佐藤真澄のレビュー一覧
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ネタバレ以前、原爆乙女のことを書かれた本を読んだが
尽力された方の娘さんのことだった
赤ちゃんの時に被爆され、町内で唯一生き残った赤ん坊
お父さんの職業は牧師さんで、原爆が落とされた時
紘子(こうこ)さんは、お母さんと2人だった
お父さんが2人を探しに来て見つけた時、
牧師の妻なのに、一緒にいた方の安否を気にしないとは何事だ!と、お母さんに怒っていたことを知った紘子さん
それ以来、お父さんのことがどこか苦手
お父さんは、原爆乙女を含む被爆者に対する仕事の関係で、家は留守がち
(原爆乙女の本を読んだ時は、すごい尽力された方の認識しかなかったが家族は寂しい思いをしていた)
紘子さんは、被爆した直後 -
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広島の人も今では話題にも出てこない「長岡省吾」。原爆の遺物を集め平和記念資料館の必要性を訴え、初代館長となりその後も市長に継続を訴えてきた男性である。
1955年8月の平和記念資料館開館の翌年1956年5月には原子力平和利用博覧会が資料館で開催され、1958年9月にも広島復興大博覧会開催時に、資料館は原子力平和利用促進のため、「原子力科学館」と被爆資料と混在した施設となった。その後もその状態は続き、撤去されたは9年後であった。
1960年8月には浜井市長が記者会見で資料館を美術館に転用したいとの発言。これにも猛反発した長岡省吾。
こうしたある男性のお陰で、今日の平和記念資料館が本来の目的達成の -
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広島に行く前に読みたかった!
タイトルにあるように、長岡省吾さんがどうやって広島平和記念資料館をつくったかを記した本で、ノンフィクションです。
立ち上げに尽力したどころか、この人がいなかったらこの施設なかったんじゃないか、というくらいの人物でした。
長岡省吾さんは、原爆が投下された当日は、別の場所にいたので助かったけど、次の日には被爆地に行っています。
そこで地獄のような惨状を目の当たりにし、この事実を残さねばという一心で、被爆した石などを拾い集めたことから始まっています。
次の日には現場にいたので、長岡省吾さんも被爆したそうです。原爆症に苦しみながらも、この現実をより多くの人々や世界に広めな -
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広島平和記念資料館(原爆資料館)の初代館長である長岡省吾の、原爆投下から亡くなるまでの伝記。
8月6日、長岡は、現広島大学の嘱託として学生らと共に、帝国陸軍の依頼で山口県で地質調査を行っていた。長岡は地質学者である。その朝、大きな音を聞き広島の空に真っ黒な入道雲を見た。広島に原爆が投下されていた。
広島に戻った長岡は地獄の光景を目にする。
廃墟になった広島をらみて、呆然となった長岡だが、溶けた石を見て地質調査を始めることにする。
1945年の夏の終わりから長岡は瓦や石ころを拾って歩いた。リュックサックを背負いツルハシを持っている。他のにも、長岡と同じような男たちがいたが、彼らは金属スクラップを -
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あまり知られていない人の伝記に興味がある。知られていないということは、売りにくいわけで、それでも本になったのは、何らかの理由があるから。著者が被伝者に思い入れがある程、面白くなる。
この本は児童書なので、フリガナがあり、構成も親切だが、文章自体は特に子ども向けという訳でもない。章の終わりに注釈があるが、通常の説明以外に、「嘱託」「孤高」「喧伝」など語釈まで入っている。
長岡省吾という人物が広島では有名で、全国的には知られていないのかと思いきや、広島でも知られていないようで、彼がいたからできた平和記念資料館のどこにも(案内パンフレットにすら)その名前がないというのはショックだ。ただヒロシマの惨