佐藤真澄のレビュー一覧
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ネタバレ以前、原爆乙女のことを書かれた本を読んだが
尽力された方の娘さんのことだった
赤ちゃんの時に被爆され、町内で唯一生き残った赤ん坊
お父さんの職業は牧師さんで、原爆が落とされた時
紘子(こうこ)さんは、お母さんと2人だった
お父さんが2人を探しに来て見つけた時、
牧師の妻なのに、一緒にいた方の安否を気にしないとは何事だ!と、お母さんに怒っていたことを知った紘子さん
それ以来、お父さんのことがどこか苦手
お父さんは、原爆乙女を含む被爆者に対する仕事の関係で、家は留守がち
(原爆乙女の本を読んだ時は、すごい尽力された方の認識しかなかったが家族は寂しい思いをしていた)
紘子さんは、被爆した直後
一度生死を彷徨う時があったが、それ以降病気になることはなく元気に育つ
原爆が落ちた二日後に、山口から紘子さんのお母さんの妹さんが赤ちゃんをおんぶしながら心配して訪ねて来てくれた
その赤ちゃんは、被爆者となり数日後に亡くなってしまった
大人になるにつれ、被爆者という事を隠し広島から離れて原爆を忘れて生きるが
婚約者の家族に結婚を反対され破談し
次に結婚すると、原爆が原因なのか流産してしまう
いつまでたっても原爆からは逃れられない
中学生の頃には、裸に白い布一枚でいろいろな国の研究者たちの前に立たされ見世物にされたことで心の傷を負ってしまう
原爆を落とした副操縦士のキャプテン・ルイスを憎んでいたが対面した時に彼の涙を見て憎む相手を間違えてたことに気づく
彼も、原爆を落とした後の広島を見た時
とんでもないことをしてしまったと苦悩を抱えていた
後に精神科に通っていた
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Posted by ブクログ
広島の人も今では話題にも出てこない「長岡省吾」。原爆の遺物を集め平和記念資料館の必要性を訴え、初代館長となりその後も市長に継続を訴えてきた男性である。
1955年8月の平和記念資料館開館の翌年1956年5月には原子力平和利用博覧会が資料館で開催され、1958年9月にも広島復興大博覧会開催時に、資料館は原子力平和利用促進のため、「原子力科学館」と被爆資料と混在した施設となった。その後もその状態は続き、撤去されたは9年後であった。
1960年8月には浜井市長が記者会見で資料館を美術館に転用したいとの発言。これにも猛反発した長岡省吾。
こうしたある男性のお陰で、今日の平和記念資料館が本来の目的達成のために存続しているのである。
子ども向けの本となっているが、とてもわかり易く、有意義な本である。 -
Posted by ブクログ
広島に行く前に読みたかった!
タイトルにあるように、長岡省吾さんがどうやって広島平和記念資料館をつくったかを記した本で、ノンフィクションです。
立ち上げに尽力したどころか、この人がいなかったらこの施設なかったんじゃないか、というくらいの人物でした。
長岡省吾さんは、原爆が投下された当日は、別の場所にいたので助かったけど、次の日には被爆地に行っています。
そこで地獄のような惨状を目の当たりにし、この事実を残さねばという一心で、被爆した石などを拾い集めたことから始まっています。
次の日には現場にいたので、長岡省吾さんも被爆したそうです。原爆症に苦しみながらも、この現実をより多くの人々や世界に広めなければ、という情熱から行動し続ける姿に、とても胸を打たれました。
これは、児童書で子ども向けに描かれています。
なのでやたら専門的で難しいことはなく、かといって軽くなく、児童書だから文章もコンパクトにまとまってるのに、伝えるべきことはしっかり描いてある。
びっくりする程、分かり易く読みやすかったです。
大人にも読んでもらいたい!恥ずかしいながら、知らないことも沢山描いてありました。
ただ、小学生にはよく分からないかも…という表現や単語が少しあるし、少し刺激の強いエピソードや遺品写真もあるので、中学生以上が良いかもと思いました。
是非、修学旅行や旅行で広島に行く前にぜひ読んでもらいたいです。 -
Posted by ブクログ
広島平和記念資料館(原爆資料館)の初代館長である長岡省吾の、原爆投下から亡くなるまでの伝記。
8月6日、長岡は、現広島大学の嘱託として学生らと共に、帝国陸軍の依頼で山口県で地質調査を行っていた。長岡は地質学者である。その朝、大きな音を聞き広島の空に真っ黒な入道雲を見た。広島に原爆が投下されていた。
広島に戻った長岡は地獄の光景を目にする。
廃墟になった広島をらみて、呆然となった長岡だが、溶けた石を見て地質調査を始めることにする。
