起したことは、「真性」とは各自にそなわる仏性であり、それは一切の無に帰することでしか感知えないものなのではないかという仮説。
観念による意味づけ、動機づけが働いている限り、そこへの扉は閉じたままである。
理想も、欲
...続きを読む望も、野心も、利他心も「かんがみる」必要はない。
真性とは言葉の世界が停止した時に初めて動き出すもの。
思うに「私」とは「意識」である。そして「乖離」である。
「真性」による心からの動きでない限り、「自理即利他」はありえぬ。
過度な追求もいらぬ。内なる声を聴き逃さない、体の声を敏感に察知する状態をつくることがなによりの扉。五感を閉ざし、意欲も閉ざす。
自分はいままで、一生懸命に書の技法をまなび、仏の智慧をまなんできた。しかし、字がじょうずになったとてなんになろう。仏道を知ったとてなんになろう。文章を学び、万巻の書を書き、世の中に有名になってもなんになろう。仏のいのちに体感感応し、自分の内心に平和がみたされ、悟りを得て安心立命を得て、社会と衆生の救済のために働けるようにならなくては何になろう。たいせつなのは、自分がいかなる人間であるということであり、仏のいのちの体得であり、内心の満足であり、内心の静謐であり、人格であり、心であり、徳であり、行であり、働きにあるのである。
それなのに自分は今日まで、自分の心をおろそかにし、自分の外部にすきを求めていたのである。自分の求めるものはほかになく、自分自身の心にあったのである。自分の心と行にこそ自分のもとめるべきものがあったのだ。仏を体感し自分の心中に得をやしない、落着きと安心とを得、永遠の生を体得し、悦びと法愛をもって、仏そのものになり。
秘法を実習しようとするときには、すべからく人間世界の思い煩いや工夫をすて、小智才覚の一切を放下し、かんがえること、見ること、話すこと、感ずること、一切の雑念など心の外部への活動を追い払ってしまい、からっぽになって。
各自が各自の本性にもとづいて本来の独自の道を進まなければならない。真理の法のみ心を正しくしかつ病を癒し、健康を保つものである。目に見えない天地自然の陰陽の調和の道と秩序にしたがっているかぎりは、病気にかからないものである。
菩薩の威容儀礼である、慈悲「自利即利他」「利他即自利」の道をまなび。
あなたの病気は禅病である。真理の究明に度をすごし、修養と精進の節度を失い、ついにこの病気にかかった。
人もしこの身体の自然の生理をわきまえず、修行中における精神の集中の方法と頭脳の使い方の節度をうしない、思念することが乱れ、かつ過度に失するときは、肺と心臓との生理的調和を欠き、身と心は相争い、血液は円満になめらかに循環せず、各内臓器官の機能を障害を生じ、、。
五欲に意欲を加えた六欲の執着を一切捨て去り、小智才覚をもはなち、あらゆる思いわずらいをはらい、うまれるときもらってきた、ただ一つの本性の性である生の一念となって、五感が外面的な作用を停止してしまったときこそ、人間本来の性、本然の生気は、脈々と内に働き出し、真気は髣髴として心身に満ちてくるのである。
小智才覚、および一切の理想、欲望、野心、執着の一切を捨て去って、そのままの心である無我の境になり。
なにものにもわずらわされない自由自在の境地
五感六感を超越した本心がひらけるのである。このときに他人にむかい、自分のあゆむべき道を訊ねるような愚かな真似をするようではいけない。各自のあゆむ運命はみな異なるものである。各人は自分の本来の使命にめざめて、自分のゆくべき道やじぶんのおこなうことについては、かならず自分の本心にて悟り、内なる声の導きにしたがうのがよい。
一切の「我」と「執着」と「外部へのはたらきかけ」とを放下せよ。
一切の過去にとらわれず、それを捨て去って、未来にも思い煩わされず、現在の心を無にし、空にし、うまれたての心、赤子の心、そのままの心、自然の心にせよ