1945年の夏の終わりから長岡は瓦や石ころを拾って歩いた。リュックサックを背負いツルハシを持っている。他のにも、長岡と同じような男たちがいたが、彼らは金属スクラップを探して歩いていた。1円にもならない物を拾う長岡は、他の男たちからは不思議がられた。
やがて長岡は、地質調査から原爆の悲惨さが伝わる資料を残さなければと思い収集するものを広げていく。
周囲から理解されない日々を経て仲間が出来ていく。原子力発電の平和利用の展示をさせられるなどのその当時の世界も垣間見ることができる。
何かを成し遂げるには強い意志と粘り強い行動が必須であると改めて確認させられる。 -
Posted by ブクログ
あまり知られていない人の伝記に興味がある。知られていないということは、売りにくいわけで、それでも本になったのは、何らかの理由があるから。著者が被伝者に思い入れがある程、面白くなる。
この本は児童書なので、フリガナがあり、構成も親切だが、文章自体は特に子ども向けという訳でもない。章の終わりに注釈があるが、通常の説明以外に、「嘱託」「孤高」「喧伝」など語釈まで入っている。
長岡省吾という人物が広島では有名で、全国的には知られていないのかと思いきや、広島でも知られていないようで、彼がいたからできた平和記念資料館のどこにも(案内パンフレットにすら)その名前がないというのはショックだ。ただヒロシマの惨状から平和を訴えるだけでなく、科学者として、資料から測定をして、被害を正確に立証できるものとして残した功績は大きい。
大人としては、長岡が被爆直後の爆心地に入り、被害の証明とも言うべき資料の収集に力を注いだ前半より、高度経済成長の勢いに翻弄される後半に複雑な思いを持つ。
(今もこういうやり方は変わらないが)アメリカからのテコ入れで、政府・マスコミが一体となって原子力は「明るい未来のエネルギー」だから、どんどん利用しようという雰囲気を作り、被爆都市ではなく復興した都市としての広島をアピールしたいという行政・市民の思惑が一致した結果、原子力平和利用博覧会を、被爆の悲惨さを伝える平和記念資料館で行う(1956年)。また翌々年には、広島復興大博覧会の原子力資料館(原子力を使った飛行船や列車などの未来図を展示)を平和記念資料館で行い、連日入場制限をしなければならないほどの大盛況。
まだ被爆者も大勢生きている時代ですらこうである。経済成長することで、敗戦や被爆を出来る限り忘れたい(惨めだから)、できればなかったことにしたいという雰囲気は、確かにあったと記憶する。だから、長岡がどんなに悔しい思いをしたかもリアルに感じるのである。子どもはこれを読んでもそこまで感じないだろうけど。
東日本大震災のことも思わずにはいられなかった。まだ元の生活に戻れない人も大勢いるのに、復興したと言う政府。様々な利権が絡み、一部の経済的に力を持つ人々だけが得をし、もう大丈夫、原子力はやっぱり大事という操作された情報を鵜呑みにする人々はまんまと乗せられて、苦しんでいる人々を忘れる。
原爆ドームは、今や平和を祈念するシンボルとして確たるものとなっているように見えるが、1960年頃は新聞に「自分のアバタ面を世界に誇示し、同情を引こうとする貧乏根性を、広島市民はもはや精算しなければいけない」(P148)と書かれたという。アバタ面って‥‥。よくこんな文章を載せたなと唖然とする。どこの新聞だよ!(書いてない)
長岡が館長を退いたとき、ある新聞は彼のことを「偉大なバタ屋」(P178)と書いたという。バタ屋という言葉自体蔑みを感じるし、彼は被爆資料を集めて売りさばいたわけではない。本当に失礼極まりない。どこの新聞だよ!(悪口になりそうだから?書いてないのでしょう。)
なんというか、日本人の喉元過ぎれば精神をまざまざと見せつけられた気がした。
とても良い本だったが、唯一気になったのは時系列が前後する点。ちゃんと何年と書いてはあるが、後にあったことを先に書いてあったりして、子どもには分かりにくい。
巻末に長岡省吾と広島、平和記念資料館、その他被爆の歴史を年代順に表にしてあれば良かった。その方が、ほとんど知識のない人にもわかりやすいし、平和学習(今はあんまりしないみたいだけど)の資料にもなったと思う。
あと、個人的には長岡省吾の前半生を書いて欲しかった。ハワイ生まれで広島に育ち、10代で満州に行き、帰国して広島文理大学(現在の広島大学)の地質学の教員となる、ってかなり波乱の人生である。でも、多分、資料がなかったのだろう。生きている彼の子孫から辛うじて人となりを聞き取ったのではないか、と思われる。(巻末の協力者に子孫と思しき方の名前がある。)
マスコミや政府の情報操作に気をつけようと思えるので、大人にも読んで欲しい。